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電柱選択の自由

古賀春江は明らかに迷っている。目の前にある電柱を電線をそのまま画面に描き込むべきか意識的に消すべきか。 2021年に「電線絵画展」(練馬区立美術館)を企画・開催した際に、この2点の《風景》を知っていたら、迷わず出品リストに入れていただろう。こんなに臨場感たっぷりに電柱の存在について真摯に逡巡する様子は他に例を見ないからだ。 上:古賀春江《風景》、下:《風景(街並)》、いずれも制作年不詳、東京国立近代美術館蔵 普段は目に入りすらしないのに、一旦意識をしだすと景観を汚す邪魔者として私たちは電柱を忌み嫌う。スナップ写真には写り込まないよう苦心したり、観光地ではせっせと地中に埋めたりと。デジタルの時代になり、邪魔者は思い通りに消し去ることができる。ただ、画家たちにとっては当初1から“電柱選択の自由”は自らの手の中にあった。意識的に描き込むか、消し去るか。無意識にそうするか否か。岸田劉生は意識的に電柱を描き込む、いや、描きたい衝動を抑えられない作家なのであろう。 この《道路と土手と塀》の赤土の斜面に黒々と貼りつく2本の影が間違いなく電柱であることは、岸田が同じ場所を繰り返し作品に登場させているので明らかだ。電柱越しに白い石塀、門をとらえた《門と草と道》(京都国立近代美術館)や、電柱を中心に据えてもっと広い範囲を写した《代々木附近》(豊田市美術館)。いずれの作品にもこの黒い影の電柱が主人公のように描かれている。 大正2(1913)年、新婚の岸田は東京府豊多摩郡代々木山谷(現在の参宮橋あたり)に移り住む。路面電車がすぐそこまで走り、明治神宮の創建計画が始まる代々木は、東京が規模を拡大し、開発計画が進む新興住宅地であった。銀座で生まれた岸田はこれまで日本橋や隅田川、《川べり、塔の見える》(東京国立近代美術館)のような誰もが知る東京風景を描いてきた。街の様相は変われどそれは江戸由来の名所絵にほかならない。鉄道、道路、電信、電気の延伸に伴い東京が増殖し、風景画は土地との有機的な繋がりが断たれていく。道路・土手・塀、あるいは門・草・道と物質の羅列をタイトルにすることを創案し、“名もなき風景”が誕生するのである。東京風景でも執拗に描いた電柱は、岸田にとって都心へと実線で繋がるためのシンボルであった。 その後転居した鵠沼(神奈川県藤沢市)でも岸田は屹立する電柱を画面の中心に据えた自宅前の風景作品を幾つも描いている。そのうちの1点、《晩夏午后》(ポーラ美術館)には見慣れた電柱の姿がない。作品の裏書きには、完成間近に関東大震災に見舞われ、制作途中ながら前日の日付とサインを入れて完成作としたとある。構図の中心を担っていると考えがちな電柱は実は最後に描いていたのだ。電柱は岸田にとっての画竜点睛だったのである。 会場風景(3室「岸田劉生「切通之写生」は何を切り通したか?」)|中央壁面:岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年、東京国立近代美術館蔵、重要文化財|撮影:柳場大 展示室で《道路と土手と塀》と隣り合う椿貞雄の《冬枯の道》(東京国立近代美術館)には同じ場所を同じ構図、表現で描いた岸田の《冬枯れの道路》(新潟県立近代美術館・万代島美術館)があり、いかに椿が岸田に追随していたかがよくわかる。前述の岸田の《代々木附近》と同工の作品が椿にもあるが(《赤土の山》米沢市上杉博物館)、そこには岸田が堂々と中心に据えた例の電柱の姿はない。また、椿の中学校の同級生で同じく岸田に心酔し、草土社の同人となる横堀角次郎は《道路と土手と塀》と全く同じ作品《切通し》(個人蔵)を遺しているが、そこにも電柱の影は見当たらない。二人の信奉者が揃って意識的に電柱を省いたとは考えられない。彼らの出自によるものか、岸田にこびりつく電柱の意図までも二人は解せず、無意識に排除したと考えるべきであろう。 今回、期せずして2室(大正の個性派たち)に坂本繁二郎の《三月頃の牧場》(東京国立近代美術館)が出陳されている。フランス留学以前に評価の高かった牛をテーマにした作品で、雑司ヶ谷(東京都豊島区)の牧場を描いたという。3頭の牛ばかりに私たちは目を奪われがちだが、背景には高らかに電柱が林立し、電線までもしっかりと描かれている。空の広がりや奥行き感を描出するのに効果抜群で、作家はそうした画面構成を意識しているのだろう。というのも、坂本は習学期にも遠近感を描出する目的で電柱を活用している2。《道路と土手と塀》と同年の作品なのだが、岸田の電柱への想いとは異なっている。 ところで、同じ代々木山谷に明治41(1908)年、病気療養のため移り住んだのは菱田春草である。岸田の住まいとは直線距離で300mほどであった。翌年、快方に向かった春草が自宅近くの雑木林を描いたのが、《落葉》(永青文庫、重要文化財)である。小田内通敏『帝都と近郊』(大倉研究所、1918年)によると、明治35(1902)年から大正4(1915)年の13年間に代々木周辺では森林が35ha減り、代わって住宅地が51ha増えたという。代々木公園(54ha)がまるまる宅地造成されたことになる。片や乏しくなった東京の自然を求め、片や新興の東京の荒野を見つめる。現実には、《落葉》の向こうには電柱が立っていたはずである。二人の画家の間にある立場や視点の相違、様式美の探求とリアリズムの追求の違いはもちろんなのだが、いずれも急激な社会変化と東京の急速な変容が作品にかかわっていることは間違いない。 註 1 明治2(1869)年に電信用の電信柱が設置され、配電用の電柱は明治20(1887)年から。 2 『電線絵画』(求龍堂、2021年)20頁参照。

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こども・ファミリー

こども・ファミリーが美術館を楽しめるプログラムをご用意しています。対象年齢やご都合にあわせてご参加ください。開催日・テーマなどはイベント検索からご覧いただけます。 近日開催のプログラム こども・ファミリー向けプログラム Family Day こどもまっと 「Family Day こどもまっと」は子どもと一緒に気兼ねなく美術館を楽しめる特別なイベントです。周りが気になって美術館から足が遠のいていた方も、お子さんと一緒に、はじめての、ひさしぶりの美術館へ来てみませんか?  「Family Day こどもまっと」紹介動画(約1分) https://youtu.be/kQXDmGpVSrw 「Family Day こどもまっと2024」の記録映像です。当館ガイドスタッフ(ボランティア)と一緒に、作品をよくみて、感じたことやかんがえたことを、お話しする「MOMATコレクション発見隊」や、ボランティアがナビゲーターとなって美術館の中や外を探検する「MOMATまるごと探検隊」を実施しました。 「Family Day こどもまっと」は、こどもたちが芸術に触れる機会の拡大を目指す国立美術館全体の取り組みである「Connecting Children with Museums」のひとつで、2024年からAdobe Foundationのご支援のもと実施されています。 「Connecting Children with Museums」のその他の取り組みについては、こちらからご覧いただけます。 Connecting Children with Museums initiative is supported by the Adobe Foundation おやこでトーク 幼児とその保護者を対象としたギャラリートークです。子どもたちの目に映るアートの世界はどんなものでしょう? ガイドスタッフ(当館ボランティア)と一緒に、展示室で作品を鑑賞しませんか。 「おやこでトーク」紹介動画(約5分30秒) https://player.vimeo.com/video/925724744?h=573c67e4b1 2023年に実施されたプログラムの記録映像です。 幼児とその保護者間のコミュニケーションを大切にしながら、ガイドスタッフと作品の中の色や形を見つける、ことばと作品をつなげる、身体を使って表すなどのアクティビティを通して、作品との出会いを楽しみました。 こども美術館 小学生を対象に鑑賞を中心としたプログラムを実施します。 こども向け教材 さまざまな年齢の子どもが鑑賞に親しめるよう、対象年齢の異なる教材を開発しています。 こども向け印刷物 みつけてビンゴ! 所蔵作品展を観覧する子ども(幼児)が大人の方と一緒に使用して所蔵作品展を楽しむためのツールです。対象者に無料で配布しています。 デジタル教材 MOM@T Home こどもセルフガイド 小・中学生向けの書き込み式セルフガイド(ワークシート)をデジタル化した教材です。 タブレット端末で快適に利用でき、展示室はもちろん、自宅や学校など、どこからでも、東京国立近代美術館の作品や鑑賞のヒントを閲覧できます。

