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雨
雨というタイトルなのに描かれているのは瓦ばかり。しかしよく見るとそこに雨粒が点々と跡を残しています。瓦は、画家が画室の窓のすぐ下にいつも見ていたもの。「ある日、夕立が来るなと窓を開けてみると、もう大きな雨粒がぽつぽつと落ちはじめていた。雨粒は真夏の太陽に熱せられた瓦のうえで、大きな雨脚を残しては消え、残しては消えてゆく」という光景を、そのままに写した作品です。写実を、ほんのちょっとした操作で抽象に接近させる、そのような平八郎の得意技が、はっきりと示されています。
星をみる女性
なぜ、望遠鏡を囲む女性たちの着物の柄は、春蘭、牡丹、小菊、楓というように、季節がまちまちなのでしょう? もしかしたら彼女たちは巡りゆく季節の象徴で、この絵は「天体の運行」というような表現し難いものを描こうとしているのではないか、とも思えます。ところで、女性がのぞく望遠鏡は、8インチの径をもつ国産初の本格的な屈折赤道儀でした。開発は日本光学工業株式会社(現・株式会社ニコン)。1931(昭和6)年に東京科学博物館(現・国立科学博物館)に設置され、2005(平成17)年まで現役でした。
反映/思索
建物の内側と外側には、そっくりなかたちの人体像が向き合っています。設置場所は作者本人が決めました。この置かれ方だと、それぞれの人物を正面から鑑賞することはできません。像の全体を知覚するためには、向かいのもうひとりをガラス越しに観察する必要があります。しかし見る角度によっては、窓に反射したこちら側の虚像を見ているのか、あるいは向こう側の像を見ているのかがはっきりとせず、不思議な感覚に陥ります。建物の内部と外部、そしてガラスの窓、こうしたもとからあった美術館の環境が、この彫刻について思索するための一要素になっているのも、本作の面白いところです。
手
一見複雑そうなこの作品のポーズを真似るコツをお教えしましょう。まず左手の5本の指を揃え、中指と人差し指を垂直に立てます。続いて親指をできるだけ前に出し、反対に薬指と小指は後ろに引きます。指が攣りそうですが、これで完成です。つまり、まっすぐな中指と人差し指を軸にして、左右の指を前と後にひねるのです。高村光太郎は《女》の作者、荻原守衛とともに、ロダンの影響を日本に広めた彫刻家です。従って《手》の見どころも、守衛の《女》同様、螺旋形の力強いひねりと言えます。
母子
母の衿元をつかんで身を乗り出す幼子と、その子をしっかりと抱き、愛情に満ちた眼差しを注ぐ母親。親子のなにげない日常のひとこまが、崇高な母子像 へと高められています。松園は実母の死をきっかけに、母や母性を主題とする作品を描くようになりました。この作品は母を亡くした年の秋に帝国美術院展覧会 に発表されたもので、まさに松園晩年の新境地を拓くことになった記念すべき作品です。肌や髷、衣裳の描写に、松園が美人画で培った感性と技術が見て取れます。 【重文指定年月日:2011(平成23)年6月27日】
王昭君
中国・前漢の元帝の時代、匈奴の王へ嫁すことになった後宮一の美女、王昭君。絵師に賄賂を贈らなかったために肖像画を醜く描かれたこの高潔な美女を、さまざまな感情を秘めた後宮の女性たちが見送る場面を描いています。線描を用いない、いわゆる「朦朧体」の試みがもたらした実りの一つで、巧みな暈しがなめらかな質感と夢想的な雰囲気を与えています。 【重文指定年月日:1982(昭和57)年6月5日】
騎龍観音
白い衣を身にまとい、右手に柳、左手に水瓶(すいびょう)を持って、龍に乗る観音を大画面に描いています。ドイツに留学した原田直次郎は、ヨーロッパの宗教画や日本の観音図の図像等を参考に、この作品を制作しました。油彩のもつ迫真的な描写を日本の伝統的な画題に適用しようと描いた意欲作です。その主題や生々しい描写をめぐって、発表当時、大きな議論を巻き起こしました。 【重文指定年月日:2007(平成19)年6月8日】
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【終了しました】「休館日は! オンライン対話鑑賞」参加者募集中!(開催日:10月16日, 11月13日)
解説ボランティア「MOMATガイドスタッフ」によるプログラム、「休館日は! オンライン対話鑑賞」の参加者を募集しています。 [1] 10月16日(月)14時~14時45分[2] 11月13日(月)14時~14時45分 各回6名程度(申込多数の場合は抽選) [1] 10月9日(月)【10月16日(月)実施分】[2] 11月6日(月)【11月13日(月)実施分】
メイキング・オブ・ムナカタを観て
