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鈴木治《馬》

鈴木治(1926–2001)《馬》1977年磁土、青白磁高さ51.6、幅34.4、奥行15.4cm令和2年度購入撮影:エス・アンド・ティ フォト 小さな頭部、長い首、大きく角ばった胴体、それに短くて丸い脚がちょこんとついています。まっすぐ前を向いた姿は堂々としていますが、独特のプロポーションはどことなく愛らしくもあります。 鈴木治は、八木一夫、山田光らとともに1948年に京都で前衛陶芸家集団「走泥社(そうでいしゃ)」を結成し、用を持たない立体造形としての表現を模索した戦後の日本陶芸に新たな領域を拓きました。馬や鳥、雲や山など、自然界のさまざまな形象の本質をとらえ、そのイメージを簡潔なフォルムの内に凝縮した作風で知られます。 赤化粧の上から灰をかけた焼締め風の陶による作品が代表的ですが、転居を機に自宅で還元焔焼成のできる窯を使うようになり、1970年代から青白磁(影青(いんちん))も制作しました。本作は鈴木の青白磁作品のなかでも最大級のもので、作者自身もとりわけ気に入っていた優品です。ちなみに影青とは、素地に彫り模様などを施した凹みの部分に釉薬がたまり、いっそう青く見えることに由来します。 同じ焼き物とはいえ、素材も工程もまったく異なる青白磁と赤化粧の陶。両者の違いを「青白磁の作品は加えていくプラスのフォルム、陶器作品は削ぎ落としていくマイナスのフォルム」1と鈴木はいいます。さて、この作品のプラスの要素を見てみましょう。まず、胴部に点々と捺された装飾模様。つるつるした頭や脚と対照的に、細かな凹凸が釉薬の色の濃淡を強調しています。もう一つは、各パーツを接合する際に生じるバリ・・の部分。きれいに取り去ってしまうことも可能なはずですが、あえて残した不定形の陰影が作品のマチエールとなっています。 青白磁といえば、気高く近寄りがたいほどに端正な中国宋代の影青が一つの規範であり、到達点として陶芸の歴史上に高くそびえています。それは、鈴木が初めて青白磁の作品を発表した際、「もう随分長い時間、心の片隅に、憧れとおそれを同居させながらおいていた、影青でした」2と語っていることからもうかがえます。 ところが、この《馬》はどうでしょう。一つひとつのパーツを継ぎ合わせた工程が想起されるような制作の痕跡(に見えるもの)が、馬というイメージを構成しています。従来の影青における磁土は、釉の美しさを引き立てる素地としての控え目な存在です。しかし、鈴木は影青の手法を生かしつつも、磁土と手のあいだから生み出された「焼き物」なのだということを静かに言明する、新しい影青の世界へと歩を進めました。幼い子どもが粘土をこね、ちぎり、無垢に作った動物を思わせるプリミティブで柔らかい「プラス」の造形には、長い歴史の中で蓄積されてきた陶芸の価値基準を鮮やかに転換してみせる仕掛けが潜んでいるのです。 (『現代の眼』636号) 註 鈴木治、白石和己(対談)「ルポ 詩情のオブジェ 鈴木治の陶芸―展覧会に寄せて」『なごみ』233(1999年5月)号、63–64頁。 「作家あいさつ」、「鈴木治展」パンフレット、新宿伊勢丹、1971年。

