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現代の眼 展覧会レビュー 男性彫刻、それともオス彫刻?

木下直之 (静岡県立美術館館長、神奈川大学特任教授)

コレクションによる小企画「男性彫刻」|会場:ギャラリー4[2階]

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会場風景 撮影:大谷一郎

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いつのころからか、アントニー・ゴームリーの彫刻《反映/思索(Reflection)》(2001)に会うことが、お濠端にある当館を訪ねる楽しみになった。最近、調子はどう?といった気分で近寄って行く。

英国リバプール郊外、クロスビー海岸に展開する《Another Place》(1997)を見に行ったことがある。作者自身から型取りした100人の男性像が海に向かって立っているのだから、百人百様、いずれも激しく風化している。原形を留めない、という常套句が出かかるが、何を以て原形とするのか。むしろ日々変わる姿こそが原形であり、常態であるに違いない。それ以来、ますます当館のふたりが気になる。

ひとりは皇居を見ており、ひとりは皇居に尻を向けている。透明のガラスを挟んで向き合い、屋内と屋外に分かれて立つ。

何を見に行くのかって? もちろん、外のひとりに埃が溜まり、鳩が糞を落とし、蜘蛛が巣を張り、汚れ、錆びついてゆく「風化」が楽しみだ。もうひとりは温湿度が管理された快適な環境で「劣化」から守られている。そうして、エイジングを極度に恐れ、アンチエイジングの肩を持つ美術館という施設が可視化されることを何よりも期待する。

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その日もエレベーターを降りるまではいつもどおりだったが、手前の柱に大書された「男性彫刻」という文字が飛び込んで来た。ジェンダーの観点から女性に光を当てた展覧会をこれまでに2度開催したので、今度は男性に目を向けたのだと、研究員の鶴見香織さんが企画の意図を語ってくれた。ふたつの展覧会とは、表現された女性をテーマにした「重力と女性像」(2011–12)と作者が女性であることに注目した「解放され行く人間性——女性アーティストによる作品を中心に」(2019)である。前者では、「シナシナした女性彫刻ばかりを展示しました」(鶴見談)というが、残念ながら私はそれを見逃した。

当館のウェブサイトに「過去の展覧会」という頁があり、「日本近代美術展——近代絵画の回顧と展望」で開館した1952年以来の展覧会を一望できる。ざっと振り返ると、展覧会タイトルも時代を反映していることがわかる。古くは「展望」、「流れ」、「新世代」といった、過去から未来へと向かう時間を感じさせる言葉で括る展覧会が多かった。底流に発展史観があったのかもしれない。近代美術館を名乗って生まれたのだから仕方がないか。

近年の「寝るひと・立つひと・もたれるひと」(2009)と「ぬぐ絵画」(2011–12)も女性像に偏った展覧会だったのではないか。前から気づいていたことだが、男性はほとんど横たわる姿で表現されない。彫刻の作例はわずかで、それは倒れた姿となる。古代彫刻がすでにそうであったし、たとえばヘンリー・ムーア《ゴスラーの戦士》(1973–74、兵庫県立美術館蔵)を見れば、現代でもなお変わらないことがわかる。銅像となればみんな直立しており、尚更そうだ。

当館の70年になろうとする歴史を振り返ったところで、「男性彫刻」や「男性」をタイトルにうたった展覧会は見当たらない。「男性彫刻」を額面どおりに受け取れば、男性を表現した彫刻ということになり、その対極に「女性彫刻」が置かれる。しかし、現代においては、そんな単純な二分法で良いのかという声が上がるだろう。「LGBTQ彫刻」もあって然るべき。また、「男性絵画」や「女性絵画」という呼び名も聞かないから、「男性彫刻」は彫刻に限って成立するのかもしれない。あるいは、「男性彫刻」を男性による彫刻と捉えることだってできそうだ。ともあれ、男性にこだわる以上は、なぜ性を問題にするのかを問わなければならない。