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現代の眼 オンライン版(アートライブラリ)

1. 連載企画 :研究員の本棚 2. 連載企画 :カタログトーク 3. 連載企画 :資料紹介

ガイドスタッフによる所蔵品ガイド

撮影:加藤健 ガイドスタッフによる所蔵品ガイド MOMATガイドスタッフ(ボランティア)が選んだ所蔵作品数点を、対話を交えて鑑賞します。ガイドスタッフ・作品は毎回変わります。その日出会った作品や参加者との対話をお楽しみください。  開館日の平日11時~(50分程度)※ 土日祝日の実施はありませんので、ご注意ください。 どなたでも なし 4階エレベーター前ホール(MOMATコレクション展示室内) 無料(要観覧券) ご参加にあたって: プログラムの特性上、ガイドスタッフやガイド作品の事前周知はしておりません。ご了承ください。 災害や会場の混雑状況等により、予告なく中止することがあります。 お問い合わせ 東京国立近代美術館 教育普及室メール: volunteer@momat.go.jp

所蔵作品展 MOMATコレクション(2025.7.15–10.26)

2025年7月15日-10月26日の所蔵作品展のみどころ ロバート・ラウシェンバーグ《ポテト・バッズ》1971年 MOMATコレクションにようこそ! 当館コレクション展の特徴をご紹介します。まずはその規模。1952年の開館以来の活動を通じて収集してきたおよそ14,000点の所蔵作品から、会期ごとに約200点を展示する国内最大級のコレクション展です。そして、それぞれ小さなテーマが立てられた全12室のつながりによって、19世紀末から今日に至る日本の近現代美術の流れをたどることができる国内随一の展示です。 今期の見所紹介です。所蔵する国指定の重要文化財18点のうち、油彩全5点が久しぶりに一堂に会します。3室ではそのうちの1点、岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》を掘り下げて紹介します。また6室「1940年」、9室「山村雅昭「ワシントンハイツの子供たち」」、10室「絵画と目的」などは、戦後80年という節目に関わる企画です。さらに今期は、新収蔵作品が多く展示されています。個々の作品と共に、女性アーティストの再評価、地域的多様性への配慮といった近年の収集方針にもご注目下さい。長く館を代表してきた顔ぶれにフレッシュな新星と、盛りだくさんのMOMATコレクションをお楽しみください。  今会期に展示される重要文化財指定作品 今会期に展示される重要文化財指定作品は以下の通りです。 1室 土田麦僊《湯女》1918年(展示期間:2025年7月15日~8月31日) 1室 原田直次郎《騎龍観音》1890年、寄託作品、護国寺蔵 1室 和田三造《南風》1907年  2室 萬鉄五郎《裸体美人》1912年 2室 中村彝《エロシェンコ氏の像》1920年 3室 岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年 土田麦僊《湯女》1918年 原田直次郎《騎龍観音》1890年、寄託作品、護国寺蔵 和田三造《南風》1907年 萬鉄五郎《裸体美人》1912年 中村彝《エロシェンコ氏の像》1920年  岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年 展覧会について 4階 1~5室 1880s-1940s 明治の中ごろから昭和のはじめまで 「眺めのよい部屋」 美術館の最上階に位置する休憩スペースには、椅子デザインの名品にかぞえられるベルトイア・チェアを設置しています。明るい窓辺で、ぜひゆったりとおくつろぎください。大きな窓からは、皇居の緑や丸の内のビル群のパノラマ・ビューをお楽しみいただけます。 「情報コーナー」 導入部にある情報コーナーには、MOMATの歴史を振り返る年表と関連資料を展示しています。関連資料も随時展示替えしていますのでお見逃しなく。作品貸出中の他館の展覧会のお知らせや、所蔵作品検索システムも提供しています。 1室 ハイライト 古賀春江《海》1929年 3000㎡に200点近くが並ぶ、所蔵作品展「MOMATコレクション」。「ハイライト」では近現代美術を代表する作品を揃え、当館のコレクションの魅力をぎゅっと凝縮してご紹介しています。 今期はとにかく豪華です! 日本画のコーナーでは、前期(7月15日-8月31日)は土田麦僊《湯女》(1918年・重要文化財)、速水御舟《京の家・奈良の家》(1927年)、後期(9月2日-10月26日)は小林古径《唐蜀黍》(1939年)など、時代を画する重要作品を展示します。ケースの外には、重要文化財の原田直次郎《騎龍観音》(1890年)、和田三造《南風》(1907年)のほか、人気作品で国内外への貸出も多い古賀春江《海》(1929年)が、約2年ぶりにMOMATコレクション展に帰ってきました(隣に並ぶマックス・エルンスト《砂漠の花(砂漠のバラ)》(1925年)との呼応にも要注目)。ポール・セザンヌ、ピエール・ボナール、アンリ・マティスなど、日本の前衛美術に大きな影響をもたらした西洋の作家たちの作品も、じっくりご堪能ください。 2室 大正の個性派たち 萬鉄五郎《裸体美人》1912年、重要文化財 1912年夏目漱石が「文展と芸術」と題して書いた展覧会評の、「芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終るものである」という言葉に象徴されるように、大正時代(1910-20年代)の日本美術は、自然や人物を眼に映るままに描くことから、個性を重視する自己表現の場へと大きな転換を迎えた時期にあたります。明治時代の末にヨーロッパで学んだ美術家たちがあいついで帰国したことや、次々と創刊される美術・文芸雑誌に、印象派以降の新しい西洋美術が紹介されたことなどが大きな刺激となりました。たとえば、あざやかな色彩と力強い筆触によって描かれた、萬鉄五郎《裸体美人》の身体をぎこちなく折り曲げた女性は、西洋の影響を大きく超え出るような、強烈な存在感で観る者を圧倒してきます。一方で、西洋の古典絵画を再発見した岸田劉生が、執拗なまでに細密描写をつきつめることで、写実のなかに高い精神性を宿す表現をめざすなど、多彩な個性が続々と生まれていきました。 3室 岸田劉生「切通之写生」は何を切り通したか? 岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年、重要文化財 MOMATコレクションを代表する一点、岸田劉生《道路と土手と塀(切通之写生)》(重要文化財)。油絵具の質感を生かした、ねちねちとした執拗な写実描写、うねりながら消失点へ向かっていく「道路」と「土手」と「塀」、画面を横切る謎めいた細い影など、個性あふれる特徴で同時代の絵画の中でも抜きん出た傑作ですが、コレクション展において単体で見ると、そのインパクトに気づきづらいかもしれません。そこで、この作品を主役に据えて、この一点をより深く味わうために部屋を構成しました。坂道がまるで山水画の山のように立ち上がる構図の特異さのみならず、近代化する風景を表現するという課題(例えば電柱をいかに描き入れるか?)や、土という対象に劉生が神秘性を託していたことも見えてくるはずです。《道都と土手と塀》の前と後で、何が「切り通された」のか。名品の名品たる所以をじっくりご覧ください。  4室 山と渓谷 吉田博《高原の牧場》1920年 近代登山の黎明期とされる明治時代後半、日本アルプスをはじめとする山岳地域は限られた登山家だけに許された別天地でした。ところが大正、昭和を通じて交通手段や宿泊施設が整備されるにつれ、山岳地域は人々に開かれてゆきます。日本山岳会の機関誌『山岳』によれば、1932(昭和7)年の段階で登山団体は264にまで増えていたそうですし、九州の雲仙、信州の上高地に至っては、もはや “観光地”として、1927年に選出された日本新八景の一角を占めたりしています。国立公園の指定も1930年代です。それに従って、近代登山の黎明とともに生まれた山岳画の裾野も一気に広がりました。1930年代には、明治の昔から本格的な登山をこなしてきた古参の画家と、新参の画家との間で、山のリアリティを巡って波風が立ちもしましたが、一歩ひいて見れば、山岳地域を描いた多様な美術作品を享受できる時代が到来したのです。彼らの山と渓谷は今の私たちの眼にはどう映るでしょうか。当館コレクションから選んだ作品をお楽しみください。 5室 1930年代の絵画:現実の彼方へ、幻影の手前で 長谷川三郎《アブストラクション》1936年 主に1934年以降の作品を紹介します。1920年代より展開されたプロレタリア芸術(社会主義・共産主義の思想から生まれた左翼的運動)は、しばしば国から弾圧されてきましたが、1934年は運動へ大弾圧が行われた年です。これ以降、社会は閉塞感を深め、戦争へと向かっていくことになります。眼前の厳しく、苦しい現実に、芸術家はどのように反応し、表現として提示したのでしょうか。山口薫《古羅馬の旅》(1937年)に見られる古代への憧憬、北脇昇《空港》(1937年)や三岸好太郎《雲の上を飛ぶ蝶》(1934年)に見られる超現実的世界はいずれも、いま・こことは別の場を希求する意思の現れでしょう。一方、山下菊二《鮭と梟》(1939年)のこちらを鋭くまなざす魚と鳥や、福沢一郎《二重像》(1937年)のこちらに背を向けた人物の存在は、いま・ここの彼方ではなく、絵の手前に立つ鑑賞者自身を強烈に意識させるものです。あるいは、長谷川三郎《アブストラクション》(1936年)など、肉眼にうつる現実から距離を置き抽象へと向かう芸術家たちが、作品へ込めた抵抗にも注目ください。 