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現代の眼 新しいコレクション 織田一磨《憂鬱の谷》1909年 

森卓也 (美術課研究補佐員)

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織田一磨(1882–1956)
《憂鬱の谷》
1909年
水彩、鉛筆・紙
48.8×66.4cm
2023(令和5)年度寄贈

当館は2023(令和5)年度に織田一磨の水彩画6点と版画1点をご寄贈いただきました。大正・昭和初期にかけて変貌を遂げてゆく都市風景を捉えた石版画で有名な織田ですが、初期には水彩画家として画業をスタートさせています。 
 《憂鬱の谷》は1909年に開催された第3回文部省美術展覧会(文展)の出品作で、省線信濃町駅付近の谷間にひっそりと佇む寂れた民家が描かれています。文学的な響きのあるタイトルのとおり、曇り空の広がる沈んだ灰色の画調が特徴的な作品です。画面手前に小さく描かれた、袈裟のような服を着た人物がうつむき加減で立っているさまが、寂寞(せきばく)とした雰囲気をいっそう強調しています。
 さて第3回文展といえば、山脇信徳の油彩画《停車場の朝》が出品された年であり、その印象派的な作風の評価をめぐって「生の芸術」論争が起こったことでも知られています。同作に「生」の表出を認めて好意的に評した高村光太郎に対して、石井柏亭は写実的立場から日本固有の地方色を尊ぶという観点においてその表現を否定しました。織田もまた同様の観点からこの作品を批判していますが、石井の論点と少し異なるのは、批判の矛先が対象を描くタイミング、つまり停車場の“朝”を選択したことにも向けられた点でした。その理由について織田は「朝は希望が多過ぎるからだ。停車場なる物に対して起るミスチックの感じを薄める嫌ひがあるからだ」1と説明しています。「灰色、深緑、萸土(ママ)、黒藍、是れ東都の色彩であらう。否日本の色彩である。予は斯く沈鬱なる自然の中に生れ、幸にも画筆を執つて此悲観的な自然を研究することの出来る生活を喜ぶのである」2と述べる織田にとっては、曇りの日こそが日本の自然の本質を捉えるベストなタイミングでした。《憂鬱の谷》の制作時には曇りの日がなかなか続かず、曇ったと思って出かけても途中で日が出てきてしまい全く写生できずに帰る羽目になったなど、かなり骨が折れたと後に回想しています3
 こうした制作の姿勢からは、織田が《停車場の朝》には否定的でありながらも主観的な表現を重要視していた様子がうかがえます。織田は自らの制作について「自分の心裡を描き現さんために自然の形態を借りて来るのである」4と述べています。その背景には、創作版画運動を展開したメンバーたちが創刊した同人雑誌『方寸』や、反自然主義を掲げた青年文芸家・美術家の集まりであるパンの会との交流の影響があったのかもしれません。「緑色の太陽」とまではいかないながらも、対象を描くタイミングの工夫によって主観的な表現を模索した本作は、明治から大正に至るまでの洋画の変遷を辿る意味でも興味深い作品といえるのではないでしょうか。

1 織田一磨「日本の自然と光の絵画本位」『東京朝日新聞』1910年2月23日、3頁
2 織田一磨「灰色の市街」『方寸』4巻1号、1910年1月、4頁
3 織田一磨『武蔵野の記録』洸林堂書房、1944年、385頁
4 織田一磨「僕の絵」『みづゑ』95号、1913年1月、11頁


『現代の眼』639号

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