川之邊一朝《梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱・硯箱》

川之邊一朝(1831–1910)《梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱・硯箱》明治時代漆工 漆、蒔絵、螺鈿高さ14.7、幅32.3、奥行41.5cm(料紙箱) 高さ6.5、幅21.0、奥行25.2cm(硯箱)令和4年度購入撮影:セキフォトス 田中俊司 蓋表を僅かに盛り上げ、角をとるなどして全体に丸みをもたせた箱の形に、唐草文様を全体に展開させた作品です。唐草文様には、花弁にあたる部分等に、文様の形に切った貝を貼ったり嵌め込んだりして装飾する螺鈿(らでん)技法が用いられています。貝の真珠層が光の角度によって異なる色を放ち、華やかでかつ清らかな印象をもたらします。蓋裏には、水辺にたつ苫屋の風景を、珊瑚等も用いて蒔絵で表しています。 幕末から明治時代にかけて活躍した本作の作者、川之邊一朝(幼名・源次郎、襲名・平右衛門)は、同時代のさまざまな図案家と組んで、彼らの図案を蒔絵で実現することのできた実力の持ち主で、その作品は多彩な展開を見せています。本作では、箱の表面全体に施されている螺鈿技法が注目されます。螺鈿を用いた一朝の代表作に《菊蒔絵螺鈿棚》(1903年、皇居三の丸尚蔵館)がありますが、一朝の作品全体を通してみると、写実的に表された植物や古典的な蒔絵表現を継承した風景図を中心にした絵画的な表現が多く見られ、本作や《菊蒔絵螺鈿棚》のように、ふんだんに貝を用い、文様を全体に反復させ展開する趣向の作品は、あまり見られず少数派のようです。 現存する一朝作品は、残念ながらそれほど多くはありませんが、なかでも比較的大作と思われるもので、螺鈿の使用が目立つ作品をあげてみると、《秋草流水蒔絵螺鈿棚》(1895年、皇居三の丸尚蔵館)、《大堰川図蒔絵螺鈿御書棚》(『建築工芸叢誌第2期(13)』掲載、1893年起案、1903年完成)、《源氏香短冊散蒔絵料紙硯箱》(1903年、東京国立博物館)といったところがあります。しかし、これらの作品も、一朝が得意とした絵画的な表現のなかで螺鈿が用いられており、本作や《菊蒔絵螺鈿棚》は、文様を全面に展開し平面的な表現に特化している点で異色です。 一方、本作《梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱・硯箱》も、蓋をあけると、蓋裏に遠景になだらかな山並みを望む苫屋の風景があり、さらに料紙箱のなかに据え付けられた懸子(かけご)には、梅や牡丹、水仙などの草花が写実的に蒔絵で描かれています[図1]。内部は一朝らしさがうかがわれる意匠となっています。 ところで、《菊蒔絵螺鈿棚》は、図案を六角紫水が、金具を海野勝珉が担当したことでも知られる名品で、図案化した菊花を全面に配置したものです。この棚では沖縄産の夜光貝が用いられたといわれ、繊細な金蒔絵と相まって卓越した作品となっています。 一朝がその名を知られるようになるのは、とりわけ海外で開催された万国博覧会への出品によるところが大きいといわれていますが、その先駆けとなった1873年のウィーン万国博覧会への出品以降、螺鈿が用いられている一朝の作品が登場するのは、上記に見てきたように、一朝の作歴のなかでも比較的後半(1890年代以降)に集中しているようです。それは、奇しくも一朝の幼名・源次郎(一説に「源治郎」とも表記)と同じ名前をもつ螺鈿師・片岡源次郎(1852–1905)の活躍時期と重なっています。片岡源次郎は、一朝工房の螺鈿師として知られ、《菊蒔絵螺鈿棚》の螺鈿も手がけたとされています。夜光貝が多用された本作《梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱・硯箱》でも片岡が関わっているものと推測されます。こうしたことから、本作の制作年をさらに限定するならば、片岡源次郎の活動時期を重ね合わせ、一朝の作歴のなかでも後半に位置づけられるのではないかと考えられます。 高い技術で蒔絵と一体化した螺鈿を手がけ、一朝の作域を広げたと思われる片岡源次郎ですが、20年ほど年長であった一朝よりも早くに亡くなってしまいます。その時、16歳だった片岡源次郎の子息・華江(1889–1977、本名・照三郎)は、当初「写真師」を志していましたが、姻戚であった一朝の門に入り、蒔絵技術を習得するとともに父祖の業であった螺鈿の修行に励み、若くして一家を成した、といいます。そして、1928年には、川ノ邊一門のメンバーとして昭和期の工芸の傑作といわれる《鳳凰菊文蒔絵飾棚》(図案:島田佳矣(よしなり))、皇居三の丸尚蔵館)の制作で螺鈿を担当し、技の継承を見事に果たしていくこととなります。 本作《梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱・硯箱》の年代特定は、さらにさまざまな視点から検討されるべきですが、ここでは一朝の題材と作風、螺鈿師・片岡源次郎の存在から推測を試みました。今後も、一朝の総合的な研究とともにさらに細部を明らかにしていく必要があります。 図1 川之邊一朝《梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱》(内部)撮影:セキフォトス 田中俊司 図2 川之邊一朝《梨子地青貝唐草内蒔絵硯箱》(内部)撮影:セキフォトス 田中俊司 (『現代の眼』638号)

