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現代の眼 展覧会レビュー 日和さんのカルパ—日和崎尊夫作品に寄せて—

小林敬生 (版画家)

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日和崎尊夫を私たちは“日和さん”と呼んでいました。畏敬と親しみを込めて…。

日本に於ける木口木版画は明治20年代に合田清がヨーロッパからその技法を持ち帰り、多くの職人たちを育てましたが、写真製版の技術革新によって廃れ、戦前には長谷川潔、平塚運一らによる創作版画としての作例はあるものの、日和崎尊夫は彼らの伝統とは全く切れたところで独自に木口木版画を創り出しました(鍵岡正謹「カルバは駆けぬけ—日和崎尊夫 人と作品」『日和崎尊夫 木口木版画の世界—闇を刻む詩人』高知県立美術館、1995年)。まさに日和さんは木口木版画に新たな地平を切り拓いた開拓者と言えましょう。

更に言えば日和さんの存在がなかったなら現在日本の版画界で活躍する木口木版画家の大半が誕生することはなかったと私は断言します。中国で輩出しつつある作家たちも又…。

木口木版画の第一人者と呼ばれる柄澤齊は1970年20歳の時にシロタ画廊が刊行した日和さんと島岡晨による詩画集『卵』に強く惹かれて以来日和さんを師と仰ぎ、後に続く山本進や栗田政裕はその柄澤の指導を受け作家生活をスタートさせています。そして私は1974年30歳の時、日和さんの《KALPA X》《KALPA 夜》に目を奪われて初めて木口木版なるものの存在を知ったのです。

木口木版画は通常下絵に添ってなぞるように彫る、あるいはビュランで描くように彫るのですが日和さんの特徴は、遺作展図録のサブタイトルに「闇を刻む詩人」とある如く“刻む”ところにあります。

今回の展示作品で言えば1968年の《KALPA—羊歯》《KALPA 沼》まではビュランで描くように彫っていますが1969年の《脚》以降はビュランで刻み、その痕跡とその集積で画面を構築するようになっていきます。

私が初めて大判の椿を手に入れ磨き上げた時、気が付いたことがあります。樹齢300年はゆうに超えるその年輪が織りなす世界からはこの樹が風雪に耐え生きて来た歳月の物語が透けて見えるようでした。

日和さんはここに〈カルパ〉を見たのだ!
と直感しました。

その意味で日和さんのカルパ・シリーズは木口木版画の原点とも言うべき作品でこれを超えることは望むべくもない、とすら思ったものです。

木口木版画は「その[版面の]上を黒いインクで覆う、[中略]版面は黒一色の闇である。この暗闇に光りを当てる、つまりビュランで刻むことだ」(日和崎尊夫「木口木版画 鑑賞のためのテクニック」『版画藝術』1973年2号)。版面を黒く覆うことによって年輪の中に息づく精霊たちを闇に閉じ込め、ビュランによって再び蘇らせる。日和さんにとって闇は宇宙であり、ビュランの痕跡は光そのものだったのでしょう。

ビュランの痕跡が増殖していくにつれて湧き上がり拡がりを見せる内なるイメージに身を委ねる。日和崎尊夫の作品世界はこうして生まれたのだと私は思っています。

今回の展示作品で言うなら1969年の《脚》から1976年の《ANTARA KALPA》までが日和さんの最盛期とも言うべき時代の作品たちで《海渕の薔薇》[図1]をはじめとするこの時期のすべての作品をカルパ・シリーズと私は位置づけています。

図1 日和崎尊夫《海渕の薔薇》1972年、東京国立近代美術館蔵

この時代、1972年第8回展で高松次郎がゼロックスコピーを活用した作品で受賞するなど東京国際版画ビエンナーレを舞台に新しい版表現が次々と抬頭する中、日和さんはその風潮に惑わされることなくただひたすら版を刻し続けたのです。

宇宙論的な想像を超越する極めて永い時間を意味するカルパ=を追い求める日和さんにとっては時代の風潮など刹那・・にしか過ぎなかったということでしょう。

今一つ、気になる作品があります。1988年の《永劫回帰》[図2]です。1982年高知に帰郷、白椿荘にこもり殆ど新作を発表することがなかった時期の久々の新作です。自身が創設に力を尽くした高知国際版画トリエンナーレ第1回展に出品された作品であることを考えると実に感慨深いものがあります。数年間の空白を乗り越えようと必死の思いで自身を奮い立たせビュランを手にする日和さんの姿が目に浮かびます。「永劫回帰」。生の絶対的肯定を意味するこの画題から推し量ってみても日和さんは先を見据えていたと思います。

図2 日和崎尊夫《永劫回帰》1988年、東京国立近代美術館蔵

ただ日和さん亡き今になってみるとこの作品はカルパ・シリーズを締め括る最後の作品で、ロウソクの灯が消える直前の最期の輝きとも思えてしまいますが。

1989年の《新世界》、1990年の《OPAKA》ではあれ程までにこだわり続けたビュランの痕跡は全くなく、釘やネジ、ゼムピンなどモノの痕跡だけで構成されています。

現代美術の中でモノの痕跡を活用した作品は数多くありそれなりの意味を持つのですが、日和さんの場合かたくなまでに守り続けた牙城を自らの手で崩してしまうとは…と哀しくさえ感じてしまいます。

ビュランの痕跡こそが日和さん自身の痕跡であり生の証しでもあったのですから…。

日和崎尊夫、1991年11月病を得て入院、1992年4月29日食道癌のため逝去。享年50歳。

図3 会場風景(7室)|撮影:大谷一郎

追記 今回の展示、日和崎作品の展示室に隣接して1970年代を象徴する作品が展示されていました。あの時代の美術潮流の中で日和崎尊夫の存在は何を意味するのか…。そうした比較も楽しく、企画した学芸員に拍手!!です。


『現代の眼』638号

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