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現代の眼 展覧会レビュー 投げかけられた「問い」のその先へ ―民藝再考の契機として―

加藤幸治 (武蔵野美術大学教授・民俗学)

柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年|会場:企画展ギャラリー[1階]

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民藝は歴史である。民藝を回顧することは、そのまま近代日本そのものを問いなおすことでもある。民藝に関する近年の研究は、柳宗悦の思想・宗教観と独自な美術運動のみならず、ミュージアムや博覧会における展示の権力性、伝統工芸の産業化と地方文化の創生、植民地主義や周縁へのまなざしなど、この運動の持つ諸側面を浮き彫りにしてきた。

一方で、民藝は生き続けている。その品々は私たちを虜にし、日本民藝館や各地の民藝館を訪ねればその趣から、えも言われぬ幸福感に包まれる。民藝はそんな「夢の国」であり続けているが、それを単なるノスタルジーや趣味と断ずることはできない。柳たちは、産業革命以降の効率化や大量生産/消費による自然への抑圧、労働の均質化にともなう人間疎外といった歪みに対して「問い」を投げかけた。この近代の超克という時代特有な「問い」は、いつの時代においても「生活の形を見つめなおそうとする人々」(本展「ごあいさつ」より)に対して意味を持ち続ける。

柳たちが投げかけた「問い」の先へ、未だたどり着けない私たちに、本展は問いかける。彼らが問うたものを、現代を生きる私たちはどう引き受けることができるか?

図1 会場風景|撮影:木奥惠三

本展の構成要素は、民藝の発見にいたる芸術家たちの模索から、朝鮮工芸品の蒐集と美術館建設、旅を支えた鉄道網の発達と観光ブーム、博覧会や展示、編集の思想、戦争と国民国家、戦後の高度経済成長期における再燃、日本を表象するメディアとしての民藝と、網羅的である。これらを、単なるクロニクル(年代記)として一本のリニアな導線で構築するのは簡単であるが、そうするには要素が多すぎて観覧者は息切れしてしまう。

本展は、主題と主題を網目状に関連付けるため、「(民藝という)価値形成のプロセス」と、「(民藝という)価値共有のメディア」のふたつの枠組みを軸とすることで単調さを回避している。これらは、筆者が展示から了解したふたつのラインである。

「価値形成のプロセス」は、まさに柳たちによる雑誌『白樺』の仲間たちとの交流や我孫子での芸術家村の実践に始まり、朝鮮陶磁器や木喰仏との偶然の出会い、日本民藝美術館の構想などを通じて民藝という概念を確立させていく、若々しい思索と実践のプロセスそのものである。手仕事の復興へと向かっていく拡張期にも民藝という価値は磨かれ続けた。展示では、当時の写真や資料に登場する蒐集品の実物を見せることに徹しているため、(民藝という)概念に実物が紐づいていく過程、ものとの対話から概念が磨かれていくプロセスを、観覧者は追体験することとなる。

「価値共有のメディア」は、民藝の概念をあの手この手で共有、普及、拡散させていく運動としての側面である。ここでは「月刊民藝」創刊号(1939年)に掲載された、あの「民藝樹」にシンボリックに現れる、「美術館」「出版」「生産と流通」の三つの要素が各コーナーに登場する。「美術館」は日本民藝館、ショールームとしての博覧会展示、ファッション、「出版」は装幀、タイポグラフィ、編集、「生産と流通」は手仕事の復興、セレクトショップによる都市での販売といった主題として構成されている。

図2 会場風景|撮影:木奥惠三

驚くべきことに主題同士の関連付けは、展示資料の選定レベルで緻密に構成されている。展示担当者から伺ってハッと気づかされたことだが、例えばいくつかのコーナーに、民藝運動にとって重要な工芸のひとつであった「丹波布」が登場する。蒐集品の反物や夜具地として、本の装幀の使用例として、表具裂や額装のパーツとして。この印象的な絹と木綿の交織による平織の縞抜きは、意識下で脳裏に焼きつく。「あれ?この模様、さっき見たような…」と印象付けられ、別々のコーナーがものでつながるのである。こうした、展示というものを、ひとつの「体験」としてとらえる発想は、柳たちがこだわった展示のレガシーとも言えよう。

図3 会場風景|撮影:木奥惠三

「ローカルであり、モダンである」というキャッチコピーは、歴史としての民藝、現在進行形の民藝の両面を、端的に言い当てている。その特質は、「(民藝という)価値形成のプロセス」と、「(民藝という)価値共有のメディア」という、ふたつの脈絡によって提示される。柳たちが社会に投げかけた「問い」は、民藝再考の視点を与えてくれるだけでなく、私たち自身の生活を見つめなおす契機ともなる。この「問い」を深める過程こそが、民藝を現在進行形にしてくれるのである。


『現代の眼』636号

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