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本展覧会は、ハニワをめぐる表象と認識の変遷を的確に追っており、画期的だった。一方で、土偶については消化不良で論点が定まらない展示だった。
近現代日本において、ハニワと土偶の扱われ方は、全く異なる。ポイントは天皇の存在にある。
ハニワは3世紀後半から6世紀後半にかけて造られた造形物で、天皇制国家の形成過程と重なる。そのため天皇への随順や殉死の象徴とみなされ、君民協同の理想社会のモチーフとして利用された。時には、武人姿のハニワの表情に若き兵士の顔が重ね合わされ、戦意高揚の一翼を担った。ハニワは戦前・戦中の日本の国体イデオロギーを担う役割を与えられたのである。
一方、土偶は天皇以前の存在であり、戦前・戦中の国体論の枠外に置かれた。戦前期の国定教科書では、「国史」の始まりは「天照大神」であり、天皇以前の縄文が介在する余地はなかった。むしろ土偶の存在は、天皇制国家との整合性がとれないために、「国史」から除外され、奇異な存在として等閑視された。
しかし、敗戦後、状況が一変する。国体論の軛から解放された国民は、古代史への関心を高め、新たな「日本人」の自画像の確立を模索した。同時期には、在野の考古学者・相沢忠洋が関東ローム層の中から打製石器を発見し、日本に旧石器時代が存在したことが明らかになった。また、登呂遺跡の本格的発掘が行われ、考古学ブームが巻き起こった。
そのような中で、縄文に新たな光を当てたのが岡本太郎だった。1951年秋に東京国立博物館で開催された特別展示「日本古代文化展」を見た岡本は、血が沸き立つような興奮を覚え、「縄文土器論—四次元との対話」を書いた。彼は縄文土器に見られる非対称で不均衡の「破調」にディオニソス的美を見いだし、日本の伝統観を刷新しようとした。
同時代には、民藝運動に携わる人々も、縄文への関心を深めた。芸術家による「美術」ではなく、無名の職人たちの「工芸」の中に無作為の美を見いだした彼らは、その究極の姿を縄文土器や土偶の中に求めた。
このような縄文観が流布する中で展開されたのが、1950年代半ば以降の建築における伝統論争だった。議論の大きなきっかけとなったのは、白井晟一が『新建築』1956年8月号に寄稿した「縄文的なるもの—江川氏旧韮山館について」だった。「江川氏旧韮山館」は17世紀初頭に建てられた武家屋敷だが、白井はこの建物に「文化の香りとは遠い生活の原始性の勁さ」を読み取り、そこに「縄文的なポテンシャル」を見いだした。白井は、優雅で繊細な貴族的文化に対して、大地に根差した生活の生々しさの中に「野武士の体臭」を嗅ぎ取り、そのあり方を「縄文的なるもの」とみなした。
「縄文」vs「弥生」論には、日本文化を貴族というブルジョアではなく、土着世界の担い手である民衆レベルから定位し直したいという階級的認識が介在するようになる。弥生に対する縄文礼賛は、ブルジョア対プロレタリアートという階級闘争とつながり、1960年代の左派による縄文論を準備することとなった。
1960年代から70年代の左派にとって、縄文への回帰は、天皇制の超克とつながっていた。1961年以降、「ヤポネシア論」を唱えた島尾敏雄は、南島という「異郷」の中に「原日本」を見いだし、そこを「救魂の場所」とみなした。島尾にとっての「ヤポネシア」は、時間的には天皇以前の縄文と結びつき、空間的には日本という枠組みを超えて南洋へとつながっていた。
島尾と同志的関係にあった吉本隆明は、「ヤポネシア」と連動する形で、共同幻想論を構想した。吉本が挑んだのは、天皇制国家の起源だった。彼は天皇制国家を共同幻想の拡張によって生み出された存在とみなし、共同幻想が成立する以前の原初共同体を想起することで、日本人を天皇制の呪縛から解放しようとした。縄文は、日本をヤマトから解放し、天皇から解放する。吉本は、国家以前の日本の始原に回帰することで、天皇制国家のあり方を乗り越えようとした。
〈天皇と結びついたハニワ〉と〈天皇の超克と結びついた土偶〉。
前者はアポロン的な日本イメージと結びつき、後者はディオニソス的な日本イメージと結びついた。この自画像の闘争こそが、「ハニワの近代」と「土偶の近代」の衝突だったといえる。
展示では、土偶認識(及び縄文認識)についての考察が不十分であったために、なぜ土偶が取り上げられているのかが不鮮明だった。この点が残念だった。
『現代の眼』639号
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