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みつけてビンゴ!

「みつけてビンゴ!」は、幼児が大人と一緒に使用して美術館を楽しむためのツールです。子どもと大人がコミュニケーションを取りながら美術館を楽しむことを目的に作成しました。 カードには9つのイラストがあります。イラストに描かれたものを見つけたら、その箇所を折り曲げます。 作品の中に描かれた色や形、展示室で見かけるイスや人など、さまざまなものに目を向け、美術館を楽しんでください。 教材の特徴・使い方紹介動画 https://youtu.be/9wBa0fi9RgY ※「MOMATコレクション セルフガイドプチ」の配布は終了しました。

Chiaroscuro

作品1

中平卓馬の言語実験〜やりなおしの卓馬体験〜

不思議な展覧会だった。これが初見の素直な感想である。 わたしは迂闊にも、会場にはオリジナルプリントなるものが並んでいるものとばかり思い込んでいた。そしてプロヴォークに代表される初期の劇的写真、サーキュレーションの吠えるような展示の再現、華やかな原色で彩られた後期の写真等々が、にぎやかに会場で主張し合うという展開を予測していた。 ところが、実際に会場に入ると、実に静か。“無音が聞こえる”とさえ言いたくなるような静けさだった。展示冒頭では写真集『来たるべき言葉のために』(1970年)の複写画像が、スライドショー形式で壁一面に大きく映し出されていた。いつもなら激しく迫ってくるはずのこれらのイメージが、粛々と役割をこなしているように見えた。 会場風景|撮影:木奥惠三 次の展示室に入ると、中平卓馬が最初に自作を発表した雑誌が展示ケースに収まっていた。最初期の作品が資料展示であることは珍しくない、と思いつつも、次第に違和感は膨らんでいった。そしてChapter 2の展示室に入ったとき、わたしは完全に自分が間違っていたことを悟った。 この展覧会は中平卓馬の初出の資料(主要な発表の場が雑誌だった関係で、雑誌が多く展示されている)を丁寧に集めた構成になっていたのだ。観客は中平を研究する人の研究室を訪れたと考えた方が良いのだろう。そして研究であるからには、その活動に安易な序列をつけないのは当然のこと。中平が発表した当時の写真や文章を丹念にたどりながらその足跡を問い直し、鑑賞者ひとりひとりが研究者となって、伝説にまみれた中平像を再構築するような仕掛けになっていたのだ。 美術館にも娯楽的要素を求める圧が強まる昨今、このように徹底して渋く攻めた展示は予想外だった。ここには中平卓馬という存在への問いかけのみならず、展覧会の可能性への問いかけもあるように感じた。ある意味、高度に知的な謎かけをしてくる展覧会である。 会場風景|撮影:木奥惠三 こうしてわたしも中平についての問い直しを求められることになったわけだが、今回改めて着目したのは、彼の最初期である。 雑誌編集者だった中平が東松照明の勧めで写真を撮るようになり…という話はなんとなく知っていたものの、彼が働いていた雑誌『現代の眼』が左翼系の思想誌であるとは考えたことがなかった。 数学者が世界に数式を見るように、あるいは音楽家が音やリズムで会話するように、思想系の人たちは独自の言語体系を通して世界と関わっている(これはたとえば詩人の言語体系とも異なる)。つまり中平は単に言葉が巧みな人ではなく、その言語体系のなかでものを考え、ものを見、解釈し表現する、その世界の住人なのである。写真が生み出すイメージについても、彼が基盤とするこの体系からの距離で認識していたと思われる。 たとえば初期の活動においては、自分の言語体系に欠けている部分を補うものとして写真を求め、その象徴的イメージがもつ強力な伝達力に写真の可能性を見出していた。ここで表現されていたのは「疑え!」「壊せ!」「否定しろ!」というメッセージだったが、それを彼の言語体系で表現しようとすると、まわりくどくならざるを得ないものだった。 ところが安保闘争に敗れた70年代に入ると、これまでとは違ったメッセージが必要となる。そこで彼が写真に求めたのは、自分の言語体系に欠けているものではなく、この体系を視覚的に体現してくれるものだった。 展示では「風景論」への関心が紹介されていた。資本主義社会の進展がもたらす風景の均質化にどう向き合うのかという「風景論」が提示した問題に対し、写真でどう答えるのか、その可能性を懸命に模索している様子はうかがえるものの、象徴的写真のもつイメージの強さにこだわる傾向が目立ち、うまくいっていたとは思えない。本人も「写真を撮ることに(中略)疲れてしまった」(Chapter 3「とりあえずは肉眼レフで」)と吐露している。 こうした停滞のなかで構想されたのが「なぜ、植物図鑑か」(1973年)だった。ここで彼が写真に求めたのは、自分の言語体系に欠けているものでもなければ、同期するものでもなく、それを超越するものだった。それは彼を蝕む言葉の洪水からの解放であると同時に、長年共にあったものを捨て去ることでもあったろう。この宣言文を書いたのち、すぐに自己の理論を実践できなかったのも、捨て去る難しさだったのではなかろうか。 会場風景|撮影:木奥惠三 “体系”とは物語であり、物語は時間を内包する。つまり“体系”を捨てることは、“時間”から離脱することである。晩年の写真に“現在”しかないように見えるのは、中平がついに求める地平にたどり着いた証であると解釈できるかもしれない。だが、彼自身はこの点について何も語っていない。 ちなみにわたしにはあの写真群が“文字”のようにも見える。しかしそれはただそれだけのことで、相変わらず解釈を拒絶して謎のままである。 『現代の眼』639号