梨子地青貝唐草内蒔絵料紙箱・硯箱

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川之邊一朝

鈴木長吉《十二の鷹》1893年

高精細映像とともに作品の見どころを紹介します。                                               作家のこだわりは、作品の細部にまで及びます。高精細だからこそ見ることのできる、繊細で確かな技術をご覧ください。今回は、鈴木長吉《十二の鷹》(1893年)を紹介します。 この映像は、HAB北陸朝日放送で放送した「デジタルミュージアム~清らなる工芸~」を再編集したものです。 作品:鈴木長吉《十二の鷹》1893年解説者:唐澤昌宏(国立工芸館長)制作:HAB北陸朝日放送 https://www.youtube.com/watch?v=AF_e92Aegac

「移動」のプロジェクトのはじまり―国立工芸館石川移転開館記念展Ⅰ「工の芸術—素材・わざ・風土」

知り合いの作家から次のような相談を受けたことがある。新しい作品にタイトルをつけたい、文化庁みたいに。制作中の工房にお邪魔したところ、コンセプトは決まっていて、脚は白磁に金彩で、ロココ風のレリーフ文様を表し、アクリルとビニールによる座面に水を入れるという。そこで私たちは、《金彩磁(きんさいじ)ロココ風浮文椅子(うきもんいす) “イデアの玉座(ぎょくざ)”》〔註1〕と名づけた。作家は工芸に対する批評的な意図を込め、いわゆる文化財畑を歩いてきた私は、一般にはわかりにくい工芸特有のルールに従っていることをあらためて自覚した。 展覧会「工の芸術—素材・わざ・風土」〔註2〕を企画した花井久穂主任研究員は、「第1章 素材とわざの因数分解」を「はじめて当館のコレクションに出会う方への「自己紹介」のセクション」と位置づけ、「工芸作品は「素材」と「わざ」の掛け合わせ。タイトルの長さは、自然から取り出してきた「素材」が「工芸作品」になるまでに、どれだけ工程が積み上げられているか、という証でもあります。(略)名づけのルールと仕組みさえ押さえれば、それらは作品に施された複数の「わざ」を発見するためのヒントになります」と語りかける。そして、富本憲吉《色絵染付菱小格子文長手箱(いろえそめつけひしこごうしもんながてばこ)》を「色絵+染付(上絵付と下絵付の併用)」「菱小格子文(装飾文様)」「長(かたち)」「手箱(機能・用途)」に分解し、作者が上絵付(赤)と下絵付(青)を併用した「切実な工程上の事情」を説いている。 鑑賞者にとって長くて難しい、タイトルのルールと仕組みを解説することが、作品の「素材」と「わざ」を「解析」し「凝視」するための切り口となりえるとは。思いもよらぬ逆転の着想がおもしろい。その切り口が、工芸館のコレクションの成り立ちと特色、すなわち、1977年に工芸館が発足した時、コレクションのほとんどが文化庁からの移管品でかつ日本伝統工芸展からの買上品であったこと、こうした経路の移管は今も続き、結果として重要無形文化財保持者(人間国宝)の作品群がコレクションの中核をなしていることと、ゆるやかに連関しているのだから、まさに自己紹介にふさわしい設定である。 展覧会は、第1章を導入として「第2章 「自然」のイメージを更新する」と「第3章 風土—場所ともの」で構成され、全体を通して、工芸館が発足時より展示方針の1つに掲げつつも正面から取り組むことのなかった、「地域的または地方的特色を有する工芸品の展示」を強く意識している。また、「それぞれの土地で生まれた素材に人が手を加え、生活のなかで息づいてきた工芸は、日本全国一律ではなく、実に多くの多様性をもって発展してきました」という認識に立ち、「素材とわざ、それぞれの構成要素に分け入るようなミクロの目線」で作品を見つめ楽しむその先に、「常に更新されていく日本の「風土」を考えてみたい」とする思いは、地方移転の意義と素直に呼応している。 ただ、作品を見渡しながら覚える一様な美しさへのとまどいは何だろう。工芸館の移転は、「コレクション(モノ)や活動(人)がさまざまな境界を越えていく、「移動」のプロジェクト」である。国の文化財行政を起点として収集され、“東京”“近代”“美術”の傘のもとで展示されてきたコレクションに、「風土 Regionalities」という「異なる視点を投げかける」今回の試みは、収集された作品を「永遠に固定した位置づけの枠」にとどめることなく、「幾度も幾度も読み直していく」リサーチのはじまり。今後の挑戦に期待がふくらむ。 (『現代の眼』635号) 註 美術史家・北澤憲昭氏の企画による展覧会「アルス・ノーヴァ—現代美術と工芸のはざまに」(東京都現代美術館、2005年)出品の中村康平氏の作品。『美術史の余白に—工芸・アルス・現代美術』(「工芸」シンポジウム記録集編集委員会、美学出版、2008年)に掲載されている。 本稿において一重鉤括弧(「 」)で括った文章等はすべて『国立工芸館石川移転開館記念展Ⅰ「工の芸術—素材・わざ・風土」』(東京国立近代美術館、2020年)所収、花井久穂「皇居のほとりから、工芸のまちのなかへ—「工の芸術—素材・わざ・風土」」を参照し引用したものである。

