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現代の眼 展覧会レビュー 「重文」指定の効果とは—松園と劉生の場合—

児島薫 (実践女子大学美学美術史学科教授)

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 これまで「重文指定」に関心を持たなかったため、女性画家が上村松園ただ一人であることには本展を見て初めて気づいた。美術制度が築かれた明治期以来今日に至るまで、美術界は男性中心の構造であったので、今更驚くべきことではないのかもしれない1。ではなぜ松園は選ばれ、後に続く女性画家が選ばれてこなかったのだろうか。

図1 上村松園《母子》1934年、東京国立近代美術館蔵

 松園は十代から美術界で頭角を顕した希有な人物だった。この成功の理由について、筆者は、松園が日本の近代の美術教育、展覧会制度が整えられていく時代の波にタイミングよく支えられてきたからだと指摘してきた2。明治政府が男女別学の教育制度を確立する以前に成長し、常に男性に交じって行動した。大正期の文展では池田蕉園、河崎蘭香ら後進の女性画家たちが人気を博し、松園は閨秀画家としてひとくくりに取り上げられることに時に苛立ちも見せた3。しかし蕉園らが夭折するなか、昭和に入ると松園は御大典御用画の拝命、海外で開かれた日本美術展への出品依頼を受け、その地位を確立する。さらには1934年には帝展出品作《母子》[図1]、1936年には文展招待展出品作《序の舞》が政府買上となる。1941年には帝国芸術院会員、1944年に帝室技芸員に任じられる。

 生前の松園の名声のピークはこの時期であり、1937年5月『阿々土』、1941年7月『美之國』、1942年4月『國画』、といった雑誌で特集号が編まれ、1943年には随筆集『青眉抄』が刊行される。戦争が激しくなり男性たちが不在の家庭が増えるなかにあって、「女手一つ」で彼女を育てた母の献身とともに、松園の人生も賞賛の対象となった。対外文化宣伝のための英語の写真集には横山大観、川合玉堂、鏑木清方とともに取り上げられ4、この時点で日本を代表する4人の画家の一人となった。戦後は、GHQの元に男女平等の施策が進められるなかで、1948年に文化勲章を女性で初めて受章する。このように松園は生前に十分すぎるほど高い評価を国から得て、1949年8月、74歳で死去し従四位に叙せられた。作品が買上となるということはすでに国から重要な作品であると認定されたことを意味し、《序の舞》と《母子》の重文指定は戦前の評価の追認と言ってもよいだろう。

 では没後の松園はどうだっただろうか。亡くなって半年後、毎日新聞社主催による遺作展「上村松園とその芸術展」(文部省、日本芸術院後援、1950年2月22日〜3月5日、日本橋高島屋)が開かれた。展覧会は連日超満員で入場制限をするほどの人気であったため会期を3日間延長している。展覧会をもとに1950年5月、当時としては豪華な『松園作品集』(非売品)も発行された5。川合玉堂、鏑木清方らが文章を寄せ、104点を収録しているが、そのうち原色版は冒頭掲載の《夕暮》(1941年)、他は《静》(1944年)と《静思》(1946年)の3点である。この時に《序の舞》は収録されていない。また、戦後の展覧会、画集のなかで当初は《序の舞》が特に目立って取り上げられている様子はみられない6。大谷省吾氏は、1999年の没後50年展の開催と1989年に出版された豪華画集『上村松園画集』が重文「指定のための下地」になっただろうと指摘しているが7、没後50年展にも《序の舞》は出品されておらず、カラー図版364点を掲載する『上村松園画集』でもこの作品についての特別な扱いはみられない。ただしこの画集にはドナルド・F・マッカラムによる「序の舞」と題した長文の文章が掲載されており8、本格的な松園の作品論としてはおそらく初めてのものであろう。この論文によって《母子》より先に《序の舞》が指定されることになったのかもしれない。