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舟越桂

芹沢銈介の〈実寸〉

会場風景撮影:大谷一郎 頭ではなく、手に残る記憶がある。十数年前に、芹沢銈介美術工芸館で行われた型絵染講習会に参加した。下絵を描き、型紙を彫り、糊置きをして、刷毛で色をさしていく。その体験は技法の一端を学ぶことと同時に、モチーフや道具と向き合う姿勢や、刷毛の運びや圧によって変化する線の質感や色合いを味わう時間でもあった。……と、記憶を手繰りよせているが、実のところ頭に残っている記憶は曖昧なものだ。ところが、型紙に刃を入れる際の力加減やカーブのつっかかりや、ヘラで伸ばす糊の粘り具合や、刷毛の先が紙と触れる際の感触などの手に残っている記憶は、文字通り手に取るように不思議と思い出せる。 手に残る記憶は、たとえば自転車に乗れるようになるまでの過程がそうであるように、トライとエラーを繰り返しながらいつしか身体に定着していく。そのようにして幾度となく同じような作業をする際に手に残っている記憶が呼び起こされるものだが、たとえその行為が自分のものでなく、ほかの人の行為やつくられたもの(たとえば絵や文字など)を目にするだけでも、それらが再生装置となって身体記憶が発動することがある。 会場風景撮影:大谷一郎 うちわ、のれん、着物、カレンダーや本など、芹沢銈介が文字や模様を息づかせるものたちは、どれもが日常的な生活の営為に根付いたものばかりだ。そこに生息する文字や模様たちは、仰ぐ、くぐる、着る、めくる……のような、それぞれの目的ごとの身近なアクションと結びつくことで生命力を輝かせながら、手や身体に残る記憶を呼び起こしていく。 図1 芹沢銈介《木綿地型絵染文字文のれん 天》1965年 国立工芸館蔵 図2 芹沢銈介《文字文地白麻部屋着》1971年 国立工芸館蔵金子量重コレクション撮影:斎城卓 《木綿地型絵染文字文のれん 天》[図1]の「天」の文字を仰ぎ見る。宙をのびやかに舞う布がそのモーションの中で文字を象る。いや、象ろうとしている途中か、ほどけた様子と解釈しても良いかもしれない。同じく《木綿地型絵染のれん 寿》の雲状の字画や、《文字文地白麻部屋着》[図2]に敷き詰められた「日・月・木・雲・花・山・水・草・鳥」の文字群は、風景が意味と結ばれて文字となった歴史を揺り戻すように、文字が言葉の持つ意味から解放されて風景に還る姿のようにも感じ取れる。 なにかになろうとしている姿や、これから生まれようとするものが秘めたエネルギーや、緊張や呪縛から解放された(あるいは肩の力の抜けた)達人的な身のこなしは、完成された不動のかたちが持つ安定感や強度とはまた別の、動的で瑞々しい力や伸び代を感じさせる。その伸び代には、棟方志功が版画の表現が持つ力として挙げた〈他力〉のような力が入り込みやすいのかもしれない。その〈他力〉は、手作業による表現の偶然性にとどまらず、作者の手を離れてもなお、使用者(あるいは歴史をまたいだ鑑賞者)の生活の所作や身体記憶と結びつくことで、さらなる生命力と再生力を発動する。 今回のコレクションを拝見していて、ふと当たり前のことにあらためて気がついた。どれも〈実寸〉である、ということだ。作品はどれも作者が実物を実寸で仕上げているでしょ、と思われそうだが、文字だけに注目してみても、たとえばグラフィックデザインの制作過程においては、モニター上で拡大縮小しながら、レイアウトや出力を繰り返して最終的に複製物として構成されるものがほとんどだ。書き出されるものが紙ではなく画像やオンラインメディアなどの場合は、デバイス上での拡大縮小も可能だ。サイズの可変性が高まった時代においては、実寸で版下を手作業でつくり、実寸のまま仕上げるということ自体がレアケース/特徴となる。 図3 芹沢銈介《小型絵 三、四、五》1979年国立工芸館蔵、金子量重コレクション撮影:斎城卓 特に目を奪われたのが、「小型絵」[図3]のシリーズだ。小さくなるほど作者の手のひらサイズの実寸感覚が見えやすいのかもしれない。そのコントラストで、のれんのような大きなサイズに息づく文字もまた芹沢銈介の〈実寸〉なのだと気づく。〈実寸〉が意味するものは、サイズにとどまらずに〈等身大〉の息遣いやエネルギーを窺い知るということでもあるようだ。 領域を問わないが、ことさら工芸や建築やデザインなどにおける〈実寸〉の感覚は、とても大切なものだ。芹沢銈介が生きた時代(1895–1984)の〈実寸〉に思いを馳せてみる。尺貫法やメートル法などの尺度が混然とした時代感や、西洋のモダンデザインの波が押し寄せる時節とも重なってくる。実寸感覚と表現はどのような結びつきをしているのか。果たして、制作上でも閲覧上でもサイズの変化が容易な現在における〈実寸〉はどこにあるだろう。 『現代の眼』639号