国立工芸館における作家アトリエの再現展示「松田権六の仕事場」

松田権六の仕事場 写真 太田拓実 松田権六の仕事場 写真 太田拓実 シャッ、シャッ、シャッ…リズミカルな音が響く。「仕事はまず下段の棚板の隅に、青貝(あおがい)を蒔くところから始まる」とナレーションの声。漆による加飾技法の一つである蒔絵で、均等な大きさに砕いた微細な貝の破片を塗面に蒔いている音だ。カメラが作家の手元をクローズアップし、パラパラと細かな貝の破片が落ちる様子が、約2メートル幅の大画面に映し出される。映像とはいえ画面の大きさのせいか、空気を乱さぬよう思わず息を凝らす。 金沢で今秋開館した国立工芸館では、「松田権六の仕事場」として常設展示のセクションを設けることになった。東京の文京区にあった仕事場を、移築・復元すると共に、文化庁による工芸技術記録映画『蒔絵—松田権六のわざ—』の上映と、実際に制作で使われた道具や素材類などをはじめとする関連資料が展示できるケースを設置し、松田権六の制作を多角的に紹介する。冒頭の音声は、このエリアで上映されているVTRから流れるものだ。 同エリアの展示ケースでは現在、「《蒔絵槇に四十雀模様二段卓》制作の周辺」と題し、制作工程で使われた置目(おきめ)(トレース用図案)やスケッチブック、また象牙、貝、卵殻などの蒔絵の素材、実際に使われていた道具類を特集展示している。映像でも登場する松田の仕事場は、仕事ができる実質有効スペースが、2畳+α程度の畳敷きの極小空間で、しばしば茶室に間違われるほどだ。手を伸ばせば座ったまま必要な道具、材料がすぐに取り出せる配置となっている。松田にとっては、狭いながらも飛行機の操縦席(コックピット)のような機能的な空間だったのだろう。ここから、《蒔絵鷺文飾箱》(1961年)や《蒔絵竹林文箱》(1965年、共に東京国立近代美術館蔵)など、戦後の名品の数々が生み出された。 今回の特集展示では、松田権六が制作のために金沢で特別注文していた金粉も出品中である。《蒔絵槇に四十雀模様二段卓》(1972年、東京国立近代美術館蔵)の棚板中央部には、特注の粗いやすり粉と、9号、7号の3種類の大きさの金粉が使われている(号数が小さくなるほど粉は細かくなる)。肉眼では、違いがわかりにくいが、よく見ると特注金粉は、その他2種の金粉よりわずかに輝きが強いように感じられる。 写真1  松田権六《蒔絵槇に四十雀模様二段卓》 1972年 東京国立近代美術館蔵 〇で囲った部分の金粉には、特注の粗いやすり粉と、9号、7号の3種が用いられた。 松田が使用していた特注金粉を、一般的な金粉(東京産)と比べてみると、後者は、粒の大きさ・形がほぼ均一で、きれいに揃っている。一方、特注金粉は、粗く、粒の大きさも不揃いだ。この金粉を、松田は1962年頃から携わるようになった中尊寺金色堂(岩手県平泉)の修理のために注文し始めた。金色堂の建立時にあたる平安時代に用いられていた粗いやすり粉と同じものを修理で使うためだった。 松田が使用していた特注金粉を、一般的な金粉(東京産)と比べてみると、後者は、粒の大きさ・形がほぼ均一で、きれいに揃っている。一方、特注金粉は、粗く、粒の大きさも不揃いだ。この金粉を、松田は1962年頃から携わるようになった中尊寺金色堂(岩手県平泉)の修理のために注文し始めた。金色堂の建立時にあたる平安時代に用いられていた粗いやすり粉と同じものを修理で使うためだった。 