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私が心から「やっぱり棟方志功は凄い!」と素直に思えたのは今から30年ほど前、駒場の日本民藝館で《運命頌》を観たときが初めてだった。
その当時、美術学校で木版画を学んでいた私は、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を愛読しており、本に書かれている永劫回帰や宿命、超人といった壮大なスケールの思想について思いを馳せている最中だったので、まさにドンピシャリ『ツァラトゥストラ』の冒頭から画題を引用した作品に魅かれたのは全くの必然であった。
民藝館の踊り場壁面に展示されていた《運命頌》は、4点組みのうち「深夜の柵」と「黎明の柵」の2点で、縦横90cmほどの正方形の和紙に刷られた黒々とした陰刻の木版画だった。まるで魔の侵入を恐れるかのように画面いっぱいに刻まれた線、その細かい版木の窪みに墨汁が滲み、図像は禍々しい塊となってゆく。伝統的な刺青のように全身を文様で装飾された人物が、びっしりと彫られたニーチェの言葉の中に浮かんでいる…「これは縄文土器と同じ“呪物”だな」と私は直感した。
この《運命頌》との出会いは、それまで何となく眼中に入れないようにしてきた棟方志功が、急に理解し合える同志のように現れた瞬間だった…というと大袈裟ではあるが、それだけ一方的に敬遠してきたのは事実である。
棟方志功を好意的に思えなかった理由。それは棟方志功のアトリエに画材を届ける出入り業者だった祖父から聞かされた人物像の影響で、ここに書くのも憚られる(ド近眼・ズーズー弁・非常識でだらしない等)無礼千万な言葉の数々によって植え付けられた先入観は、子供の私から公正に観る目を奪ってしまったのだった。戦前戦後にわたり日本画と書の材料専門店の番頭として、画壇の大先生や著名な家元を相手に仕事をしてきた祖父にとって、東北出身の天真爛漫なスター作家は異質な存在で受け入れ難かったに違いない(旧東京市が世界の中心という誤った認識は死ぬまで治らなかった)。
ともかく私は《運命頌》を観た衝撃で差別と偏見で曇ったフィルターを外すことができ、この度「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」にて再び《運命頌》と対面することに相成ったのだ。これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶか? あらためてムナカタの全仕事を回顧する展覧会を観て、作風の変遷や本人を撮影した記録映像を「面白く」大いに楽しんだ。
展覧会のはじめの方では、貴重な青森時代の資料や初期の作品が展示されており、今まで見たことがない青年ムナカタを知ることができる。とても意外だったのは上京前の20歳頃に撮ったポートレートで、天然ウエーブのボブヘアーに銀縁メガネの若者は、田舎の素朴な少年というよりも、むしろ東京のインテリ学生のようだ。方言丸出しの面白い芸術家というキャラクター以前のモダンな姿に「わだばゴッホになる」の野心を見た思いがした(ちなみに私は日本のキルヒナーになりたかった)。
駆け出しの時代、世界のムナカタと認められた全盛期、晩年に至るまでの膨大な作品群によって彩られた生涯。その熱量は生半可なものではなく仕事の速さや完成度に圧倒される。しかも交流の幅は大変に広く活発で、民藝をはじめ様々なグループに参加し、戦時中には大政翼賛会発行の絵葉書まで請け負ってしまうほどだ(ルーズヴェルトとチャーチル?の頭上に日の丸の爆弾が落とされている醜悪な絵柄の絵葉書。私はこれの直筆宛名入りをヤフオクで発見し落札しそこなったことがある!)。
あけすけとも言える功名心、節操が無いように思える人付き合いの良さ…隙だらけの愛されキャラを武器にして棟方志功は自身の芸術を完成させたのか? 展覧会鑑賞後しばらくは事の善悪を基準に考えてみたが「赤く頬を染めた色っぽい弁財天が聖も俗も兼ね備えているように、棟方志功の作品には聖俗の隔てが無く、おそらく本人もそうだろう」と、このような考えに至った。
私が最初に感銘を受けた《運命頌》には近代的な美徳を否定する「ディオニソス的な」ものがあり、縄文的な感覚があった。清濁併せ吞む原始的なおおらかさが棟方志功の魅力なのだ。
“板極道”を歩む渡世人のしたたかさと、芸術に対する純粋な情熱、惜しみないサービス精神…。棟方志功が残していった元気には、間違いなく絶大な魂振り効果がある! 細かい事をあげつらう世の中に疲れた人にはもってこいの展覧会だと言える。
『現代の眼』638号
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