私が心から「やっぱり棟方志功は凄い!」と素直に思えたのは今から30年ほど前、駒場の日本民藝館で《運命頌》を観たときが初めてだった。 その当時、美術学校で木版画を学んでいた私は、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』を愛読しており、本に書かれている永劫回帰や宿命、超人といった壮大なスケールの思想について思いを馳せている最中だったので、まさにドンピシャリ『ツァラトゥストラ』の冒頭から画題を引用した作品に魅かれたのは全くの必然であった。 民藝館の踊り場壁面に展示されていた《運命頌》は、4点組みのうち「深夜の柵」と「黎明の柵」の2点で、縦横90cmほどの正方形の和紙に刷られた黒々とした陰刻の木版画だった。まるで魔の侵入を恐れるかのように画面いっぱいに刻まれた線、その細かい版木の窪みに墨汁が滲み、図像は禍々しい塊となってゆく。伝統的な刺青のように全身を文様で装飾された人物が、びっしりと彫られたニーチェの言葉の中に浮かんでいる…「これは縄文土器と同じ“呪物”だな」と私は直感した。 この《運命頌》との出会いは、それまで何となく眼中に入れないようにしてきた棟方志功が、急に理解し合える同志のように現れた瞬間だった…というと大袈裟ではあるが、それだけ一方的に敬遠してきたのは事実である。 会場風景|右は《運命頌》1950年、南砺市立福光美術館蔵|撮影:木奥惠三 棟方志功を好意的に思えなかった理由。それは棟方志功のアトリエに画材を届ける出入り業者だった祖父から聞かされた人物像の影響で、ここに書くのも憚られる(ド近眼・ズーズー弁・非常識でだらしない等)無礼千万な言葉の数々によって植え付けられた先入観は、子供の私から公正に観る目を奪ってしまったのだった。戦前戦後にわたり日本画と書の材料専門店の番頭として、画壇の大先生や著名な家元を相手に仕事をしてきた祖父にとって、東北出身の天真爛漫なスター作家は異質な存在で受け入れ難かったに違いない(旧東京市が世界の中心という誤った認識は死ぬまで治らなかった)。 ともかく私は《運命頌》を観た衝撃で差別と偏見で曇ったフィルターを外すことができ、この度「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」にて再び《運命頌》と対面することに相成ったのだ。これを運命と呼ばずしてなんと呼ぶか? あらためてムナカタの全仕事を回顧する展覧会を観て、作風の変遷や本人を撮影した記録映像を「面白く」大いに楽しんだ。 会場風景|撮影:木奥惠三 展覧会のはじめの方では、貴重な青森時代の資料や初期の作品が展示されており、今まで見たことがない青年ムナカタを知ることができる。とても意外だったのは上京前の20歳頃に撮ったポートレートで、天然ウエーブのボブヘアーに銀縁メガネの若者は、田舎の素朴な少年というよりも、むしろ東京のインテリ学生のようだ。方言丸出しの面白い芸術家というキャラクター以前のモダンな姿に「わだばゴッホになる」の野心を見た思いがした(ちなみに私は日本のキルヒナーになりたかった)。 駆け出しの時代、世界のムナカタと認められた全盛期、晩年に至るまでの膨大な作品群によって彩られた生涯。その熱量は生半可なものではなく仕事の速さや完成度に圧倒される。しかも交流の幅は大変に広く活発で、民藝をはじめ様々なグループに参加し、戦時中には大政翼賛会発行の絵葉書まで請け負ってしまうほどだ(ルーズヴェルトとチャーチル?の頭上に日の丸の爆弾が落とされている醜悪な絵柄の絵葉書。私はこれの直筆宛名入りをヤフオクで発見し落札しそこなったことがある!)。 あけすけとも言える功名心、節操が無いように思える人付き合いの良さ…隙だらけの愛されキャラを武器にして棟方志功は自身の芸術を完成させたのか? 展覧会鑑賞後しばらくは事の善悪を基準に考えてみたが「赤く頬を染めた色っぽい弁財天が聖も俗も兼ね備えているように、棟方志功の作品には聖俗の隔てが無く、おそらく本人もそうだろう」と、このような考えに至った。 会場風景|撮影:木奥惠三 私が最初に感銘を受けた《運命頌》には近代的な美徳を否定する「ディオニソス的な」ものがあり、縄文的な感覚があった。清濁併せ吞む原始的なおおらかさが棟方志功の魅力なのだ。 “板極道”を歩む渡世人のしたたかさと、芸術に対する純粋な情熱、惜しみないサービス精神…。棟方志功が残していった元気には、間違いなく絶大な魂振り効果がある! 細かい事をあげつらう世の中に疲れた人にはもってこいの展覧会だと言える。 『現代の眼』638号
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11月27日(月)臨時開館のお知らせ
東京国立近代美術館は、11月27日(月)に臨時開館いたします。 開館時間 10:00~17:00(入場は16:30まで) ※ミュージアムショップ、レストランの営業時間は各ページでご確認ください。アートライブラリは休室いたします ※11月20日(月)は休館日です 開催中の展覧会(12月3日まで) 企画展「生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ」 所蔵作品展「MOMATコレクション」 コレクションによる小企画「女性と抽象」