3階 6~8室 1940s-1960s 昭和のはじめから中ごろまで9室  写真・映像10室 日本画建物を思う部屋(ソル・ルウィット《ウォールドローイング#769》) 6室 1940年 桂ゆき(ユキ子)《作品》1940年 日中戦争がはじまって3年。「ぜいたくは敵だ」というスローガンが流布するなど、当時の日本は総力戦体制下にありました。また1940年は初代天皇とされる神武天皇が即位してから2600年の節目の年にあたり、各地で建国記念の祝典行事が開かれました。美術の分野においても「紀元二千六百年奉祝美術展覧会」などの展覧会が開催され、多くの美術家が参加しています。この部屋には、1940年に制作、あるいは発表された作品だけを並べました。戦時下の表現としてこれらを見渡した時、どのような印象を受けるでしょうか。一見、戦争とは関係がなさそうな表現であっても、時局と密接に結びついた作品もあります。例えば、須田国太郎が描いた鷲は、当時の日本では戦闘機を象徴する戦勝祈願のモチーフであり、桂ゆきの《作品》は元々「賀象」という祝賀的なタイトルで発表されました。総力戦においては、人々の暮らしと同様、美術も戦争に資するものとして存在せざるを得ませんでした。 7室 戦後の女性画家たち 三岸節子《静物(金魚) 》1950年 明治期以降、芸術家を志すようになった女性たちの活動の場が大きく広がったのは、戦後の民主化の流れにおいてでした。教育の場では1945年より、東京美術学校(現・東京藝術大学)や京都絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)が、それまで入学が認められていなかった女子学生を受け入れるようになります。また、戦後いち早く個展を開いた三岸節子らが中心となり、女性の画家たちの芸術的向上と新人の登竜門となることを目指して結成された女流画家協会は、実際に多くの女性の画家たちの発表の場となりました。さらに、官展をはじめ、二科会や独立美術協会、新制作協会、前衛美術会、光風会などの展覧会に出品したり、海外に出て活躍したりする女性たちも増えていきます。とはいえ、制作の環境や発表の機会、批評のあり方においてまだまだ男女平等とはほど遠い状況でもありました。ここでは、戦後まもない時期に、それぞれの困難と向き合いながら、たゆまず制作を続けた女性の画家たちの作品を紹介します。 8室 ジャンクとポップ 小島信明《ボクサー》1968年撮影:大谷一郎 大量生産・大量消費社会を迎えた1960年代、身の回りにあふれる既製品や廃棄物、がらくたを用いつつ、大衆文化のイメージを体現するような、ジャンクでポップな表現が数多く生まれました。アメリカでこの流れをけん引し、日本の美術界にも大きなインパクトを与えたのが、今年生誕100年を迎えるロバート・ラウシェンバーグ(1925-2008)です。平面と日用品や廃品とを組み合わせた「コンバイン・ペインティング」で知られるラウシェンバーグは、1964年と1980年代に複数回来日し、日本の芸術家や評論家たちと交流しました。他方、今年生誕90年を迎える菊畑茂久馬(1935-2020)は、1960年代の日本における「反芸術」の中心的な存在であり、とりわけ材木の支持体にルーレットの形を彫り、ときに廃品を組み合わせることで、絵画を大衆社会に接近させた「ルーレット」のシリーズで知られます。さらに、1980年代にデビューして、段ボールで身の回りにあるものを作品化した日比野克彦や、自然物や人工物などのファウンド・オブジェを組み合わせて制作する大竹伸朗も、この流れに位置づけられるでしょう。 9室 山村雅昭「ワシントンハイツの子供たち」 山村雅昭「ワシントンハイツの子供たち」[24] 1959-62年 ワシントンハイツとは、現在の代々木公園にあった在日米軍施設です。終戦後、日本陸軍の練兵場だったこの地を接収した占領軍は、そこに駐留軍人とその家族のための住宅地を建設します。アメリカ本国のような近代的な街並みは、戦後復興途上の東京において、周囲と隔絶した別世界のようだったといいます。山村雅昭は大学在学中の1959年から62年にかけてこの地に通い、そこに暮らす子供たちを撮影しました。ワシントンハイツは基本的に日本人の立ち入りが禁じられていましたが、まだ学生であった山村は比較的自由に施設内に入ることができたようです。山村の写真のなかのワシントンハイツは、まるで子供たちだけが暮らす世界のようにも見え、その別世界ぶりが際立ちます。そして子供たちが思い思いに扮装したハロウィンの光景は、さらなる異界へと、見るものを誘います。子供たちに注目することで、この作品は、戦後社会の一端を特異なかたちで記録しただけでなく、入れ子状の別世界というユニークな特質を獲得しています。 10室 アルプのアトリエ/絵画と目的 ジャン(ハンス)・アルプ《地中海群像》1941/65年撮影:大谷一郎 山口華楊《基地に於ける整備作業》1943年(展示期間:2025年7月15日~8月31日) 手前のコーナーでは、ジャン(ハンス)・アルプ(1886–1966)の彫刻制作過程でつくられた石膏複製をご紹介します。フランスのストラスブールに生まれ、20世紀初頭からパリやスイスで活動したアルプは、抽象と具象を往還する有機的なフォルムの彫刻で知られます。ここでは、アルプにとって新たな造形を発見するための重要な素材であった石膏を通して、彫刻のフォルムがどのように移り変わっていったのかをご紹介します。奥の部屋では、戦時中の日本画家の活動を振り返ります。当館が保管する戦争記録画は、総力戦体制下において画家たちが軍部から委嘱を受けて描いたものです。藤田嗣治などによる油彩の戦争記録画がよく知られていますが、全153点のうち22点は日本画の作品です。日本画家たちは、作品を売ってその収益を軍に献納することでも戦争に協力しました。戦地を描いたものや花鳥画など画題はさまざまですが、ここにある絵画はみな戦争と密接に結びついています。 2階 11~12室 1970s-2020s 昭和の終わりから今日まで 11室 揺れる境界 石川真生《「基地を取り巻く人々」より》1989年(展示期間:2025年7月15日~8月31日) 石川真生《「基地を取り巻く人々」より》1992年(展示期間:2025年9月2日~10月26日)  この部屋では、政治の動きや外部からの影響によって変化する人々の営みや景観に焦点を当てた、1990年代以降のコレクションを紹介します。当館は昨年度、石川真生による「基地を取り巻く人々」を新たに収蔵しました。石川の写真は、沖縄の米軍基地をめぐる長年の問題に向き合いながら、その影響に揺れ動く島民と、様々な出自を持つ米軍関係者を写しています。同じく、ある地域の変遷を主題とするのがシュシ・スライマンの絵画です。彼女は祖国マレーシアの複雑な歴史をたどりながら、その渦中にいた人々の存在を描き出します。田中功起の映像作品は、協働作業のなかで人々の意思がぶつかり合い、折り合っていく行方そのものを記録しています。照屋勇賢は、人間の経済活動によって変化する自然を示唆する彫刻によって、社会と環境の関係性を問いかけます。鈴木崇の写真は、2つの画面の狭間で生じる意味の揺らぎを通して、私たちが普段、目の前の景色をどのように理解しようとしているのかに意識を向けさせます。様々な変化がもたらす「その先」を見つめる、現代の多様な表現に目を向けてみてください。 12室 ヨコ軸・タテ軸 毛利武士郎《彼の/地球への/置手紙 その1》1998年 歴史の流れに沿って作品を紹介していくMOMATコレクションは、基本的に部屋ごとにある時代を断面として見せています。大きな近代美術史の振り返りが基底にあるものの、複数の研究員がそれぞれ工夫を凝らした各部屋のテーマがより際立って見えるかもしれません。また、断面としての各部屋は時代という横軸に基づいているため、時代をまたいで活動する作家の、縦軸としての作品展開を見せにくいという難点もあります。この部屋では、石内都、辰野登恵子、毛利武士郎、横尾忠則、李禹煥を取り上げ、それぞれ数十年単位の幅で新旧の作品を集めて構成しました。5つの小さな個展です。持続的に道を極めて行く作家、あるときを境に劇的な変化を見せる作家など各々の変遷は様々ですが、見比べながらその求道やチャレンジをご想像ください。一人の作家の時代ごとの作品を収集し、その変化を追うことも美術館の仕事です。 開催概要 東京国立近代美術館所蔵品ギャラリー(4~2階)  2025年7月15日(火)~10月26日(日) 月曜日(ただし7月21日、8月11日、9月15日、10月13日は開館)、7月22日、8月12日、9月16日、10月14日 10:00–17:00(金・土曜は10:00–20:00)  入館は閉館30分前まで 一般 500円 (400円) 大学生 250円 (200円) ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込み。 5時から割引(金・土曜) :一般 300円 大学生 150円 高校生以下および18歳未満、65歳以上、「MOMATパスポート」をお持ちの方、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。入館の際に、学生証、運転免許証等の年齢の分かるもの、障害者手帳等をご提示ください。 キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は学生証または教職員証の提示でご観覧いただけます。 「友の会MOMATサポーターズ」、「賛助会MOMATメンバーズ」会員の方は、会員証のご提示でご観覧いただけます。  「MOMAT支援サークル」のパートナー企業の皆様は、社員証のご提示でご観覧いただけます。(同伴者1名まで。シルバー会員は本人のみ)  本展の観覧料で入館当日に限り、コレクションによる小企画(ギャラリー4)もご覧いただけます。  東京国立近代美術館