会場風景(左から、北村西望《怒涛》、朝倉文夫《山から来た男》、白井雨山《箭調べ》) 撮影:木下直之

3

男性に限らず、性は、少なくともセックスとジェンダーの視点から問うことが当たり前になっている。前者は生物としての性、後者は社会的な存在としての性である。挨拶文に「男らしさ」云々とあり、本展が後者の観点で企画されたことは明らかだ。会場は「強い男」、「賢い男」、「弱い男」から構成される。この三分類が妥当であるかを考えてみたい。

同じく挨拶文は「強い男」を「筋骨隆々の男たち」、「弱い男」を「主に老人像」と要約する。語義において強弱は対概念だから、それが会場の両極を成すことに異論はない。突き詰めれば、筋肉の有無になるだろう。白井雨山《箭調べ》(1908)、朝倉文夫《山から来た男》(1909)、北村西望《怒涛》(1915)の勢揃い(いずれも1907年に始まった文展出品作)は圧巻だが、果たして彼らが「男らしさ」を求めて筋肉表現に熱心であったのか。というのは、西洋彫刻と取り組む彼らは大熊氏廣や長沼守敬に続く第二世代、彫刻家を目指した時点で人間像だけが相手だった。そこでは美術解剖学が必須であり、骨格や筋肉と向き合うことになる。それはジェンダーよりも、むしろセックスの学習だったのではないか。

そもそも、全裸で、股間にだけはイチジクの葉をつけて、箭(矢)の具合を調べる男に「男らしさ」が求められているだろうか。《山から来た男》はさらに奇妙で、いったいどこの山から下りて来た誰なのか。2年前の朝倉の東京美術学校卒業制作が《進化》と題され、旧人らしきオスとメスが表現されたことを考えると、社会的存在としての男は眼中になかったように思う。

明治半ばの画家や彫刻家にとって、課題は老若男女のあらゆる姿態を表現することである。そのために裸体モデルと向き合った。筋肉に「オスらしさ」を追い求めたのであって、それが社会の求める「男らしさ」へと転ずるには、衣服で筋肉を隠す必要があった。そうまでして「オスらしさ」を求めたのに、股間表現においてのみためらい、白井は葉っぱを、朝倉は毛皮を持ち出したことについては、拙著『股間若衆』(新潮社、2012)で問題にし、今回も別に論じた(「股間若衆に春が来た」『芸術新潮』2021年2月号所収)。

残る「賢い男」は肖像彫刻をそう表現したようだが、では「賢くない男」はどこに行ったのか。なぜなら、賢い賢くないを問わず、男たちはこぞって肖像彫刻となり、立派な台座の上に直立したからだ。その証が写真集『偉人の俤』(二六新報社、1928)に他ならない。書名が語るとおりに、収録されている彫刻は「賢い男」ではなく「偉い男」だ。女性もいるが圧倒的に少数である。拙著『銅像時代』(岩波書店、2014)では、銅像になった「賢くない男」や「偉くない男」の存在も暴露した。すなわち肖像彫刻になるのは「偉い男」や「偉そうな男」である。そのためには、身分や地位にふさわしい衣服が欠かせない。裸になるわけにはいかない。功成り名を遂げたころには、筋肉がすっかり衰えているからだ。

最後に、石膏像を引き出したことの意義に触れたい。ここに挙げた3点の「男性彫刻」は、いずれも当館での「文展の名作」(1990)で展示されたが、雨山と西望のそれはブロンズ像だった。それぞれの鋳造は1969年、1977年と、石膏像での発表から半世紀以上も後のものであり、作者は預かり知らない。朝倉のそれだけは石膏像が展示されたが、これを最後に収蔵庫で長い眠りにつき、このたび30年ぶりの出番となった。石膏像は壊れやすく、汚れやすい。美術館がブロンズ像の展示を優先するのは、エイジングよりもアンチエイジングを求めるからだ。その慣習にあえて逆らい、石膏像を引っ張り出した企画者の英断に拍手を送りたい。


『現代の眼』635号

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