通常、蒔絵用の金粉(丸粉)は、金やすりで地金をおろした後、角をとって球形になるよう形が整えられる。平安時代には、丸める作業までなされず、やすりでおろしたままで用いられていたという。特注金粉は、平安時代の蒔絵粉を参考に、角をとる作業をほどほどのところで止めて仕上げた。おろし放しでもなく、かといってただ丸くするだけでもない。ちょうど米粒ほどの大きさになるように金粉を作るのは、たやすい作業ではなかったと聞く。こうしてできた特注の粗い金粉は、松田の創作意欲をそそったようで、《蒔絵竹林文箱》等の作品に使われ、松田自身の制作においてもなくてはならない素材となっていったと考えられる。 粒の大きさや形が不揃いで粗い金粉を、松田が好んで使用した理由はどこにあったのだろう。一つには、粒が不揃いなため、金粉でモチーフを描き出す際、その輪郭線がきっちりと揃わず、多少デコボコとした効果が得られるという点。これによって、金粉の硬い印象が和らげられ、やわらかな蒔絵表現が実現できる。標準金粉では、粒が均一に揃っているため、輪郭線が整いすぎ、金粉の硬質な印象が前面に出てしまう。 しかし、この作品《蒔絵槇に四十雀模様二段卓》の棚板部分に蒔かれた金粉の場合、何かモチーフを描き出しているわけではないため、別の理由が考えられる。特注金粉の拡大写真を見ると、一般的な金粉に比べて、激しくねじれ表面積が大きいという特徴がある。これを塗面に蒔くと、漆の中に沈み込む部分があったり、逆に、表面へ出てくる部分が生じたりする。うっすらと漆(純度の高い透明な漆)が被った金粉は、漆の下から鈍い光を放ち、表へ出てきたものは強い光で輝く。こうした状態のところへさらに細かい金粉を蒔いていくと、最終的に、遠目には金地一色に見えるが、強く輝く金粉とそうでないものが混じり合い、一種独特の深みのある金地ができるという。 さて、ここで金地がなされた《蒔絵槇に四十雀模様二段卓》に戻って作品全体を眺めると、金地は、槇の枝葉に囲まれている。手前の枝に2羽のシジュウカラが止まり羽を休め、対角に1羽が飛ぶ。金地は鳥たちが遊ぶこの風景を明るく照らす陽光、あるいは動物や植物が生きる世界を包む空気としての意味合いをもつ。松田権六は、植物や鳥たちの背景を、控えめであるが滋味深い光で満たすため、特注金粉を使った蒔絵表現としたのではないだろうか。生命賛歌ともいうべき本作のテーマが浮かび上がってくる。 《蒔絵槇に四十雀模様二段卓》は、松田権六晩年の代表作で、蒔絵、螺鈿(らでん)、撥鏤(ばちる)、平文(ひょうもん)などあらゆる技法を詰め込んだ、集大成としての作品とも位置づけられる。それゆえに、松田がこの作品にかけた気迫が映像を通して伝わってくるようだ。「松田権六の仕事場」では、VTRから流れる仕事場の音声をBGMとして聴きながら、実際に使われた図案や道具そのものを間近で見ることができる。制作された場所もすぐ目の前にある。「こんな風に作っていた!」という臨場感あふれる松田ワールドを、松田権六という近代の蒔絵師を生んだ金沢の風土を感じながら、ご堪能いただければ幸いである。 (『現代の眼』635号)  謝辞 「松田権六の仕事場」の構築にあたり、多くの方々にご協力をいただきました。とりわけ、松田権六氏のご遺族には、長期間にわたる惜しみないご尽力を賜りました。また、重要無形文化財「髹漆(きゅうしつ)」保持者・増村紀一郎氏には、工房再現のための貴重なご助言を賜りました。記してここに深謝申し上げます。