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英語などの外国語話者

国内外のみなさまに当館のコレクションをお楽しみいただくために、外国語でもコンテンツを提供しています。 Collection Tour “Explore with Us” 英語によるMOMATコレクション鑑賞プログラム。 ガイドスタッフが、日本の近代美術から当館の代表的な所蔵作品数点について英語で解説します。詳しくはFree Toursページ(英語)をご確認ください。 撮影:加藤健 こども向け教材(“FIND&BINGO!”と“MOM@T Home Self-Guide”) さまざまな年齢のこどもが鑑賞を楽しめるよう開発された、教材の英語版です。幼児向けは館内で配布、小中学生向けの教材はデジタル版をご利用いただけます。 ブルームバーグ・コネクツ 作品の音声ガイドや作品解説のほか、館内のおすすめの場所、多彩な動画コンテンツもお楽しみいただけます。 解説アプリ「カタログポケット」 解説アプリ「カタログポケット」では、MOMATコレクション出品中の作品解説等を、日本語・英語・韓国語・中国語の四か国語で読むことができます。

連載企画 「研究員の本棚#6|紡ぎ続けた、日本画をめぐる関心の糸」

このコーナーは、アートライブラリの担当者である東京国立近代美術館研究員の長名大地が聞き手となり、館内の研究員に、それぞれの専門領域に関する資料を紹介いただきながら、普段のお仕事など、あれこれ伺っていくインタビュー企画です。第6回目は、中村麗子研究員にお話を伺います。 聞き手・構成:長名大地(東京国立近代美術館主任研究員)-2025年8月12日(火)東京国立近代美術館アートライブラリ 研究員プロフィール中村麗子(なかむら・れいこ):東京国立近代美術館主任研究員。1976年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科(美術史学)博士課程中退。2003年より東京国立近代美術館に勤務。同館で「竹内栖鳳展:近代日本画の巨人」(2013年)、「生誕110年 片岡球子展」(2015年)、「あやしい絵展」(2021年)などを企画。共著に『もっと知りたい片岡球子:生涯と作品』(東京美術、2015年)、『もっと知りたい竹内栖鳳:生涯と作品』(東京美術、2013年)がある。 きっかけは「土田麦僊展」 長名:本日はお忙しい中、ありがとうございます。現在、中村さんは企画課第一企画展室の室長として、共催展の準備に関わる様々な仕事を担当されています。また、日本画の研究者として、「あやしい絵展」など数々の日本画に関する展覧会を手がけられていらっしゃいます。今回はこれまでのご研究や担当された展覧会に関するお話を中心に、資料を交えてお伺いできればと思っています。まず、どのようなきっかけで学芸員を目指すようになったのでしょうか。  中村:大学3年進級時に自分の所属する学科を決めるまで、教養科目を選択しながらあれこれ悩んだのですが…2年生の時に小林康夫先生の美術に関わる授業を受けて、ヴィジュアルなものを言葉でもって論理的に研究するということに興味を持ったのが始まりでした。  長名:そこから美術史の研究が視野に?  中村:そうですね。4年になり進路を考えた時、自分の学んだことを生かして社会に貢献する、学問分野と社会とを橋渡しすることに興味を持ち、学芸員を目指すことにしたんです。学芸員になるためには修士号が必須と聞き、大学院への進学を決意しました。  長名:最初から日本画の研究をされていたんですか?   中村:いいえ。美術史学科に進んだ学生はいきなり「旅行ゼミ」というものに参加させられるんですが、私たちの学年は行き先が台北の故宮博物院でした。その時に明の画家・沈周の《廬山高図》について発表をしました。まだディスクリプションの作法もわからず、手探りの発表で、同期とともにかなりしごかれました。その時のひよこの刷り込み現象ではないですが、このゼミで数日かけて故宮博物院の展示をじっくり見たことで、中国絵画への関心が高まりました。  長名:中国絵画からのスタートだったのですね。発表の際、どのような本を参照していたのですか?  中村:鈴木敬先生の『中國繪畫史』(吉川弘文館、2011年)や『中國繪畫總合圖録』(東京大学出版会、1982–2001年)を用いていました。ですが、1、2年の時に第二外国語として中国語を履修していたものの、そのまま中国絵画の研究を続けるには言語の壁がとても厚く…。ちょうど『幕末・明治初期の絵画(朝日美術館:テーマ編3)』(朝日新聞社、1997年)を読んで、古い表現と新しい洋画的な表現が混交した、独特な、奇妙な雰囲気を醸し出している時代に惹かれ、幕末の絵画や浮世絵を卒論のテーマにしたいと思うようになりました。  長名:でも卒論では近代を取り上げた?  中村:はい、土田麦僊ですね。実は、当館で開催された「土田麦僊展」(1997年9月13日–10月19日)で《舞妓林泉(ぶぎりんせん)》(1924年)を見て、非常に衝撃を受けて。麦僊の画風の変遷の中で不意に出てきた不思議な絵だと、この作品について調べたいと思い、日本近代をやることにしたんです。卒論はそのまま「《舞妓林泉》について」でした。4年生の夏、かつて当館では全館常陳というのをやっていたんですが、朝から夕方まで通い詰めて、単眼鏡を使って《舞妓林泉》をひたすら見ていました(笑)。2002年のリニューアル前だったので、お昼は4階のカフェコーナーでカレーを食べて、また作品を見て、と。ずっといて看視さんに怪しまれないかびくびくしながら(笑)。  長名:それはなんて熱心な(笑)。  中村:背景の点描のような部分など、細かいところが気になり出すと、とても1日では見切れなくて。たとえば、着物の皺も、本来であれば絵柄もよじれるはずなのに、そうなってなくて。じゃあ、他の作家の作品ではどうなっているのかと調べてからまた見て、気になり出すと終わりがなくて。  「土田麦僊展」(1997年9月13日–10月19日、東京国立近代美術館)の会場写真(撮影者:坂本明美)当館アートライブラリ所蔵  竹内栖鳳へ 長名:大学院進学後も麦僊の研究をされていたんですか?  中村:美術史研究室には日本近代美術史の専任の先生がいなかったため、当時学内の総合研究博物館にいらした木下直之先生が指導教員となってくださいました。麦僊の研究は続けたかったのですが、彼の内的独白のような文章と作品分析がなかなか結び付けられず、その後の研究に悩みました。そんな折、木下先生から麦僊を理解するなら師である竹内栖鳳の研究だと勧められ、研究対象を変更しました。栖鳳の著述の明瞭さ、客観的な作品・文献分析を基礎とした先行研究の存在に安堵したことを覚えています。  長名:その時は、まさか将来回顧展を担当することになるとは思っていなかったのでは?  中村:ありがたいことですよね。