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もし19世紀ロシアの作曲家ムソルグスキーが、時空を越えて2025年の東京に舞い降り、東京国立近代美術館で開催中の「記録をひらく 記憶をつむぐ」展に足を踏み入れたなら——きっと、目の前の作品群から新たな組曲《展覧会の絵》を編み上げたことだろう。プロムナードの旋律を思い浮かべながら、筆者も9月下旬の澄みわたる午前、美術館の扉を押した。
戦後80年の節目に企画されたこの展覧会は、戦争美術コレクションを軸に、写真や文学を交えて作品やジャンルを響き合わせ、戦争の記憶を多声的に紡ぐ壮大な試みである。7月15日の開幕以来、口コミやSNSで評判が広がった。筆者が訪れた日も、平日とは思えぬ長蛇の列が開館前から伸び、入口のバナー前では、カメラを構える来館者の姿も目立った。
そのバナーを飾るのは、松本竣介の《並木道》(1943年)[図1]。青緑の光に包まれた道を、一人の人物がゆっくりと歩む。旗も銃声もなく、ただ静けさが広がる。戦争の最中に描かれたとは信じがたいほどの穏やかさが、かえって時代の異様さを際立たせる。

この絵は、「絵画は何を伝えたか」と題される第1章の後半に置かれている[図2]。直前には、戦場の叫びが聞こえそうな陸軍省ポスター《撃ちてし止まむ》や、空中戦の緊迫感を描いた御厨(みくりや)純一《ニューギニア沖東方敵機動部隊強襲》が並び、戦意高揚の大合唱が展示空間を満たしている。そんな喧噪のなか、《並木道》はまるで静かな休止符のように浮かび上がる異質な声部であり、その無言の旋律に、筆者は戦争の轟音の合間でかすかに響く、救いの音を聞いた思いがした。圧迫的な戦意の波のなかで、ほんの一瞬、人間性の回復を感じさせる静かな呼吸のような存在が、ここにあったのである。

そして、満洲観光史を研究する筆者が深く惹きつけられたのは、第2章「アジアへの/からのまなざし」であった。戦前のアジアは、日本人にとって植民地であり、戦場であり、同時に観光地でもあった。その多層的な現実は、展示空間の配置にも表れている。戦場を描いた戦争画のすぐ隣に、同地域の風景画や南満洲鉄道株式会社(満鉄)のガイドブック、満洲観光聯盟の絵はがきが並ぶことで、戦争と観光が交錯し、互いに響き合う二重のリズムを生み出す。観光の軽やかな旋律の背後に、戦争という重い和音がひそむことに気づかされ、観る者はその複雑で微妙なハーモニーに引き込まれるのである。
とりわけ印象的だったのは、画面の大半を秋空の青が染め上げる、梅原龍三郎の《北京秋天》(1942年)である[図3]。この絵を目にした瞬間、筆者はどこか既視の感覚に包まれた。拙著『帝国と観光』の表紙にも用いた、1936年以前に満鉄が制作したポスター《開け行く大陸 鮮満の旅》(画・岡吉枝)も、同じ青空を描いていたのである1。

では、この「青空」はいったい何を意味するのだろうか。「明朗朝鮮」「明朗満洲」「明朗北支」といった戦前の新聞や雑誌で多用された「明朗」という言葉と呼応するかのように、青空は、旧政権の「暗黒」を払い、日本軍による治安回復や「善政」の光を象徴する政治的隠喩として描かれていたと考えられる。梅原が「何だか音楽をきいているような空」と記したその感覚には、日本軍の凱旋曲を思わせる旋律がかすかに漂い、支配民族としての日本人の心理的・政治的感覚を映すかのように、快適で明朗な空気として心に沁み入っていたのであろう。
ふと筆者の脳裏に、1943年、中国共産党の支配下にあった抗日根拠地(解放区)で生まれた歌曲「解放区的天」の冒頭がよみがえった。のちに1964年初演の大型革命舞台劇『東方紅』にも収録され、広く人口に膾炙(かいしゃ)したこの歌は、「解放区の空は明朗な空……共産党の恩情は語り尽くせない」と歌い上げる。戦火を隔てた敵と味方——日本と中国——の間にあっても、「明朗な空」は両者に共通するモチーフとして立ち現れ、それぞれの政権を讃える象徴的アイコンとして機能していたのである。
あれこれの記憶や連想が交錯する思いを抱きつつ展示室を後にすると、ムソルグスキー《展覧会の絵》の終曲「キエフの大門」の旋律が、胸の奥でふとよぎった。大小さまざまな鐘の音が折り重なりながら鳴り響く——まるで、記録の対位法と記憶のポリフォニーを体現する本展の構造そのもののようである。その響きは、遠くウクライナ——「キエフの大門」の地——で今なお轟く砲声と呼応し、キャンバスの内外に刻まれた記録と記憶の重みを、私たちの胸に深く問いかけ続けている。
註
1 高媛『帝国と観光——「満洲」ツーリズムの近代』(岩波書店、2025年)107–108頁参照
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