中平卓馬《サーキュレーション―日付、場所、行為》1971年|キュレータートーク|所蔵品解説010

所蔵作品の新たな見方、楽しみ方をお伝えするオンラインキュレータートーク。今回は、中平卓馬《サーキュレーション―日付、場所、行為》(1971年)を取り上げます。この作品は、1971年に中平がパリ青年ビエンナーレに参加した際、パリで撮影、展示したものです。実験的でパフォーマンス性のあるこの大作は、どのように制作されたのか?小林研究員が解説します。 2024年4月7日まで、1階企画展ギャラリーで開催中の中平卓馬展で展示しています。展示とあわせてお楽しみください。 https://youtu.be/Roq5GJjerag?si=tWY_1i1kLXh3IIn-

スクールプログラムの充実に向けて—特別支援学校を迎えて

友人と語り合いながら鑑賞する生徒(東京都立港特別支援学校 職能開発科)  東京国立近代美術館では、幼稚園から大学、生涯学習団体まで、来館する団体に申込制のスクールプログラム1を実施している。団体の規模や滞在時間、来館目的に合わせて、主に職員によるガイダンスまたはガイドスタッフ(ボランティア)によるギャラリートークを行う。令和5年度は50団体1,964人を迎える予定だ2。今年度は特別支援学校・学級へのプログラムの充実を目的に、都内の特別支援学校3校の協力を得て、ヒアリングや学校訪問を実施の上、来館いただいた。本稿ではこの取り組みについて報告する。  事前に教員向けに行ったヒアリングでは、来館時に期待する体験として、公共施設への訪問経験、美術館の空間や実作品を前にする体験、美術科(鑑賞分野)の学習の充実などが挙げられた。また、来館時に検討すべき点としては移動手段の確保、展示物への接触や集団からはぐれること、混雑への懸念などが挙げられた。東京都美術館の「スペシャル・マンデー」3、国立新美術館の「かようびじゅつかん」4など、休館日に学校団体向けの特別開館・鑑賞プログラムを実施している美術館もある。休館日のプログラムでは、混雑を避け、利用団体のみのリラックスした環境で観覧できる一方、他の来館者がいなかったり、閉鎖中の場所があったりと、公共施設への訪問という視点では経験できない部分もある。今回、当館に協力をいただいた3校はすべて知的障害特別支援学校で、高等部の生徒が来館した。うち2校では卒業後に就労する生徒がほとんどとなる職能開発科5が来館することとなったため、今後の美術館利用につなげられるよう、開館日にプログラムを行った。当館では来館時期・時間帯によっては開館日でも比較的落ち着いた展示室で実施できたことも理由の一つだ。  来館前にはプログラムを担当するスタッフが学校を訪問し、事前学習で活用できるツールとしてソーシャルストーリー6を配布した。当日は3~8人程度のグループで、教育普及スタッフと所蔵作品展を巡った。ヒアリング・学校訪問を通して知った生徒の様子や特徴から、写真やイラストなどビジュアル資料の活用、生徒自身が活動の見通しをもてる進行、グループ活動での心理的安全性の確保(アイスブレイクの時間を取る)、展示室に慣れる時間などに留意することとした。生徒たちは、天井が高い展示室の空間を味わったり、繊細な筆致に本当に人の手で描いたものなのかと驚いたり、気になる作品や表現の意図について友達と話し合ったりと、各自の経験や関心に基づいた美術館体験をしていた。セルフガイド7を用いた学校もあるが、印刷物と展示作品を見比べながら問いかけを読んで書き込む必要があり、生徒によって取り組みやすさが異なっていた。  スクールプログラムは団体向けの事業だが、特別支援学校・学級では集団としてだけでなく一人一人の体験として捉え、必要な支援を見極める努力が欠かせない。それぞれの知的能力やコミュニケーションのペース、体力、習慣などについて注意深く配慮する必要がある。普段の生徒の様子をよく知る教員との連携が果たす役割は大きく、事前・事後学習との接続を含めた情報交換や協力体制の構築が肝要だろう。当館では今後も継続的に特別支援学校・学級へのプログラムを実施する予定だ。さまざまな特徴や経験を持つ児童生徒それぞれに最適な支援や美術館体験について知見を深め、特別支援学校への対応に限らず、美術館全体でのアクセシビリティの向上につなげられるよう努めたい。 註 東京国立近代美術館「スクールプログラム」 令和6年2月末時点での、令和5年4月から令和6年3月末までのスクールプログラム受付団体数(オンラインで対応した団体は除く)と参加者数(引率者を含む)。 東京都美術館「スペシャル・マンデー」 国立新美術館「かようびじゅつかん」 知的障害の軽度から中度の生徒を対象とした、生徒の企業就労を目指す職業教育を主とする専門学科。 国立アートリサーチセンター・東京国立近代美術館編『Social Story はじめて美術館にいきます。』国立アートリサーチセンター、2023年 MOMATコレクションこどもセルフガイド。小中学生向けの書き込み式鑑賞ワークシート。 『現代の眼』639号

