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現代の眼 展覧会レビュー 岡﨑乾二郎と「具象」

上﨑千 (芸術学)

所蔵作品展 MOMATコレクション「特集展示|岡﨑乾二郎|TOPICA PICTUS たけばし 」|会場:1室、4室、12室、EVホール[2–4階]

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本当の問題はキツツキの嘴に触れることで歯痛が治るかどうかではなく、ある観点からキツツキの嘴と人の歯を《相伴う aller ensemble》ものとして扱うことができるかどうか(治療における処方の適合も、仮説に基づいたさまざまな適用の一例にすぎない)、また物と人間とのこのようなグループ化によって、世界にひとつの秩序の始まりを導入できるかどうかである。

――クロード・レヴィ゠ストロース『野生の思考』、第1章「具体(具象 concret)の科学」、1962年1

アオリイカは泥障烏賊と書く。あの美しい(気味の悪い)魚介の名は「あおり」と呼ばれる古典的な馬具に由来するという(泥障・障泥と書く)。「障泥を打つ」という古い言い回しには人が馬を急かす(障泥る・煽る)動作の換喩が見られるが、他方これも同じ馬具の類推だろうか、トラックなどの荷台外周に蝶番ちょうつがいで取り付けられ、荷台とその積み荷を囲い、必要に応じて外側に開く(垂直に閉じる)あの板もまたアオリと呼ばれる。円みを帯びた胴を縁取る大きなひれ、それをひらひらと波打たせて(つまり、煽って)泳ぐアオリイカの姿はまるで泥障を風に波打たせて駆ける馬のようでもあり、トラックの荷台の縁でアオリが開閉する(つまり、煽る)様子はまるでアオリイカの泳ぐ姿のようでもある。このような類推思考から、岡﨑乾二郎の小品群「ゼロサムネール」の多くが板材で囲まれて(囲まれない辺や部分的な開口部を伴って)いることにアプローチできるだろうか。画面の周囲に添えられた板材の枠、そのこだわり(拘泥り)の設えは作品外周のそこかしこにそのつど閉鎖と開放をもたらし、画面を「括弧」に括って強調したり、画面の外に溢れ出すかのような絵具の素振りを受けて、それを堰き止める振り(堰を切る振り)をしたり、画面内部の方向や区画を示唆する(うそぶく)。いわゆる「額縁」のような、絵画の構成からは除外される(展示の構成にのみ含まれる)ような設えとは似て非なるその枠組みは、「ゼロサムネール」を煽り、私たちの注視を煽る。では、煽られている画面はどうなっているのか。

会場風景│撮影:中川周

まるで春泥(雪解けや霜解けによる泥濘ぬかるみ)を弄んだ後のような、綿布の表面に奔放に(あるいは、少なくとも奔放さを装って)載せられ(延ばされ)、盛り上がり(抉れ)、寄せられ(離され)、偏り(均され)、重なり(部分的に混ざり)、蔽い(覗かせ)、こそぎ取られ(残され)み出した「ゼロサムネール」の絵具の有り様は、このように言葉で一般化するたびに積み残される(捨象される)、絵具の具象に係わる。それは美術史が長らく矮小化してきた絵画の具象性(そして抽象性)の問いへの反問であり、画家はそれを描写や彩色とは別の手付きで、食パンにバターやジャムを塗るように問い返しているのである。先ほど「小品」群と書いたが、もちろん「ちょっとした作品」の束という意味ではない。「ゼロサムネール」の小ささは、私たちに作品との距離(physical distancing)を詰めて吟味することを促し、そこから(その場で)別の場所、作品の《外》へと赴くよう促す大きさなのである。つまり「ゼロサムネール」は窓(窓口)であり、それは他の多くの絵画が依っているような「窓」としての在り方よりもはるかに具体的=具象的に機能する。《40 days after the resurrection/マリア・オランス》(2020年)はそれ自体がひとつの絵画を開いて(開窓して)いるが、画面内部に少し傾いて象られて(穿たれて)いる矩形もまた窓のようであり、その「小窓」に照準を合わせるように、件の板材が画面を上下左右から挟んでいる。イエス・キリストの昇天(復活から40日後)に際して聖母マリアが開いた両掌、「オランス」と呼ばれる祈りの仕草とこの作品はどのように照応し、どのような観点で相伴うのだろうか。排他的な関係ではないはずのそれらは「悪い意味で抽象的で具体性を欠いてしまう」ような結び付きを示しているのではない2。「ゼロサムネール」はむしろその逆で、いわゆる「具象絵画」の持つ具象(いわば、具体性の弱い具象)よりも、もっとラディカルに具体的=具象的な観察を要求しているのである。具象の力が強ければ、抽象の力の揺り返しも大きくなるだろう。そのせいで、「ゼロサムネール」に詰め寄った私たちはたびたび《外》に放り出されるかもしれない。しかし具象とは、抽象化・概念化の背後で常に圧倒的な余剰として残される何かなのであり、ということは絵画が具象でなかったことなど本当は一度もないということだ。

岡﨑乾二郎《40 days after the resurrection/マリア・オランス》
2020年、アクリリック・キャンバス、25.2×17.1×3.0cm、作家蔵
ⒸKenjiro Okazaki

私はこの考察を泥縄で、つまり泥棒を捕らえて縄をうように書いている。画家が彼の標榜する「抽象の力」を「抽象芸術の持つ、この具体的な力」と言い換える時の反語的な響きに留意しつつ、むしろ私はこの場で「具象」とは何か、「具象の力」について考えている3。しかし具象について語ること、この語りという営みは、どうしても具象を遠ざけてしまう(具象性という抽象概念)。結局のところ泥裡に土塊を洗うような手続きになるのだが(実のところ、この比喩の泥臭さには到底及ばないのだが)、私は今、隙あらば「泥」という字を伴う熟語や言い回し、泥による表現を濫用している。つまり私がこの場で述べていることの大半は「泥」を具象として含む表現の一覧という外部に動機付けられている。私は柳の下(一覧表)に赴いては、そこに泥鰌どじょうがいないか(使えそうな、こじつけられそうな表現がないか)、滞々泥々と探している。語りが抽象化の(具象を欠く)営みだとすれば、せめてこの「泥」の仕掛けだけでも一矢報いてくれないだろうかと。ところで、具象を欠く社会(遠隔の社会 distant society)は、つい1年前まで私たちのコミュニケーションの大半を占めていた表現の在り方をこのまま奪い去るだろうか。社会というこの雲のように抽象的な概念の下で、私たちはお互いに離れていくのだろうか。抽象と具象の間に、かつてないほどの雲泥の差(天の雲と地の泥ほどの隔たり)が生じている。岡﨑の「ゼロサムネール」がそのような雲泥の差分を経験するための枠組みとして、抽象化と具象化の振幅の中に《経験の条件》を探るための枠組みとして(再び)機能するかどうかに、絵画のコミュニケーションの未来が懸かっている。

  1. 原文より引用者訳。
  2. 岡﨑乾二郎『抽象の力』(亜紀書房、2018年)、416頁。
  3. 前掲書、8頁。

『現代の眼』635号

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