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モビール・オブジェ(回転する面による構成)
「抽象と幻想」展での発表時、美術批評家の瀧口修造は、「この作品はいろんな形の軽金属板をバランスで組合わせて天井からつりさげてあるので、微風や適度な空気の波動にあたるとしずかに動きだす。この動きながらの形の変化がおもしろいのである。金属のメカニックな工作はすこし冷たく重い感じがするが、わが国のモビルの試作としては注目すべきものである」(『朝日新聞』1953年12月10日東京朝刊)と評しました。
地中海群像
アルプは、人のかたちの表現を追求した作家です。ただ、人のかたちとして表現された作品はどれも抽象的で、見た目にはどの部分が何のかたちを示しているのか、必ずしも明快ではありません。あえて具象的な表現をとらないことで、未分化で未成熟な存在、成長していく途上の存在、いわば「こども」の姿を示唆しています。そのように考えると、《地中海群像》は、一つの塊ではなく、手を組んで踊る人々の姿にも見えてきます。1941(昭和16)年にブロンズで作られたものを原型とし、それを後に拡大して、大理石を素材として作られたのが本作です。ブロンズ像よりも柔らかな質感で、軽やかな印象をもたらします。
犬の唄
女性の像につけるにしては奇妙なタイトルです。これは、フランスの歌手エンマ・ヴァラドン(1837–1913)が歌っていた歌謡曲、いわゆるシャンソンに基づいています。それは、普仏戦争(1870–71)に敗れたフランス人の心情、つまり抵抗する気持ちを心の奥で持ちながらも、表面上は犬のようにプロイセンに対して従順さを示すことをうたった歌でした。実はこの歌手を、ドガ(1834–1917)も描いています。柳原の作品とは、背をそらし、手を前に出しているポーズが共通しています。しかし違いもあります。ドガの作品では、両手がともに前になっているのに対して、柳原の場合、片方の手は後ろにまわされているのです。
Protrusion #076
菅木志雄は1960年代末から70年代初頭に現れた「もの派」と呼ばれる動向を代表するアーティストの一人です。木や石などの自然物や金属、紙といった素材をほぼ未加工の状態で空間に配置し、そこで生まれる光景を「状況」と呼び、作品としてきました。「Protrusion」とは「突出」や「出っ張り」といった意味です。パズルのように枠の中に木材のピースが入っていて、そのうちいくつかが上方に「突き出し」ています。作者のわずかなズラしの操作により、モノ同士の関係、そしてモノとそれを取り巻く空間との関係に目を向けさせる、菅らしい作品です。
幼児表情
幼児の平たい頭のてっぺんや、背筋を伸ばして直立し、窮屈にも見えるほど腕をギュッと体に密着させた姿勢が特徴的です。幼児の乗った台を上方に伸ばしていくと、ちょうどその角材の中に幼児がすっぽり収まるかのようで、ひとつの角材に埋まっていた幼児が橋本平八によって掘り出されたようにも見えます。作家本人がこの作品について以下のような言葉を残しています。「1歳前後の幼児の野獣性と人間性との交叉を取扱ったものであって歓喜の情である」(橋本平八『純粋彫刻論』昭森社、1942年)。横から見たときの、愛嬌のある表情も、ぜひお見逃しなく。
原の城
「はらのじょう」は、1637(寛永14)年に起こった島原の乱で、弾圧に苦しむカトリックの信徒(キリシタン)や過重な年貢にあえぐ農民による反乱の拠点となった城の名前です。反乱軍は、10万を超える幕府軍を前に敗れ去り、ほぼ全員が殺害されました。その数は27,000とも37,000とも言われています。キリスト教の信徒である舟越は、春のある日に城の跡を訪れて、討ち死にしたキリシタン武士を、「雨あがりの月の夜に、青白い光を浴びて亡霊のように立ち上がる姿」として思い描きました。その印象に基づきつくられたのが本作です。
女
頭の中でけっこうです。ポーズを真似してみてください。両膝をつき、胴体を右にひねり、顔はさらに右にひねって上を向く。身体全体が螺旋を描いて上昇する作りになっているのがわかります。守衛はフランスの彫刻家、オーギュスト・ロダンの影響を日本にもたらした作家の一人です。ダイナミックなひねりの運動がその最大の特徴です。ちなみに守衛は、新宿中村屋の女主人、相馬黒光(1876–1955)をひそかに慕っていたと伝えられます。遺作となったこの作品には、黒光の面影があるとも言われます。
「Untitled (tsunami trees)」より 2019年10月6日 岩手県陸前高田市
陸前高田出身の畠山直哉が、東日本大震災の被災地で樹木を撮影したシリーズの1点です。津波でいったん立ち枯れた後、再生した樹木が被写体になっています。向かって右側の枝は津波による漂流物が当たって枯死している一方で、左側の枝には葉が繁茂し、成長を続けています。畠山は、津波で母を失い実家も流された経験をうけ、故郷の風景や震災をめぐる作品を継続して発表してきました。自然の中に見出された再生を風景の中でとらえたこのシリーズは、地球史的なスケールの科学的視点と、写真メディアによる表象の可能性の探求とを並立させてきた畠山作品の、震災をめぐるとりくみにおけるひとつの達成と位置づけられるでしょう。
赤陽
1930年代前半の日本を代表する版画家の一人である藤牧義夫は、若干20歳で早くも版画界で大きな注目を浴びますが、その活動はわずか4年余りときわめて短いものでした。藤牧は一貫して、関東大震災の後で復興していく東京を主題に、近代化の進む都会の街角、駅、鉄橋、劇場、ガソリンスタンド、ビルなどを描きました。この作品は、上野広小路の光景を松坂屋百貨店から湯島方向を見下ろした構図で描いたものとされています。陽が沈む直前の一瞬がありありと想像されるとともに、この後まもなく失踪したとされる藤牧の境遇を思うと、痛切な感情も湧いてくるでしょう。藤牧は通常の版画制作からは逸脱した実験的な方法で作品を生み出しました。ここでも、一度摺った版画の下部を切り取り、上方向に引き上げて糊付けするという大胆で即興的な構図変更の跡が認められます。また、この作品の印象を決定づける夕陽も、摺られたのではなく、後から朱色で手彩色されたものです。
抒情 『あかるい時』
1915(大正4)年1月制作と推定される本作は、日本で最初の抽象表現の作例とも言われます。弧を彫った二枚の版木を擦り重ね、中心に向かって微妙に変化する赤色と、大小の円弧で画面を構成しています。後年、恩地はこの版画と一緒に、同じ題の詩を発表しています。何がなしにしあはせのような何かたのしいことのあるやうな何ともしれない遠いうたのきこゑるやうなあかるい光がいつぱいになりあかるい肉体がうかんで来てちようど温気のやうにたちのぼる