「梨園の華」より 五世中村歌右衛門のおわさ

中平卓馬の否定形

中平卓馬(1938–2015)の個展が東京国立近代美術館で開催されるという知らせを聞いたとき、それを長く期待していた自分に気づいたのは、2015年に同館で開催された「事物 1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード」が印象深かったせいかもしれない。これは1970年代半ばに提起された「事物論」に関する作家たちを取り上げた展示で、李禹煥などによって展開された「もの派」などの同時代美術との関係を指摘するものだった。作家の主観的な切り取りを廃し、過剰に意味や物語を読み取らせるコード化されたイメージの世界から離脱を試みるというこの「事物論」を主張したのが、中平卓馬である。これは個展ではなかったが、奇しくも開催中に中平が亡くなったことで記憶に残っている。そのためか、現在、同館で開催されている「中平卓馬 火—氾濫」展は、この「事物」展の展開形でもあるように私には思える。両展ともに、キュレーションは同館学芸員の増田玲氏である。  今回の展覧会は、1968–69年に伝説的な写真同人誌『プロヴォーク』を多木浩二、高梨豊、岡田隆彦、森山大道らとともに刊行したことで知られる中平の没後初の回顧展となる。1970年に写真集『来たるべき言葉のために』(風土社)、そして1973年に写真評論集『なぜ、植物図鑑か』(晶文社)を上梓し、同年、自身の過去作を「焼却」という方法で物理的に消去した中平。彼は生前、回顧展を望まず、そのため2003年の横浜美術館での個展「原点復帰—横浜」では、当時、中平が撮影していたコンテンポラリーな写真が冒頭に並び、そのルーツを探るように展示が時代を遡った。今回の「火—氾濫」展は、ひとりの作家の「全作品」を時系列に並べて検証するという、美術館としてはオーソドックスでありながら、作家の意思には相反するであろう方法に対して、どのように挑むのかが問われたものだったと思う。 会場風景|撮影:木奥惠三  その応答の形のひとつがおそらくは、中平卓馬による「マガジンワーク」、すなわち雑誌発表作品が大量に展示されたことだ。自身の印画紙やネガを燃やした中平には、「オリジナルプリント」や「ヴィンテージプリント」などの、美術館が収蔵や展示を目指す作品形態が、特に初期作品に関しては、ほとんどない。それが本展タイトルで「火」という言葉で表されている部分である。美術館を代表とするアートの制度に対して「火」による焼却という態度で臨んだこの中平卓馬という作家に対する応答が、大量のマガジンワークを展示する、ということであった。そのため、展示会場の最初のパートでは、中平の写真が使われた寺山修司の『アサヒグラフ』連載「街に戦場あり」の雑誌本体、そしてその反対壁面には解体された『プロヴォーク』の誌面が展示された。こうした会場構成は、雑誌こそが彼らの主戦場だった事実に気づかせるものとなっている。  加えて本展の試みとして特筆されるのは、中平卓馬が「美術館」という制度と対峙しようとした態度そのものを、提示しようとしたことであった。