見る・聞く・読む

現代の眼 新しいコレクション 舟越桂《森へ行く日》1984年

成相肇 (美術課主任研究員 )

戻る
舟越桂(1951–)/《森へ行く日》/1984年/木、彩色、大理石、ゴムチューブ/ 79.0×49.0×24.0 cm/令和2年度購入/撮影:大谷一郎

例えばここに、中原佑介編著『80年代美術100のかたち INAXギャラリー+中原佑介』(INAX、1991年)という書籍があります。評論家の眼を通して同時代の様々なアーティストを継続的に紹介した1980年代の記録ですが、見返すと直截な人体彫刻は一切現れません(ついでに言えば人物を描いた絵画も、そして女性作家も稀です)。それどころか50年代頃まで遡っても、いわゆる現代美術の中で人体彫刻が脚光を浴びることはほとんどなかったと言っていいでしょう。一種のトレンドとして歴史を語ることには注意を要しますが、80年代中頃の舟越桂の登場というトピックは大きなインパクトを持っていました。

彩色の木彫、粗めに残された彫り跡、等身大より一回り小さい着衣の人物、大理石による玉眼、へその下までの半身像、木材とは異なる素材との組み合わせ、細い鉄製の台座、そして文学的なタイトル。本作は90年代半ばまでの作者の典型的な特徴を備え、ヴェネチア・ビエンナーレ(88年)、「アゲインスト・ネイチャー」展(89–91年)や主要な個展に出品されてきた代表作です。

舟越の作品は伝統的な木彫の刷新として迎え入れられるとともに、何よりも、言葉を強く喚起しました。彼の彫像に対する過去の言説を遡ると、いわば象徴主義と呼び得るほどに比喩を駆使した詩的な言葉で埋め尽くされ、またその作品は数々の小説の装丁に採用されてもきました。何がこんなに言葉を、あるいは詩情を誘うのでしょうか。

タイトルの文学性(本作のタイトルは舟越の最初の作品集の題名でもありました)以外に造形として気付かされるのは、玉眼の配置です。ふたつの黒目はわずかに水平をずらして外向きに開き、視線の焦点は追い切れません。前に立ってもこちらと目が合わないこの特徴に加えて、手首や腰以下の関節が見えないことが抑制された暗示的な動きを生み、何かをほのめかしながら沈思黙考しているような印象を与えます。そこから見る者もまた沈思黙考に導かれ、内面的な物語を紡いでいくのでしょう。あえて比喩を使えば、鏡のような作品であるわけです。

この像に特定のモデルはなく、肩から胸にかけて張り付いた特徴的なゴムチューブは、もともとデッサンのこの部分に描いていた「つやと粘り気のある黒い帯状のもの」を実際に表したものであったといいます[1]。実在的なリアリティよりもデッサンの発想を優先するそのような制作理念もまた、こちらの空想を触発する詩的な印象と造形に結び付いているに違いありません。

  1. 「舟越桂 私の中にある泉」カタログ、渋谷区立松濤美術館、2020年、p.117

『現代の眼』636号

公開日:

Page Top