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現代の眼 展覧会レビュー 何を修め(修めず)、何を復する(復さない)のか—「秘密」の語り手としての修復家たち

田口かおり (京都大学准教授/修復家)

コレクションによる小企画「修復の秘密」|会場:ギャラリー4[2階]

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美術館へ足を運ぶ。作品を見る。多くの場合、傍らにはいわゆる「キャプション」が付されている。制作者、主題、技法、制作年、寸法、収蔵館、そのいずれもが私たちが対象を知り読み解く基本的なよすがとなるものだ。本展のキャプションには、興味深いプラスαがある。展覧会のタイトルをそのまま借用するならば、「修復の秘密」、つまり作品の知られざる一面とも呼びうるものが公開されているのである。秘密の語り手として登場するのは、複数の修復家たちである。

展覧会場の右手にまず目を向けてみよう。まず、ルーチョ・フォンターナ《空間概念期待》が、修復家・斎藤敦による証言とともに姿を現す。キャプションに掲載された写真資料は、切り裂かれた画布の裏に、実は丁寧に当てられた布があることを私たちに教えてくれる。二次元を三次元へと切り開くフォンターナの身振りに潜む緻密なコントロールに思いを馳せながら歩みを進めると、モーリス・ルイス《神酒》裏面に染み出した絵具の様子が、裏面にあえて描画されたフランシス・ベーコン《スフィンクス—ミュリエル・ベルチャーの肖像》が[図1]、さらに絵画の「裏」についての考察を促す。

図1 会場風景(右からモーリス・ルイス《神酒》、フランシス・ベーコン《スフィンクス—ミュリエル・ベルチャーの肖像》。左端は靉光《自画像》)|撮影:大谷一郎

明かされる秘密は「裏」に留まらない。縦横比が変更された絵画(中村彝《大島風景》)、旧修復によって変色した絵画(岸田劉生《麗子肖像(麗子五歳之像)》)、GHQに接収された後に返却された絵画(藤田嗣治《ソロモン海域に於ける米兵の末路》など、紐解かれる物語は実に多岐にわたる。

「修復の秘密」の内容を(1)制作者の意図(2)光学調査の射程(3)修復家の葛藤の3つのグループに大きく分類した上で、作品群を鑑賞することもできよう。(1)の筆頭は前述のフォンターナやルイスの作品であり、通常光下での正面からの観察では確かめることのできない要素に目を凝らしながら画家の選択と技法を解き明かす、保存修復の手法が垣間見られる。(2)を代表するのは藤田嗣治《五人の裸婦》だろう[図2]。ここでは近年実施された光学調査が、旧修復の実態を明らかにし、今日の保存修復がそれに対峙しようとした姿勢がよく理解できる。なお、本展を特徴づける最も興味深いグループがおそらく(3)である。このグループに属する作品群では、修復方針がいかに定められたか、調査に基づく根拠が語られているのだが、修復家の証言に見え隠れする葛藤が語られる秘密の緊迫性をいや増している。

図2 会場風景(中央に藤田嗣治《五人の裸婦》)|撮影:大谷一郎

靉光《自画像》を前に、私たちは、修復家・土師広が「シャツが真っ白になるような見え方の変化」を懸念してワニスを除去すべきか否かを検討した経緯を知る。藤田嗣治《ソロモン海域に於ける米兵の末路》について、修復家・山領まりが「とても悩んだ」末にワックスと樹脂を用いて裏打ちした決断を目にする。秘密を明かす声の端々に、おそらくあらゆる時代の修復家誰もが共通して抱え続けてきたであろう終わりのない疑心のようなもの—果たしてここで下した選択は正しかったのか、という自己批判が滲む。

修復家はいわばバックヤードの存在であり、名前が作品のキャプションに登場する機会はほとんどない。ところが本展では、彼らが実名を明かしながら介入根拠を示す。それぞれの固有名詞は、曖昧模糊とした「保存修復に携わる誰か」の霧中に輪郭を描き、美術作品を残す行為に伴う根源的な心細さと、正解のない迷路のなかで道を見つけ出そうとする感触を、生々しく私たちに伝えてくれる。

会場では、2015年の展覧会「No Museum, No Life? ――これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会」(東京国立近代美術館)に「保存修復」のキーワードと紐づけられ公開された安井曽太郎《金蓉》[図3]に改めて出逢い直すことができた。青い衣服に深い亀裂が広がっていた本作品は、制作者の安井自身が「かつて保存修復を試みたがうまくいかなかった」が「ひび割れた状態を面白がって肯定した」という二つの逸話の間で揺れ動き、あるべき保存修復のかたちをめぐって長らく慎重な検討が続けられたことで知られている。青い衣服に広がる亀裂は2005年に充填・補彩され、以前の外観から大きく変化した。作品の歴史の紡ぎ手としての修復の仕事に光をあてることで、本展は改めて、作品の「読み方」「残し方」の選択肢が広く開かれていることを、その選択に伴う責務の重圧を、そこにおいて作品の内外に眠っている情報の鉱脈を探り解釈を重ねていく修復家の仕事を見晴らしている。

図3 安井曽太郎《金蓉》1934年、東京国立近代美術館蔵|左が修復前、右が修復後

「修め(繕って整え)」「復する(もとの状態に戻す)」こと—冒頭で修復の仕事をこう紹介しながら、展覧会は前述の靉光《自画像》をはじめ、あえて「(完全に)復することはしなかった」事例についても詳らかに公開する。時代を超えて正解であり続ける保存修復技法は存在しない。だからこそ、近代以降に確立した保存修復学は「可逆性」を担保する修復のあり方を目指し続けてきた。

過ぎゆく時間のなかで、何を修め(修めず)、何を復する(復さない)のか。館が修復家たちといかに協働し、どのような思考や判断の末に今のかたちを選択したのかを公開する試みは、美術作品の生や経年変化をめぐる多角的な議論の端緒として、貴重な参照点となるだろう。

 


『現代の眼』638号

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