「東の大観、西の栖鳳」と評されるように、栖鳳は日本画を代表する作家の一人ですが、「横山大観遺作展」(1959年9月15日–10月18日)は過去に開催していても、栖鳳の回顧展はなかったので、展覧会ができたことはよかったと思っています。  長名:修士課程では栖鳳の研究が中心でしたか?  中村:当時美術史研究室では、日本美術史を研究するなら中国美術の研究も当然やるという風潮があって、中国美術のゼミにも入っていたんですが、それが大変で。ただ、そのおかげでディスクリプションの基礎や、作品同士を比較する基本を身につけることができました。また、大学内にあった東洋文化研究所で『中國繪畫總合圖録』に収録された情報をデータベース化するアルバイトもしていました。時折、先生方と海外の現地調査に同行もしましたね。  長名:基礎資料の編纂にも関わられていたんですね。  中村:修士2年の時、木下先生が文化資源学科の専任となった関係で、研究室の近世絵画史の佐藤康宏先生につくことになりました。夏前に修士論文を書き上げられないと悟り、留年を決心。ちょうど同じ頃、「日本美術史」が近代に作られたことで美術史業界が沸き始めていた時期でした。  長名:今回挙げていただいている北澤憲昭先生の『眼の神殿:「美術」受容史ノート』(美術出版社、1989年)や、佐藤道信先生の『〈日本美術〉誕生:近代日本の「ことば」と戦略』(講談社、1996年)を皮切りに、制度論の観点から日本美術の捉え直しが盛んに行われていた時期なんですね。『美術のゆくえ、美術史の現在:日本・近代・美術』(北澤憲昭ほか編、平凡社、1999年)(註1)や、『語る現在、語られる過去:日本の美術史学100年』(東京国立文化財研究所編、平凡社、1999年)(註2)も、この延長にあるシンポジウムの記録をまとめた本ですね。  中村:今振り返ると、熱い時代だったなと思います。私自身、重箱の隅をつつくような個別の作家論や作品論に違和感があり、一段俯瞰的な視点に立って、近代の美術システムや画家が別の時代、別の地域の美術をどう見ていたかという構造的な部分に関心が向くようになっていました。そして、なんとか3年かけて修士論文をまとめました。  長名:ふと、中村さんの学生時代、今の研究環境とも全然違ったんではないかと思いました。当館のライブラリも開室は2002年になってからなので、当時調査はどのようにされていましたか?  中村:ばりばりカード目録で調べていましたよ(笑)。今のようにインターネット上で蔵書検索ができる状況ではありませんでした。よく東京都現代美術館の図書室や、国会図書館に通っていました。 長名:出納や複写の制限など、大変じゃなかったですか? 中村:そうなんです。なので、卒論と修論の際、母と妹を連れだって3人で調査に行って、そのスピードを3倍にしていました(笑)。 長名:なんて素敵なご家族(笑)。修士論文はどのような内容だったのですか?  中村:中国絵画からの影響も視野に入れつつ、栖鳳の動物表現について書きました。修論は出せたのですが、就職がすぐに決まるわけでもなく。そのまま博士課程に進学しました。その頃、上野の東京文化財研究所で『大正期美術展覧会出品目録』(東京文化財研究所編、中央公論美術出版、2002年)の編纂に関わるアルバイトもしていました。  長名:当時の東文研にはどのような方がいらっしゃいましたか?  中村:田中淳さん、山梨絵美子さんがいらっしゃいました。故・青木茂先生(1932–2021)も時々いらして、お話をさせていただく機会もありました。ただ、なかなか学芸員の採用は決まらず…この年に佐藤先生の授業のレポートで書いた「伊藤若冲の近代における受容」を研究室の紀要に載せてもらったり、その他にも、中国絵画が近代の日本でどのように受容されたかをレポートとしてまとめたりして、地道に研究を続けていました。 長名:当時の学芸員採用はかなり狭き門だったと聞いています。  中村:1人の募集枠に100人応募というのはざらでした。私自身、たくさん受けました。全国各地で受験する中、これは車の免許がないとまずいと思って、東京に戻ってすぐに免許を取りました。当時は、今のようにウェブサイトに採用情報が掲示されるわけではなく、研究室に採用情報が届くので、募集があればどこでも受けるという姿勢を先生方に見せないと、その情報も得られず。とにかく受け続けていました。  東京国立近代美術館へ 長名:2003年の採用で当館に決まったということなんですね。  中村:はい、美術課絵画彫刻係に配属されました。尾崎正明さんが副館長の時代。先輩の古田亮さん(現・東京藝術大学教授)には、日本画をはじめ作品の扱い方を学びました。その他にも所蔵作品展の展示プランを作るなどしていましたね。日本画以外の画家や作品を覚えるのに必死で、『東京国立近代美術館ギャラリーガイド:近代日本美術のあゆみ』(東京国立近代美術館編、2002年)は何度も読み返しました。  長名:日本画が専門という点で、尾崎さんや古田さんとの関わりはどのようなものだったのでしょうか?  中村:所属は美術課でしたが、お二人の企画展にはよく関わっていました。当時、古田さんが準備されていた「琳派:Rimpa」展(2004年8月21日–10月3日)で、初めてサブ担当をしました。同展では、玉蟲敏子さんの『生きつづける光琳:イメージと言説をはこぶ《乗り物》とその軌跡』(吉川弘文館、2004年)の研究成果も踏まえていました。個人的にも、古美術が近代にどう評価されたかという興味にフィットしただけでなく、本阿弥光悦から俵屋宗達、尾形光琳、そして日本の近現代、さらに西洋のジャポニスムにまで照準を合わせた大胆な企画で、客観的な立証の積み重ねや、キーワードによって地域・時代を越えた作品同士を結び付けるキュレーションの仕方や、その企画の立て方を学びました。  「琳派:Rimpa」展のプレスリリースに掲載されていた琳派が様々なジャンルに波及する様子をまとめた図  長名:古田さんは『日本画とは何だったのか:近代日本画史論』(KADOKAWA、2018年)や、『近代日本画の歴史』(KADOKAWA、2024年)など、ここ数年、精力的に日本画に関するご著書も出されていますよね。  中村:古田さんは、個々の作家論にとどまらず、大きな美術史との関係の中で作家や作品を見ていらして、とても勉強になります。その後も、「小林古径展」(2005年6月7日–7月18日)や、「揺らぐ近代:日本画と洋画のはざまに」(2006年11月7日–12月24日)、「平山郁夫:祈りの旅路」(2007年9月4日–10月21日)、「生誕100年 東山魁夷展」(2008年3月29日–5月18日)など、毎年展覧会のサブ担当をしました。尾崎さんには出品交渉にも連れて行っていただき、私立の美術館やお寺などでのふるまいを学びました。ある作品の出品交渉に伺った際、お茶を出していただいて。作法を知らず、同行していた新聞社の文化事業部の方の動きを見よう見まねで乗り切ったんですが、これはまずいと、慌てて竹橋の毎日文化センターの茶道講座を受けました(笑)。  長名:なんて真面目な(笑)。 中村:展覧会の実務的な仕事、作品解説の執筆、資料整理など、かなりの部分の仕事を担っていきました。