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東京駅からここまで歩いてみました。酷暑の皇居の濠端を、和気清麻呂の銅像を傍目に、そのすぐそばの美術館を目指しました。紀元2600年を記念した銅像の隣には「国体擁護」とある碑が並んでいます。戦後80年の今年ですが、節目に関心のない筆者でも、暑さと清麻呂像にあてられて、遠い戦争の只中に置かれているような錯覚を起こしました。このあたりで戦争の匂いを嗅ぐことはそう難しくありません。

美術館の冷めた空気に我にかえりながら観覧した今回の展示は、丁寧に、戦中期から戦後に至る日本における美術の動向を、今では人々が知識を共有しているとは言えない歴史的文脈を整理しながら、専門的に過ぎずに提示しており、素晴らしいと思います。戦時の美術の分類について表を用いながら平易に解説し、植民地主義的な施策を続けた日本と、アジアとの視線の交差、観光や風景に潜む時局的文脈、憑かれたように劇的な表現を行う作家たち、女性の活動、そして戦後へと継続する問題に触れるなど、若い世代や、インバウンドの旅行者にも、通常は美術展で扱われない資料や解説なども提示しながらわかりやすく紹介していました。これまで様々な論議にさらされてきた作戦記録画を多く展示しながらも、それらの有無に問題を集約させてしまう粗雑な論議に陥らずに、率直なバランスのとれた展示を展開させています。おそらく多様な軋轢(あつれき)を抱えながら準備を進めたであろう担当諸氏の努力と配慮に敬意を払いたいと思います。多くの方にご覧いただきたい展示だと思いました。「戦争」の名の付かぬタイトルは誹(そし)りを受ける懸念もある一方、以前「美術と戦争」(姫路市立美術館、2002年)という展示を担当した筆者としては、「戦争」という言葉にばかり反応して「美術」の文脈を見過ごす来場者が多かった経験からみると、作品や資料に対峙して展示を冷静に見る仕組みとしては有効な面もあると感じました。先入観が支配しやすいこのような展覧会を「見る」ことはそうたやすいことではありません。
作戦記録画は連合国≒アメリカが戦利品として持ち帰った153点の作品群に対して日本側が返還要求を行い、1970年に無期限貸与として日本に移送され、現在に至るまでの約60年間、常に一定の関心を集め続けたという意味では特異な作品群です。一方で、これらの作品群がその注目に値する形で本来の姿を見せてきたとは思えません。今回の展示はその問題への一つの答えとしての役割を果たしていると考えます。作戦記録画の歴史文脈化、次世代への問題の継承はこれまでの長過ぎる放念の中で喫緊(きっきん)の課題でした。
戦勝国の欧米でも従軍画家などによる視覚的表現が為されましたが、当たり前のように歴史的記録として社会に定位しました。一方ドイツでは連合軍に接収された8700点を超える作品群が戻されていますが、それらが本格的に展示され、検討されることはほぼありません。世界的文脈の中でも1930年代–40年代の戦中期の視覚的表象の問題は未だ微妙なバランスのもとに置かれています。
量的にも内容的にも企画展にふさわしいこの展覧会を、せめて普通の企画展として広報・周知を行い、図録を発行してもらいたかったという希望はぬぐえません。これらの欠如が、展覧会が「普通でない」ことを物語ります。展示は見なければわかりません。周知せずには潜在的関心にも届きません。図録なしでは見た記憶は消えてゆくだけです。「記憶をつむぐ」ことをうたうこの展覧会名は、一方で多くの方の眼を閉ざす自己矛盾の姿を呈しています。今回、東京国立近代美術館自身が半ば開いた扉を、閉じることはもちろんのこと、いつの間にか狭めてしまうようなことはあってはならないことです。
日本の美術において、戦争が終わったなどと言うことは出来ません。この展示は端緒にすぎないと考えています。このような企画、試みが継続されない限り、未知で不明な部分の多い、美術における昭和期の戦争の問題はわたしたちから遠く離れ、消えてゆくのみです。

向井潤吉の戦争末期の作品と戦後の民家シリーズの一作品の併置で展示が終わります。一見凡庸な形で締めくくられるこの終わり方こそが、現在まで戦争をあいまいな形で引きずり、問題を宙づりにして、行方を定められずにうろうろし続けるわたしたちの姿を表すように見えたのは暑中の思い過ごしなのでしょうか。
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