国立工芸館の建築と松田権六の仕事場の移築・再生

写真1 明治42年の第九師団司令部庁舎出典:『石川県写真帖』、石川県、1924年 写真2 明治42年の金沢偕行社出典:『金沢写真案内記』、北陸出版協会、1909年 石川県金沢市に開館した東京国立近代美術館工芸館(通称:国立工芸館)は、登録有形文化財の旧陸軍第九師団司令部庁舎(以下、第九師団司令部庁舎)と旧陸軍金沢偕行社(以下、金沢偕行社)の2棟を移築して一体的に整備した美術館である。 第九師団司令部庁舎は1898(明治31)年に金沢城内に建設、戦後は金沢大学本部として使用され、1968(昭和43)年に現在地の隣地の石引に移築された。その際、敷地広さの制約からコの字型平面の正面を残して両翼部分を撤去した。 金沢偕行社は1909(明治42)年に石引に逆T字型平面で正面を新築、背面に歩兵第七連隊の将校集会所を講堂として移築した建物であった。戦後は国税局が使用して、1970(昭和45)年に講堂を撤去した正面部分を敷地内で曳家(ひきや)した。 2棟とも昭和43年以降は県の施設となり一般の人が利用することはなかった。1997(平成9)年に登録有形文化財になった後も活用されない状態だったが、国立工芸館の移転により建物が有効活用されることになった。 図1 第九師団司令部庁舎 復元1階平面図 図2 金沢偕行社 復元1階平面図 今回の移築整備工事の1つめの特徴は登録有形文化財を移築整備して活用したことである。旧陸軍の明治期の木造建築物として2棟とも110~120年前に建てられた当初の木造軸組とトラス構造の小屋組をできる限り保存した。建物完成後は見られないが、継手や仕口、表面加工、構法などの当初の情報を持つ部材が残っていることに価値がある。また、上げ下げ窓も再用保存した。 2つめの特徴は、2棟とも昭和43~45年に失われた部分の外観を古写真、古図面から復元したことである。第九師団司令部庁舎では両翼部分を復元して、窓の手すり装飾位置、ドーマーウィンドウを復元した。金沢偕行社では講堂を復元して、正面側建物の腰石張りを復元した。外観復元した部分の内部は展示機能等を持たせるため、鉄筋コンクリート造で整備された。また、解体移築工事中、木材の既存塗装の下層から創建当初の色が確認されたため当初の塗装色に戻しており、明治創建時の姿が再現された。 写真3 解体中の第九師団司令部庁舎の木造軸組内法(うちのり)には楣(まぐさ)が入る 写真4 解体中の金沢偕行社のトラス小屋組 登録文化財は外観の保存が求められ、内部はある程度自由に整備活用できるため、国立工芸館でも第九師団司令部庁舎の正面中央の階段室で明治期の欅造りの階段が見られる以外は、内部を展示コーナーなどとして整備した。階段室のシャンデリアは東京の旧国立工芸館(現在は東京国立近代美術館分室)である重要文化財の旧近衛師団司令部庁舎で使用のシャンデリアを参考に再現している。 第九師団司令部庁舎は明治31年に第八師団から第十二師団の5師団が新設された際に同時に共通仕様で建てられた司令部庁舎の1つである。偕行社は各師団で全く意匠が異なる。