絵画彫刻室のルーティンも忙しく、次第に研究は展覧会に紐付いたものが中心になりました。幸い作品解説の執筆が毎回割り当てられていたので、そのための準備を通して作家と美術史にまつわる諸問題を考えることができました。  長名:美術課での仕事をこなしつつ、同時に企画展の仕方も学んでいくという状況だったのですね。美術課の仕事として記憶に残っていることはありますか?  中村:アーティスト・トークの準備で岡村桂三郎さんや、日高理恵子さんのアトリエにおじゃましたことでしょうか。岡村さんは“自分を日本画家と呼ばない”と仰っていたのですが、その言葉から日本画の行く末ってどこだろう、と考えるようになったのもこの時期です。ずっと古い時代を研究していたのですが、『「日本画」—内と外のあいだで:シンポジウム〈転位する「日本画」〉記録集』(「日本画」シンポジウム記録集編集委員会編、ブリュッケ、2004年)(註3)のように、そういった問題意識に支えられたシンポジウムなどが盛んに開催された時代でもありました。  長名:現代の日本画との関わり方ということですね。  中村:現代との接点でいうと、2006年に国際交流基金主催の「第1回アジア次世代キュレーター会議」に参加しました。麦僊や栖鳳が、それぞれある時期に中国絵画に関心を寄せていたことを知ってから、ずっと日本の近代美術と中国絵画との関係が頭の片隅にあり。当時はちょうど中国現代美術が世界的に注目を浴びるようになった時期でもあり。保坂健二朗さん(現・滋賀県立美術館ディレクター)と一緒に参加しました。現代美術を通したアジア地域の若手キュレーターの協働を目的としていたため、数回参加しただけでしたが、この時に同世代の近代中国美術史研究者と知り合えたのは非常に貴重なことでした。  長名:それが「エモーショナル・ドローイング:現代美術への視点 6」展(2008年8月26日–10月13日)につながっていくんですね。  中村:「アジア次世代キュレーター会議」の成果としても目論まれた企画展でした。保坂さんがメインコンセプトを作り、私は出品作家のリサーチに加わったのですが、現代美術、しかも現存作家の展示に関わるのは初で、貴重な経験でした。  日本画の展覧会 長名:そして満を持してメインとして担当されたのが「上村松園展」(2010年9月7日–10月17日)。  中村:出品依頼は尾崎さんが中心になって進めてくださっていたんですが、途中でバトンタッチという形で。初めて章構成や図録の総論執筆を担当しました。この展示では、一般的に愛でる対象と位置付けられがちだった「美人画」について、女性作家である松園が描くことの意味を考える機会にもなりました。展覧会の後にはなりますが、児島薫先生の『女性像が映す日本:合わせ鏡の中の自画像』(ブリュッケ、2019年)でも、そうした部分に触れられていて、いつかもう少し踏み込んだ研究ができるといいなと思っています。 長名:そこから立て続けに日本画の展示を担当されていますね。  中村:当時は今と比べて、年間で実施する企画展の数が多かったんです。「竹内栖鳳展:近代日本画の巨人」(2013年9月3日–10月14日)では、初めて出品交渉からすべて自分と巡回先の京都市美術館の担当者の方とで行いました。この時は、栖鳳研究者の廣田孝さんによる美術染織と京都の日本画の関係をめぐる研究に教示を得て、大英博物館から染織作品を借用しました。絵画のジャンルにとどまらない当時の作家の仕事について意識するようになり、以後こうしたジャンル越境の視点は常に持つようにしています。  長名:その2年後に「生誕110年 片岡球子展」(2015年4月7日–5月17日)を担当されていますね。  中村:戦後の作家を扱った、自分にとって初めての展覧会でした。とはいえ戦前に教育を受けていた方なので、戦前から戦後へと日本画が伝統から脱却していく様子を展覧会の準備を通して実感することができました。個性的なエピソードに富み、対象を自分の中で咀嚼する力がすさまじい作家で、これはまさに「画家の中にある描くことへの根源的な欲求」を表現した「エモーショナル・ドローイング」ではないかと、そういう視点から展覧会を組み立てました。今思えば、もう少し同時代の日本画以外の美術との関係性も扱えればよかったなと…。  長名:少しプライベートなお話になってしまいますが、その後2017年にご出産されていますよね。 中村:次の「生誕150年 横山大観展」(2018年4月13日–5月27日)は、ちょうど妊娠・出産と重なった展覧会でした。体調に気をつけながら飛行機で遠方へ出品交渉に行ったり、乳児の世話をしつつ、夜間寝ているわずかな隙を狙って、午前2時から5時とかに図録の原稿を執筆していました。4月頭に展覧会が開幕するので、半年で育休を切り上げて、展示作業に合わせて復帰しましたが、当時の展覧会チームのメンバーにはとても感謝しています。  長名:子育てをしながら展覧会の準備を進めるというのは、かなり大変だったと思います。そんな中、2021年に「あやしい絵展」(2021年3月23日–5月16日)を企画されていますね。  中村:初のテーマ展でした。元々は甲斐庄楠音の回顧展をしたかったんです。卒論を書いている時に甲斐庄の図版を研究室で見ていて、印象に残っていて。ぜひ『甲斐庄楠音画集:ロマンチック・エロチスト』(求龍堂、2009年)を見ていただきたいのですが、彼の描くリアルな女性の生々しい部分など、案外こういうグロテスクな作品が人間の本質をよく捉えているのではないかと思っていて。が、知名度が低くて来館者数が見込めないから個展はダメ、と言われた結果、テーマ展方式を思いつきました。  長名:そこで「あやしい」という言葉が出てきたんですね。  中村:「あやしい」をキーワードに作品を見ていくと、美術史のメインストリームにある作品とそうでないものが同じ土俵の上で結び付くだけでなく、それらが時代の思潮や社会の状況の変化と深く関係していることがわかるのではないかと思ったんです。「あやしい」を入口とした日本近代の表現史を編めそうだぞ、と。  長名:とても面白い展覧会でしたよね。ただ、コロナ禍真っただ中で、3密を避けるということで、延床面積当たりの人数も決められていて、事前予約制による入場制限などもされていましたよね。職員だからこそ、かえって展示室に行きづらくて。もう一度見たいと思った矢先、再びの緊急事態宣言。  「あやしい絵展」(2021年3月23日–5月16日、東京国立近代美術館)の会場写真(撮影者:木奥惠三)当館アートライブラリ所蔵  中村:後期に突入してからすぐに閉館、そのまま閉幕しちゃいました。消化不良でしたね。準備の佳境段階も外出自粛となっていて、出品交渉の最後の段階でとても苦労しました。先方の美術館に人がいるのかいないのかわからない中で、あの手この手でコンタクトを試みました。保育園が休園になって子どもの相手をしながらで、限られた時間の中での準備でした。  長名:今思えば、すごい社会状況での展覧会でした。  中村:ただ、普段美術館に来ることのない若い人が、会場で自分のお気に入りの画家を見つけてくれることは嬉しかったですね。