それはたとえば、中平が1971年のパリ青年ビエンナーレに出品した《サーキュレーション—日付、場所、行為》の再現展示1、および、1974年に「15人の写真家」展に出品した《氾濫》の再現展示などに見ることができる。さらに1976年にフランス、マルセイユのADDA画廊に出品された《デカラージュ》が国内初展示されたことも特筆される。これらによってわかることは、中平にとっての「写真」とは、額装されて美術品らしく美術館壁面に展示されるようなものでは決してなかった、という事実である。中平は1969年、第6回パリ青年ビエンナーレで「夜」と題した大判のグラビア印刷の校正刷り6点を出品しているが、その理由として「パネルに焼いた写真を貼って、タブローのように見せることがいやらしい。写真は本来、無名な眼が世界からひきちぎった断片であるべきだ、という考えから、写真をポスターのように印刷し、壁に貼りつけて出品したい」と述べている2。原理的には無数に複製可能な写真を、タブローのように美術館に収めることを否定するのが、中平の立場なのである。毎日200枚の写真を可動壁の上で貼り替え、最終的に1500枚の写真を使用した《サーキュレーション》、パネル貼りのカラー写真を横へ向かって不定形に増殖させた《氾濫》、そして、壁面を撮った写真を実物大に引き延ばし、ギャラリー壁面に貼り付けた《デカラージュ》。いずれもホワイトキューブという言葉に象徴される美術館壁面を否定するものであったことは間違いない。その意味では、ギャラリーや美術館の壁面に穴を開けたり直接描くなどして、タブローとしての絵画を否定した李禹煥の試みと、中平の試みは同質のものであった。 会場風景|撮影:木奥惠三  意味や物語性、抒情性に写真を回収させることを拒否する中平の写真論は、『プロヴォーク』の代名詞となった「アレ・ブレ・ボケ」よりも「事物論」、すなわち彼の持論である「植物図鑑」の方がよりふさわしい。しかし、それは一体どんな写真なのか。それは、彼の晩年の縦位置のカラー写真なのだろうか。展示会場の後半に並んだ晩年のカラー写真、なかでもチバクロームと見られるつやつやした発色のよい印画紙を眺めながら、私はしばし考え込んだ。1977年に急逝アルコール中毒で昏倒し、記憶障害を負った中平の写真について、それ以前とそれ以後とをその連続性において語ることが、はたして可能なのか。小原真史がドキュメンタリー映画「カメラになった男」のなかで、中平が自分自身を再生するかのように語る姿を延々と映し出したシーンが強く印象に残っている。ひとりの作家の「全作品」を、作品と資料によって検証すること。今回の展示は、それを試みたことにより、かえってこの作家の持つ姿勢が浮き彫りになったように思われる。すなわち、中平自身の、美術の制度と対峙する否定形の態度が、あらわになった展示だったのではないだろうか。 註 《サーキュレーション―日付、場所、行為》(1971年)の再現展示は、2017年にシカゴ美術館(Art Institute of Chicago)において既に行われているが、本展でも作品展示とは別に1971年の同作品の再現展示が行われていた。 中平の発言は「火—氾濫」展会場キャプションより引用。 『現代の眼』639号

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