性格、意匠の異なる両者が揃って残存している例は全国的にほとんどなく、2棟が隣り合って比較できるのはここだけである。昭和43~45年に2棟の建物の規模を縮小してでも残そうと判断した意義は大きい。 展示コ-ナーには漆芸分野の人間国宝である松田権六氏の工房が凍結移築保存された。国立工芸館の建物が外観と軸部を保存して内部を整備したのに対して、松田権六工房は内部と軸部を保存して外観を整備した。 軸部はほぼ全て再用、内部も柱、床板、天井板等の木材のほか、漆喰壁、畳、室、模様入り障子など全て再用保存した。漆喰壁は内部の壁貫、竹小舞、土壁ごと壁面で解体して石川に運搬して土壁の裏面を補強して再用した。漆喰の亀裂や剥離部分は新規の漆喰で補修した後、経年の汚れを再現した。松田邸の特徴として左官工法による葛壁を設えており、繊維質の葛壁であるがゆえに上塗層だけを丁寧に解体できたため、表具の技法で再用した。外部は展示コーナーの塗装クロス壁と調和するように同壁で仕上げた。 写真5 移築整備された松田権六工房左側に葛壁が見える これらの移築整備工事には職人の技能が求められ、石川県や金沢市には歴史的建造物を保存活用していく風土と、伝統建築技能継承への取り組みがあることが寄与している。 以上のように内部は、松田権六氏が創作活動をしていた空間をそのまま移築しており、今にも権六氏が工房に来て仕事をするのではないかと感じていただけたら幸いである。 (『現代の眼』635号)

タッチ&トーク 畠山耕治《四角いくすんだ緑》2004年

令和2年度日本博主催・共催型プロジェクト 国立工芸館石川移転開館記念展Ⅰ 工の芸術―素材・わざ・風土 日ごろ身近な存在のうつわや着物。それが美術館のなかだと、ちょっと違って見えることはありませんか?素材の豊かな味わいや技術の粋を目にして、思わず「アァ!」と驚きの声をあげたり、「どうやって作るのだろう?」と首を傾げたことは? 「タッチ&トーク」は、そんな来館者の方々の声から生まれたプログラム。作家が精魂込めてつくりあげた作品の重さや感触など、目はもちろんのこと、指先のセンサーや音など、五感をフルに使って味わう鑑賞スタイルを、皆さんのご自宅や学校にお届けできたら幸いです。 https://www.youtube.com/watch?v=WRbK0pLz0w0

工芸家の仕事場から 北陸編 三代畠春斎(金工)/見附正康(陶芸)

令和2年度日本博主催・共催型プロジェクト 国立工芸館石川移転会館記念Ⅰ 工の芸術―素材・わざ・風土 「松田権六の仕事場」コーナーが好評の工芸館。 作家の制作の現場、覗いてみたいですよね。 今回は3代畠春斎さん(金工)、見附正康さん(陶芸)、2人の工芸家の工房からトーク映像をお届けします。どんな場所でどんな風に作っているの? 道具や機材が並ぶ工房の臨場感、北陸の美しい風景にもご注目ください。 https://www.youtube.com/watch?v=MCW-n6hl7EY

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