巡回先の大阪歴史博物館では入場者数歴代10本の指に入ったということで報われた気がしました。この展覧会は、「あやしい」という語でカテゴライズされた作品が女性を取り上げたものばかりということで、賛否両論を呼びもしたのですが、そのことで、女性を描くこと、ジェンダー研究への関心も自分の中で高まっていきました。また、今の社会通念とは異なる時代の事象を展示することの難しさも実感しましたね。  長名:これまでのご経験から今関心を持たれていることを教えていただけますでしょうか。  中村:「あやしい絵展」以降、過去に取り上げた上村松園、片岡球子がいずれも“メジャー”に食い込んだ(ともに文化勲章受章、松園は作品が重文指定)マイナー的存在の女性画家であることに改めて関心を持つようになっています。美術界や社会の中でどう見られ、また作家自身どうふるまったのかに興味があり、できれば作品との関係性も考えてみたいと。また、だいぶ前のことになりますが、渋谷区立松濤美術館で開催された「大正の鬼才:河野通勢:新発見作品を中心に」展(2008年6月3日–7月21日)で見た初期の作品がどうしても気になってしまい…うごめくようなディテールの風景画なんですが、何かテーマ展につなげられないかと考えています。  日本画に親しむために 長名:日本画は、少し敷居の高いジャンルに思えてしまうところがあります。日本画に親しむための資料や視点がありましたら、教えていただけないでしょうか。  中村:以前の日本では床の間に日本画を飾るという習慣がありましたが、住環境も大きく変化し、たしかに身近な存在ではなくなってきているかもしれません。そんな今を生きる私たちが日本画に親しむなら…たとえば、それぞれの作家のことを知ると楽しめるかもしれません。河野沙也子さんの『日本画家小譚:マンガで読む巨匠たちの日常』(青幻舎、2024年)は、日本画家を漫画で紹介している良書です。また、尾崎さん監修の『すぐわかる画家別近代日本絵画の見かた』(東京美術、2003年)や、別冊太陽の『近代日本の画家たち:日本画・洋画 美の競演』(平凡社、2008年)は、近代の日本美術の中での日本画の位置を知ることができます。また、『院展100年の名画:天心ワールド:日本美術院』(草薙奈津子編、小学館、1998年)と、『近代京都日本画史』(植田彩芳子ほか、求龍堂、2020年)も豊富な図版とともに、東西の日本画壇について知ることができます。あと荒井経さんの『日本画と材料:近代に創られた伝統』(武蔵野美術大学出版局、2015年)は、材質や素材の面から日本画に迫った本で、材料という視点から近代の日本画の誕生と発展の歴史を知ることができます。日本画は具象的な表現が多いので、着物の絵柄や、髪飾り、小物、お菓子、生活描写など、身近なところを取っ掛かりに見ていくこともできると思います。様々な視点から日本画を楽しんでもらえたら。  長名:ありがとうございます。最後に、現在準備されている展覧会について教えていただけますか。  中村:来年になりますが、下村観山の展覧会の準備を進めています。観山は政治力を発揮した横山大観や、早逝の菱田春草の陰に埋もれてしまっている画家で、上手だけどそれだけという見方がなされてしまっていて、かつて扱った竹内栖鳳とも通じる部分があります。今回の展覧会では、今まで等閑視されてきた彼の活動にスポットを当てて再評価につなげたいと思っています。今回お話ししてきたような、自身が美術史の道に足を踏み入れた頃の関心を生かせたらとも思っています。  長名:とても楽しみにしています。本日は貴重なお話をありがとうございました。  註 1994年9月24日から1996年11月16日にかけて各所で行われた連続シンポジウム「美術(bi-jutsu)—その近代と現代をめぐる10の争点」(全10回)の報告や討議内容をまとめた書籍。 1997年12月3日から5日にかけて、東京国立近代美術館で開催された国際研究集会「今、日本の美術史学をふりかえる」(東京文化財研究所企画)の報告書。 2003年3月22日から23日にかけて神奈川県民ホールで開催されたシンポジウム「転移する「日本画」—美術館の時代がもたらしたもの」の記録集。 中村さんの本棚 鈴木敬『中國繪畫史』吉川弘文館、2011年  鈴木敬編『中國繪畫總合圖録』東京大学出版会、1982–2001年  『幕末・明治初期の絵画(朝日美術館:テーマ編3)』朝日新聞社、1997年  北澤憲昭『眼の神殿:「美術」受容史ノート』美術出版社、1989年  佐藤道信『〈日本美術〉生:近代日本の「ことば」と戦略』講談社、1996年  北澤憲昭ほか編『美術のゆくえ、美術史の現在:日本・近代・美術』平凡社、1999年  東京国立文化財研究所編『語る現在、語られる過去:日本の美術史学100年』平凡社、1999年  東京文化財研究所編『大正期美術展覧会出品目録』中央公論美術出版、2002年  東京国立近代美術館編『東京国立近代美術館ギャラリーガイド:近代日本美術のあゆみ』東京国立近代美術館、2002年  古田亮、中村麗子編『琳派:Rimpa』東京国立近代美術館、東京新聞、2004年  玉蟲敏子『生きつづける光琳:イメージと言説をはこぶ《乗り物》とその軌跡』吉川弘文館、2004年  古田亮『日本画とは何だったのか:近代日本画史論』KADOKAWA、2018年  古田亮『近代日本画の歴史』KADOKAWA、2024年  「日本画」シンポジウム記録集編集委員会編『「日本画」—内と外のあいだで:シンポジウム〈転位する「日本画」〉記録集』ブリュッケ、2004年  保坂健二朗ほか編『エモーショナル・ドローイング』東京国立近代美術館、2008年  『上村松園展』日本経済新聞社、2010年  児島薫『女性像が映す日本:合わせ鏡の中の自画像』ブリュッケ、2019年  『竹内栖鳳展:近代日本画の巨人』日本経済新聞社、NHK、NHKプロモーション、2013年  廣田孝『竹内栖鳳:近代日本画の源流』思文閣出版、2000年  廣田孝『竹内栖鳳と髙島屋:芸術と産業の接点』思文閣出版、2023年  『生誕110年 片岡球子展』日本経済新聞社、2015年  『あやしい絵展』毎日新聞社、2021年  甲斐庄楠音『甲斐庄楠音画集:ロマンチック・エロチスト』求龍堂、2009年  東京国立近代美術館編『土田麦僊展』日本経済新聞社、1997年  土方明司ほか編『大正の鬼才:河野通勢:新発見作品を中心に』美術館連絡協議会、2008年  河野沙也子『日本画家小譚:マンガで読む巨匠たちの日常』青幻舎、2024年  尾崎正明監修『すぐわかる画家別近代日本絵画の見かた』東京美術、2003年  『近代日本の画家たち:日本画・洋画 美の競演』平凡社、2008年  草薙奈津子編『院展100年の名画:天心ワールド:日本美術院』小学館、1998年  植田彩芳子ほか『近代京都日本画史』求龍堂、2020年  荒井経『日本画と材料:近代に創られた伝統』武蔵野美術大学出版局、2015年  『現代の眼』640号

