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現代の眼 展覧会レビュー 現代の眼から/現代の眼へ  

小田原のどか (彫刻家・評論家)

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美術館とはどのような場であろうか。とくにその美術館が「近代」を冠する国立美術館である場合には。「ハニワと土偶の近代」展は、「現代の眼」への言及を通じ、そうした問いをあらためて突きつける。

東京国立近代美術館の開館2年目、1954年に始まった「現代の眼」展は、以後、断続的に同館で開催されるも、72年で打ち止めとなった。「現代の眼」展の初回は、「現代の眼:日本美術史から」と題され、縄文から江戸までの古美術品のみで構成された。館の設計者、建築家・谷口吉郎が手がけた展示の見せ場となったのが、ハニワ群像のインスタレーションだ。「ハニワと土偶の近代」展においても、テラコッタや木彫など出土遺物のイメージを伴う1950年代の立体作品の一群が格好の撮影場所としてハイライトとなり、ふたつの展覧会を重ね見る機会がつくられている。

図1 会場風景|撮影:木奥惠三

ここで「現代の眼」とは、「過去の美術を現代の眼で見直し、新しい美を引き出す」こと、「過去の眼と決別すること」と説明された。加えて注意が払われるのが、「過去の眼」との決別と表裏一体の「忘却」である。「ハニワと土偶の近代」展における「現代の眼」展の参照は、「現代」から「近代」をまなざす装置としての東京国立近代美術館なる存在を浮かび上がらせるための助走であったと言えよう。

「ハニワと土偶の近代」展が、東京国立博物館「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」の開催時期と重なったことも意義深い。特別展「はにわ」は、1973年の特別展観「はにわ」、同展から50年を記念した2023年「はにわ展から50年」展を経て、満を持しての感があった。東京国立博物館が所蔵するハニワの大半は明治から昭和初期にかけて出土したものである。そうして「出土」したものがいかなる「夢」を託され、「歴史」に作用してきたのか、東京国立博物館が踏み込まなかったように思えるそれらの問いを、「ハニワと土偶の近代」展は引き受けた。同展は、ハニワなどの出土品に託された「歴史の正統性」という「夢」と、皇国史観への寄与を焦点化した。天皇を中心とする皇国史観に基づく建国神話による歴史記述は敗戦を経て占領下で検閲の対象となるが、こうした事実は「忘却」されていると言ってよい。 

折しも「ハニワと土偶の近代」展開催中に、近代日本美術の研究・調査を目的に設立された明治美術学会の設立40周年を記念し、「明治から/明治へ—書き直し近代日本美術」を掲げた国際シンポジウムが開催された。英セインズベリー日本藝研究所教授の渡辺俊夫氏は基調講演で、美術における「カノン(規範、正典)」をめぐり、普遍的な価値観は存在しないとし、「近代」「日本」「美術」の各概念の流動性を前提とする議論が展開された。こうした前提は、「ハニワと土偶の近代」展の担当学芸員である花井久穂氏と、非学会員であるわたしが登壇した2日目の討議にも引き継がれた。

西洋中心の普遍的な美術を自明とし、「過去の美術を現代の眼で見直し、新しい姿を引き出す」のではなく、「美術」を自明とする「現代の眼」をこそ疑う必要がある。そうした姿勢をもって、渡辺氏のもとで研究を修めた文化研究者の山本浩貴氏とともに『この国(近代日本)の芸術:〈日本美術史〉を脱帝国主義化する』を編纂したが、「忘却」を直視せず「書き直し」を進めるだけでは片手落ちである。

「近代」を冠する国立美術館における自問が「ハニワと土偶の近代」展となり、「西洋」を冠する国立美術館における自問が、「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?——国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」展となったようにわたしには思える。こうした得がたい機会の重なりを、一過性の潮流にとどめてはならない。いまこそ、問い直し/書き直しの主体の多様性を担保することが必要だ。

図2 会場風景|撮影:木奥惠三|壁面左から2点目が野島青茲《博物館》1949年、静岡県立美術館蔵

「ハニワと土偶の近代」展で紹介された、展示ケースに並ぶ出土品のハニワや弥生式土器を眺める女性たちの姿を描いた桑原喜八郎《埴輪の部屋》(1942年)や、野島青茲の日本画《博物館》(1949年)は、本展の文脈に照らすことでいっそう、男性中心のまなざしが強く作用してきた美術史の点検を促すものとして見ることができた。

普遍的な美術史は存在しない。ただひとつの正典に収斂させるのではなく、複数の歴史の結び目となり、それを何度でもほどき、ひもとく場、「眼」をめぐる点検の場が、美術館であろう。「ハニワと土偶の近代」展の目論見もまた、ここにつながっている。 

『現代の眼』639号

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