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現代の眼 展覧会レビュー プレイバックPart 2:「日米抽象美術展」の再現

辻泰岳 (筑波大学助教)

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人知れず残っていた調書や乾板、平面図等がもたらすヴァーチャルなリアリティ、あるいはそれを支えるテクノロジーが、検証をより意義深いものとするわけではない。程度の差はあれ、同種の資料を用いて復元が可能な展示は他にもある。それよりも、眼前の対象を写すわけではない絵画等の性格を知りながら、それらが並ぶ事例をあえて選びありのままに描出するというきまりの悪さこそが鍵となるだろう[図1]。なぜいまそれを扱うのか。会場は一点の作品のかたちformの問題だけではなく、作家たちが胸に納めておこうとした現実をも詳らかにしてしまうからだ。

図1 「プレイバック「日米抽象美術展」(1955)」東京国立近代美術館3階7室|撮影:上野則宏

イサム・ノグチの口添えによって、ジョージ・モリス(George L. K. Morris)は長谷川三郎に出品を打診するため手紙を送る。長谷川はこれを踏台として日本アブストラクト・アート・クラブを組織し、ブランシェット・ロックフェラー(Blanchette H. Rockefeller)らの支援を得て、リヴァーサイド・ミュージアムで開催される第18回の「American Abstract Artists」展(1954年3月7日–28日)のため1954年1月にニューヨークへたどり着く。

到着ののち1954年2月に長谷川はThe Clubで話す機会を得る。8th Streetのこのクラブはニューヨーク・スクールと名指されることになる画家らが集まったことで知られ、のちに伝説と化した。また3月16日には知己のフランツ・クライン(Franz Kline)らと共に、長谷川はミュージアム・オブ・モダン・アート(MoMA)で開催されたシンポジウムにも登壇することができた。

なおMoMAではこの年「Japanese Pottery by Kitaoji Rosanjin」展や「Japanese Exhibition House」と続き、「Japanese Calligraphy」展(6月22日–9月19日)の開催がある。これらはいずれも同館のキュレーター、アーサー・ドレクスラー(Arthur Drexler)による企画であり、前年の来日時に彼は森田子龍や井上有一、篠田桃紅らの作品を選ぶが、長谷川もこれにかかわっていたとみてよい。機に乗じ茶をたてながら自作を語る長谷川の滞米は延び、以後の移住を心に決めて日本へと戻る。

すなわちこうした長谷川三郎の運動が、いわば凱旋として国立近代美術館の「日米抽象美術展」(1955年4月29日–6月12日)をかたちづくっている。鑑賞の際には日米の差異とあわせて、そうした境をこえた普遍性をとらえてほしい。この特別展はこのように説き、東海岸から届いた作品を2階に、日本の側の出品を油絵や版画、彫刻、書等と分け1階や3階で示した。ゲンビと称された現代美術懇談会など例はあるものの、上記「American Abstract Artists」展および「Japanese Calligraphy」展等をふまえたこの京橋の催事は、Word Paintingsひいてはモダン・アートとして書を扱う先駆にもなった[図2]。

図2 「日米抽象美術展」国立近代美術館3階|提供:東京国立近代美術館
   銀座の松坂屋で開催された篠田桃紅の個展(1954年9月10日–15日)などに続き丹下健三が会場を設計。

本展の会場は丹下健三が設計をしている。だがもとよりそれを誰が担おうと、作家の意や作品の考証をあるがままに場にうつすことはできない1。それを知ってか知らずか、丹下はここでひとつひとつの作品が有する筆触や構成composition等のみに観客を引きつけるのではなく、そうした自律的なありように反しむしろ共にあろうとする。1階では玉砂利を室内から中庭へと連ねて敷き、彫刻をその中に置くことで視線を外へと誘う。またハンス・リヒター(Hans Richter)は《Orchestration of Color》を長谷川が住む辻堂に送った。約1か月、床の間で長谷川が愛でたのちに京橋へ運び込まれたこの作品は、館においてもそのまま掛物として扱われている[図3]。さらにわざわざガラスの壁を設けそこに掛けた絵画もあり、平面の深度あるいはフォーマルな性格をとらえることそのものを遮る。理詰めのアブストラクトには似つかわしくない空間か。亜種や東亜と言うなかれ、これもモダニズムなのだ。

図3 「日米抽象美術展」国立近代美術館2階|提供:東京国立近代美術館

ただし国立近代美術館を代表する立場にいた今泉篤男は、MoMAの近刊を参照しマーク・トビー(Mark Tobey)の言にふれるなど、この特別展が扱いきれなかった日米の交わりについても各所で補足をしている2。ニューヨークの動向を絶対視するわけではないものの、そうした手落ちの口惜しさがあれば「日米抽象美術展」の会場をやはり未達、未完の近代とみる者もいたであろう。

1954年の長谷川三郎は東西を問うことで己の達成をはかろうとしたが、ヨーロッパとの旧交を温める余裕はなく、合衆国において彼は必死であった3。しかしながらコンセプチュアルと呼ぶにはあまりにもまっすぐな筆墨の《宣言》は、未達とみなすことそれ自体が力だと開き直る潔さを2024年に伝える[図4]。

図4 長谷川三郎《宣言》1954年頃

1 詳細は以下。拙稿「方法としてのディスプレー—国立近代美術館とその会場(1952年)」『鈍色の戦後—芸術運動と展示空間の歴史』水声社、2021年、75–97頁。

2 Alfred H. Barr Jr. and William S. Lieberman, “Recent American Abstract Art,” Alfred H. Barr Jr. ed., Masters of Modern Art, New York: MoMA, 1954, pp. 174–181.

3 Saburo Hasegawa, “Abstract Art in Japan,” The American Abstract Artists eds., The World of Abstract Art, New York: George Wittenborn, 1957, pp. 69–74.


『現代の眼』639号

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