 また、手元や図書館の松園の画集や図録を手に取った範囲での確認でしかないが、《母子》と《序の舞》について重要文化財と書かれていないものが少なくない。松園はそもそも国からずっと評価をされてきた画家であり、戦後は一般の人気に支えられてきた。松園の作品を見るにあたって重文指定かどうかはあまり重要なことではないのだろう。

 このようなことを長々と書いたのは、松園のケースが岸田劉生と極めて対照的だからである。富山秀男は著書『岸田劉生』(1986年)のなかで、1971年、劉生の作品2点の重文指定と生誕80年を祝うための会に参加した時のことを回想している9。祝辞を述べるはずの中川一政が「岸田さんの絵は、あの人の体臭に当てられた人がみんないなくなってみないと、本当に良いのか悪いのかわからないと思うんです」と述べたことに「わが耳を疑わんばかりにびっくりした」と述べている。重要文化財に指定されても「なお劉生の絵の真価に疑問符がつけられているのが気にかかった」というのである。以前であれば劉生の評価に対する疑問や批判を口にすることはタブーであり、たちまち喧嘩になったそうである。それは劉生には常に根強い支持者がいた一方で、かつてはもっぱら異端視されてもいたからである。この会では38歳で亡くなった劉生の遺影と高齢となった劉生支持者たち—おそらく男性ばかりであっただろう—が強い対照をなしたようである。劉生没後も見守っていた彼らが力尽きる前に届いた重文指定は、劉生評価を決定づけたのだろうか。現在劉生が日本近代美術史において重要な画家であるという見方は確立していると言えるが、劉生の画集、図録においては《道路と土手と塀》[図2]などには必ずといってよいほど「重要文化財」と表示されている。劉生の場合には重文の表示があたかも「真価の疑問符」を封じるお守りであるかのようである。

図2 岸田劉生《道路と土手と塀》1915年、東京国立近代美術館蔵

 さて、松園の作品や人生はしばしば「母性」とセットで語られるものの、重文指定のニュースでは必ずしも「女性初」ということが強調されていない。『松園作品集』のあとがきには「日本最高の女流画家といわんよりは、むしろ日本画の歴史に最も大きな足跡を残した有数の画人の一人と讃えるべきでありませう」と書かれている10。ここで松園は、「有数の(男性)画人」たちと同等、すなわちジェンダー的には男性画家とみなされている。重文の指定を受けたのも、女性画家の先がけとしてではなかったのであり、だからこそ、その後も女性画家を指定しようという意識も生まれてこなかったのではないか。指定は誰が何のためにどのようにおこなってきたのか、その「秘密」を知りたい。

会場風景|撮影:木奥惠三 左端が岸田劉生《道路と土手と塀》1915年、東京国立近代美術館蔵

  1. 「表現の現場調査団」による「ジェンダーバランス白書」が2022年8月24日、ウェブサイトで公開されている。
  2. 拙稿「上村松園 近代美術制度と成功の軌跡」『現代の眼』583号、2010年8–9月号、2–4頁 。拙稿『女性像が映す日本 合わせ鏡の中の自画像』ブリュッケ、2019年。
  3. 拙稿「上村松園《焔》の制作意図とその背景について」実践女子大学文学部『紀要』62集、2020年3月、1–15頁 。
  4. 写真:木村伊兵衛『Four Japanese Painters』国際報道写真協会、1940年。
  5. 上村信太郎編、高島屋(美術部)発行、岩野平三郎の紙による大型和綴じ本。
  6. 『上村松園展』図録(2010年、東京国立近代美術館、京都国立近代美術館)では出品作品ごとに「展覧会歴」と「図版掲載文献」を掲載している。
  7. 大谷省吾「重要文化財の「指定」の「秘密」」『重要文化財の秘密』展図録、東京国立近代美術館、2023年、12頁。画集は、河北倫明・上村松篁監修、原田平作・内山武夫編『上村松園画集』全2巻、京都新聞社、1989年。
  8. 前掲、『上村松園画集』所収、「序の舞」32–36頁。
  9. 富山秀男『岸田劉生』岩波新書、1986年、2–5頁。
  10. 旧字は適宜当用漢字に改めた。

『現代の眼』638号

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