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東京国立近代美術館企画課 研究補佐員(司書)公募(2025.11.20 17時締切)

詳細は採用情報のページをご覧ください。

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寝るひと・立つひと・もたれるひと

展覧会について 萬鉄五郎(よろず・てつごろう、1885-1927)作の重要文化財、《裸体美人》 は、不思議な作品です。草原に寝ているはずの裸婦が、視覚的なトリックにより、まるで立っているようにも見えるからです。人間が大地に立つ、あるいは横たわる。そんな私たちにとってごくふつうの感覚を、時に絵画はさまざまな方法で揺るがします。萬の代表作を手がかりに、今日の作品まで、当館のコレクションから19点をご紹介します。 ここが見どころ 《裸体美人》は草原に寝そべる裸婦を描いています。しかし萬は、裸婦を縦に置き、おまけに背後の草原を垂直に立ち上がるように描くことで、裸婦が「寝ている」のではなく、一瞬「立っている」と見えるよう、わざわざ工夫を凝らしています。絵画とは一枚の平らな面であって、裸婦が横になるような奥行きは実際には存在しません。ここで萬は、壁にかけられた絵の中で、裸婦は実際に私たちに面して「立っている」のだ、と主張しているのです。 熊谷守一の《畳の裸婦》。実は《裸体美人》とほとんど同じポーズです。しかし、裸婦が横方向に置かれているため、畳がやはり垂直に立ち上がるように描かれていても、《裸体美人》よりずっときちんと「寝て」見えます。ところで、今度はこの図版を縦にしてみましょう。すると、たちまち裸婦は立って踊っているように感じられます。このように、私たちが絵の中の人物を「寝ている」「立っている」と判断することは、きわめてあいまいな部分を持っているのです。 イケムラレイコの《横たわる少女》では、少女が横方向に置かれており、さらにその右半身が空間の奥へとめりこんでいるため、きちんと大地に横たわって見えます。 アメリカの女性写真家、ルース・バーンハートの作品はどうでしょう。裸婦は奥行きのある箱の中に寝そべっています。しかし、この箱がただの長方形に見えた瞬間、奥行きの感覚が失われ、裸婦がどこにどう寝そべっているのか、見る者は混乱してしまいます。まるでだまし絵のようですね。 イベント情報 キュレーター・トーク 蔵屋美香(本展企画者・当館美術課長) 2009年7月4日(土) 11:00-12:00 2F ギャラリー4 蔵屋美香(本展企画者・当館美術課長) 2009年8月7日(金) 18:00-19:00 2F ギャラリー4 カタログ情報 開催概要 東京国立近代美術館本館 ギャラリー4(2F) 2009年6月13日(土)~9月23日(水) 10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)*7月3日(金)~9月23日(水・祝)は、金曜日に加えて土曜日も20時まで開館(入館は閉館30分前まで) 月曜日、ただし7月20日(月・祝)、8月17日(月)、8月24日(月)、9月21日(月・祝)は開館、7月21日(火)は休館 一般 420円(210円) 大学生130円(70円)*高校生以下および18歳未満、65歳以上および障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。*それぞれ入館の際、学生証、運転免許証等の年齢の分かるもの、障害者手帳等をご提示ください。 ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。 お得な観覧券「MOMATパスポート」でご観覧いただけます。 キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は学生証または教職員証の提示でご観覧いただけます。 本展の観覧料で、当日に限り所蔵作品展「近代日本の美術」(所蔵品ギャラリー、4-2F)もご観覧いただけます。 7月5日(日)、8月2日(日)、9月6日(日) 東京国立近代美術館

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木に潜むもの

展覧会について 日本では、古くから木に霊が宿ると考えられてきました。それはやがて仏の信仰と結びつくようになり、木は仏像の素材として長い間親しまれてきました。ところが明治に入ると仏教彫刻の需要は減り、また西洋からの美術思潮の流入などによって、木彫は鑑賞、愛玩を目的としたものが中心となりました。 木は彫刻のための単なる素材に過ぎなくなってしまったのでしょうか?いいえ、そうではありません。明治以降も、木に何らかの性質を見出し、それを制作に結び付けようとする作家がたびたび現れました。まさに木に霊的なものが宿ると考えた橋本平八、水や火と同様に木に根源的な性質を見出した遠藤利克・・・彼らはそれぞれの関心に応じて、木からさまざまな性格を引き出しています。そして、そのようにして生まれた作品には、深みのある独自の表現がそなわっています。 この小企画展では橋本平八からはじまり現在活躍中の作家まで、こうした作品を、当館のコレクションを中心としたインスタレーションを含む約8点でご紹介します。 イベント情報 キュレーター・トーク 2009年4月19日(日)11:00-12:002009年5月15日(金)18:00-19:00 2F ギャラリー4 中村麗子(本展企画者・当館研究員) いずれも参加無料(要観覧券)、申込不要 アーティスト・トーク 本展出品作家である岡村桂三郎さんのアーティスト・トークを開催します。 4月10日(金) 18:30-19:30 2F 所蔵品ギャラリー カタログ情報 開催概要 東京国立近代美術館 ギャラリー4(2F) 2009年3月14日(土)~6月7日(日) 10:00-17:00 (金曜日は10:00-20:00)(入館は閉館30分前まで) 月曜日(5月4日は開館)、5月7日(木) 一般420(210)円大学生130(70)円 高校生以下および18歳未満、キャンパスメンバーズ、MOMATパスポートをお持ちの方、65歳以上および障害者手帳をお持ちの方(要提示)とその付添者(1名)は無料。( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込*本展の観覧料で、当日に限り、所蔵作品展「近代日本の美術」ご観覧いただくことができます。 4月5日(日)、5月3日(日)、6月7日(日) 東京国立近代美術館

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