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Y市の橋

橋の向こうには、国鉄の跨線橋と架線の鉄柱の複雑な交差が、細い線描で描かれています。深みのある色彩の川面は流れを感じさせません。橋の上と橋のたもとにいる人物はシルエットで描かれ、寂寥感をかきたてます。題材となった「Y市の橋」とは、横浜駅近くを流れる新田間川に架かっていた月見橋のこと。松本はこの橋を題材に、多くのスケッチや油彩画を残しました。1945(昭和20)年5月、横浜大空襲によって当時の横浜市域の34%が焼失し、月見橋周辺も焦土と化します。戦後まもなく彼はこの橋を再訪し、その被災した様子も描きました。

雲の上を飛ぶ蝶

作者によれば、ある昆虫学者から海を渡る習性をもつ蝶の話を聞いたことがきっかけで、この絵を構想したといいます。とはいえ、実際の蝶は、雲の上の高さまで飛ぶことはないでしょう。しかもこれらの蝶や蛾は、おそらく図鑑などをもとに、平面的に描かれています。平面の重なりとしてさまざまな向きで画面に散らばる蝶や蛾は、重力から自由になり、それを見る私たちの視線をも、ふわりと浮遊させてくれます。

タチアオイの白と緑―ペダーナル山の見える

ペダーナルとはアメリカ合衆国のニュー・メキシコ州にある、高さ3006メートルの卓状台地(mesa)のこと。作者にとってニュー・メキシコの自然と文化はインスピレーションの源泉で、1940年にはペダーナルの見える土地を購入し、アトリエを構えてもいます(ちなみに彼女の遺灰はこの山の上に撒かれました)。当館は1956年に、オキーフ本人から、彼女の夫であった写真家アルフレッド・スティーグリッツの作品を受贈してもいます。

アルマ・マーラーの肖像

アルマ・マーラー(1879–1964)は、オーストリアの作曲家、グスタフ・マーラーの妻でした。美しく、芸術的才能にも恵まれた彼女は、グスタフの没後、1912年頃から7歳年下の画家、ココシュカと恋愛関係にありました。その後アルマは、後にバウハウスの設立者となる建築家、ヴァルター・グロピウスと再婚しますが、ココシュカは等身大のアルマの人形を持ち歩くなど、恋の破局からしばらく立ち直れなかったようです。この作品では、美しいとも恐ろしいとも見えるアルマの姿が、《モナ・リザ》を意識した構図で描かれています。

Work 84-P-1

本作に見られる花模様のモティーフについて、辰野登恵子はこんな言葉を残しています。「ある写真家が撮ったニューヨークの鋳鉄製の階段の、羽目板のくりぬき模様の写真に基づいています。写真集で見たものに惹かれて、それを自分なりにアレンジして作った模様で、現物は見ていません」(『与えられた形象 辰野登恵子 柴田敏雄』より)。花模様は描くための一種の口実で、関心があったのは「連続性」、そしてその「連続性の遮断や断絶」であったそうです。画面右半分の、線的な花模様、中央やや左に走る暗い帯の部分の、やや実体的な花模様、そして左端の、地の色面とまじりあうような大胆な筆触による花模様、こういった模様の連続と変化とに注目してご覧になってみてください。

スフィンクス−ミュリエル・ベルチャーの肖像

ベルチャーとはロンドンのソーホーにあった会員制のバー「コロニー・ルーム」の主人で、ベーコンはそこの常連でした。人前でベーコンのことを「私の娘」と呼ぶほど、ふたりは深い友情で結ばれていたのですが、彼女は1979年10月31日に亡くなってしまいます。彼女の闘病生活と並行して描かれた本作は、最初は三幅対のひとつとして、次に、オイディプスを描いた作品と対を成す作品として構想されたようですが、最終的には独立した作品となりました。

ラ・ガループの海水浴場

1955(昭和30)年、南仏ニースで映画「ミステリアス・ピカソ―天才の秘密」(アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督)が撮影されます。映画終盤、ピカソがカメラの前で描いてみせたのがこの作品です。極端に横長なのはスクリーンの画面比を意識したものです。映画の中で、描き始めから完成まで驚くべきスピードで変容を見せるこの作品、よく見ると荒々しい描き直し、キャンバスの破れ跡、ピン穴など生々しい痕跡が随所に認められます。この画面の千変万化は、イメージが即興的に、あるいは天啓のように次々沸き上がる「天才の秘密」を印象づけようとする、(監督の?画家の?)演出的な意図もあったのかもしれません。

ガス灯と広告

佐伯は二回フランスに渡っています。本作は二度目の滞在の際に描かれた代表作。壁に貼られたポスター、しかもそこに書かれた文字が、絵の重要な要素になっています。はねるような文字の書き方=描き方と、画面左下に見える女性と子供の靴の描き方はほとんど同じ、ガス灯の根元も同じです。全体にみなぎるリズムは、そうしたところから生まれているといってよいでしょう。画面右上には広告ではない文字が見えます。「CONSTRUCTION(構築)」という、絵画よりはむしろ建築に馴染み深い言葉に、佐伯独自の意志を見出すことができそうです。

作品 66 – SA

前衛美術家の吉原治良をリーダーに、阪神地域在住の若い美術家たちで結成されたグループ、具体美術協会(いわゆる「具体」)の代表的なメンバーのひとり。音や光や色の表現に関心を持っていた田中は、1956(昭和31)年に東京の小原会館で開催された第2回具体美術展で、ついたり消えたりする数百の色電球とコードによってできた《電気服》を発表します。この作品のためのドローイングには、円(電球)と曲線(コード)の絡み合う様子が描かれていましたが、それがやがて、本作のような絵画作品へと発展していったのでした。素材に、油絵具ではなくて、もっと滑らかな表面ができあがる合成系の樹脂が使われているのも特徴です。

讃歌

1970(昭和45)年前後の7年間、ライリーは色彩の探求に適した形式として、ストライプのシリーズを制作します。制作プロセスは独特で、色の選択や組み合わせなどを緻密に検証する習作を本人が繰り返した後、できあがった構図をもとにアシスタントがキャンバスに描くというものです。機械のように、とでも形容したくなる規則正しさで描かれたまっすぐなストライプにもかかわらず、赤、青、緑の三色の組み合わせや並びを変化させることで、色の帯は波打ち、脈打つように動きだします。さらにオレンジ、黄緑、灰色といった、物理的には存在しないはずの色が、ヴァーチャルな奥行のなかに出現してきます。

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