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現代の眼 展覧会レビュー ボナール《プロヴァンス風景》(1932)を見始める(後編)

平倉圭 (横浜国立大学准教授)

コレクションによる小企画「新収蔵&特別公開|ピエール・ボナール《プロヴァンス風景》」|会場:ギャラリー4[2階]

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ピエール・ボナール《プロヴァンス風景》1932年、東京国立近代美術館蔵

ボナールを見続けている。

これは結局いつなのだろう? 夜なのか昼なのか。決定し難さを覚えつつも、全体の印象は夜に傾く。画面全域のコントラストの低さ、青味がかった色調がそう感じさせるようだ。

謎めいた中央の木。画面の下1/4あたりから空に向けて持ち上がり、途中で右方へと斜めに広がる。奇妙な形は一つの木ではなく奥行方向に複数の木々が重なっているのであろう。同じ青味がかったビリジアンと灰白色のストロークが使われているため、ひとつながりの塊に見える。

目を画面右に向ける。遠近効果を無視して、同じような形・大きさの木が三つ縦に並んでいる[図1]。――ここでは木々の色は全く違う。手前は黄味の強い明るい緑。真ん中は灰色がかった青味の強い緑。その奥に、赤味がかった焦茶色のかすれて透ける木が描かれている。

図1 ボナール《プロヴァンス風景》(部分)

三つの木の色は区別されている。例えば真ん中の木に用いた青緑を、手前や奥の木を塗る筆に混ぜていない。これは特別な抵抗を要する行為だと感じられる。同じ「木」という類である、同じ葉緑素を持つ似た形であるという、類同性の半ば自動的な認知から、描く手の動きを切り離しているということだ。

つい周りの木にも同じ色のタッチを混ぜてしまいそうだ。そうすることで生まれたはずの木々の結びつきを、ボナールは意図的に回避している。遠近法の欠如――三本の木が見かけ上収縮しないということ以上に、木々を共通の「類」に結びつけるはずの色のつながりの欠如が、描かれた世界の統一性を失わせている。

再び画布中央の木に目を向ける。灰とビリジアンのタッチの群れから上方に目を移していくと、異なる色調のゾーンが現れる[図2]。空を裂くように――開かれた三角のゾーンがあり、濃緑に黒を重ねた松のような木々が立ち上がる。そこでは全体的色調が下の空間と共有されていない。色はゾーニングされている

図2 ボナール《プロヴァンス風景》(部分)

木の色だけではない。同じ光に包まれていない。空気を満たす散乱光が同じでなく、画布中央の木では空気は淡く青味がかるように見えるが、上方の松の周りでは黄味がかっている。中央の木の左側で幹は透けるような灰白色だが、上方の松の幹は影をなす黒だ。空の一部が幕のように裂け、違う色、違う光のゾーンが現れている。そこだけ午後の陽光に包まれているようだ。

空気は時によって色が違う。例えば晴れた夏の朝に外を歩く。雨上がりの秋の夕方に。曇った冬の午後に。世界の中の種々の事物はそれじたいの固有色とは別に、その時々の空気全体を満たす特徴的な散乱光の色合いを帯びている。19世紀末にボナールの上の世代にあたる印象派の画家たちが描こうとしたのはこの光だった。特定の時刻、特定の地域、特定の天候において全ての事物を包む一つの光の色合いがあり、それは異なる事物を横断して用いられる同色のタッチによって生み出される。

ボナールの画面が欠いているのは、この統合する光だ。画面全体に注意を散乱させ、曖昧な筆遣いで事物の輪郭を局所的に溶かしながらも、諸事物を全体的に統合する一つの光の色合いを作らないこと。中央の灰緑色の木々のゾーンとその上の濃緑の松のゾーンは、夜と昼に、別の時刻に、あるいは別の日付に分裂している。

分裂していく種々の緑は、画面中央の太い幹に強い真紅が置かれることで、それとの対比関係で距離化されている(真紅の幹は文字通り、この絵の「へそ」として機能している)。この真紅を取り除けば、画面全域が黄と青緑の対比関係に支配され、種々の緑は空に差し込む明るい黄と画面右下方の黄橙に引っ張られながら焦点を失い、混乱の中で拡散するだろう。世界には秘密があり、それが全面的拡散から風景を守っている。中央の真紅の幹――それに結ばれるようにして、異なる時間が画面に生えてくる。幹を臍として、異なる時間に分裂する風景が生えてくる。

ここには非決定性がある――。画家が、というより世界じたいが、自身がどうあるかを決めかねているようだ。見続けるほどに景色は分裂を深め、見る私をもほどいていく。


『現代の眼』637号

ボナール《プロヴァンス風景》(1932)を見始める(前編)

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