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私たちのミッション

1952年に創設された日本で最初の国立美術館である当館は、19世紀末から現在に至る日本の近現代美術を中心に収集、保存、調査・研究を行い、展覧会、出版活動、教育普及活動を通して、その価値を世界の人々と共有することを目指します。 美術とともに人々が集い、交流し、多様な価値やアイディアに出会う場となること。過去と現在をつなぐ対話を通して未来を創造する手がかりを得る機会を生み出すこと。そして、誰もが自分らしくいられる自由な空間で、新しい発見に満ちた豊かな時間を過ごせるような場を提供すること。 私たちは、アーティストと鑑賞者の皆さまとともに、このような創造の場としての美術館を育んでいきます。 ミッション 歴史を編み直す 国内有数のコレクションを擁する当館は、所蔵作品展「MOMATコレクション」を通して、19世紀末から現在に至る日本の近現代美術の流れを、社会的文脈やグローバルな視点も交えながら常に新たな切り口で描き出します。 対話を生み出す 展示や教育普及活動を媒介として、人と作品、人と人との対話の場を創出します。美術を通じた過去と現在との対話、多様な見方や考え方に触れる他者との対話によって、新たな価値を発見する機会を提供します。 創造を支える 近現代美術は、新しい道を切り拓こうとする実験的な精神を原動力としてきました。私たちはその精神を大切にしながら、人生を豊かにし、新しいコミュニティを創出する美術実践の自由と創造性を支えていきます。 多様性を尊重する ダイバーシティーやインクルージョンの観点から、あらゆる人々が美術に触れ、自分らしい時間を過ごせるような場を生み出します。美術とともに多様性を尊重する文化の創造に貢献します。 美術館の基準を示す 優れたコレクションの収集・保存とそのアーカイブを構築するとともに、研究の基盤となるアートライブラリを発展させながら丹念な調査に基づいた活動を展開し、時代や社会の変化を踏まえた新しい美術館の基準を示します。

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お問い合わせ

お問い合わせの前に お問い合わせの前に「よくあるご質問」のページのご確認をお願いいたします。お問い合わせいただくよりも素早く解決できることもありますので、ぜひご一読ください。 来館に関するお問い合わせ TEL:050-5541-8600受付時間:9:00~20:00 (ハローダイヤル) その他お問い合わせ窓口 寄附・遺贈について スクールプログラムについて 所蔵作品画像の貸し出しについて ビジネス・研修について アートライブラリについて 団体観覧について

重要文化財の秘密|講演会

本展出品作品の所蔵館の方および日本近代の絵画・彫刻・工芸の専門家による講演会です。各美術館・博物館のコレクション形成史をメインに、本展の出品作品にも触れながらお話しいただきます。 2023年3月25日(土) 第一部 14:00-15:00(開場は13:40)伊藤嘉章(愛知県陶磁美術館総長、町田市立博物館長) 第二部 15:30-16:30(開場は15:10)貝塚健(公益財団法人石橋財団アーティゾン美術館 特命事項担当学芸員) 東京国立近代美術館 地下1階講堂 各回140名(先着順) 12:00より、1階インフォメーションカウンターにて整理券を配布します。一部のみ、二部のみの参加も可能です。一部と二部どちらも参加希望の方は、それぞれの参加券をお受け取りください。 参加無料(観覧券不要)。講演の撮影、録画、録音はお断りしております。講演会参加後の展覧会への再入場は可能です。内容や日時は都合により変更となる可能性があります。あらかじめご了承ください。本イベントのオンライン同時配信、アーカイブ配信はありません。

ピーター・ドイグ展

イギリスが誇る現代の「画家の中の画家」、日本初個展 ピーター・ドイグ(1959-)は、ロマンティックかつミステリアスな風景を描く画家です。今日、世界で最も重要なアーティストのひとりと言われています。 彼は、ゴーギャン、ゴッホ、マティス、ムンクといった近代画家の作品の構図やモチーフ、映画のワンシーンや広告グラフィック、自らが暮らしたカナダやトリニダード・トバゴの風景など、多様なイメージを組み合わせて絵画を制作してきました。 私たちが彼の作品に不思議と魅せられるのは、どこかで見たことのあるようなイメージを用いながらも、全く見たことのない世界を見せてくれるからだと言えるでしょう。 本展は、ピーター・ドイグの初期作から最新作までを紹介する待望の日本初個展です。絵画から広がる想像の旅へみなさんをお連れします。 ピーター・ドイグとは 1959年、スコットランドのエジンバラ生まれ。カリブ海の島国トリニダード・トバゴとカナダで育ち、1990年、ロンドンのチェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザインで修士号を取得。1994年、ターナー賞にノミネート。2002年よりポート・オブ・スペイン(トリニダード・トバゴ)に拠点を移す。 テート(ロンドン)、パリ市立近代美術館、スコットランド国立美術館(エジンバラ)、バイエラー財団(バーゼル)、分離派会館(ウィーン)など、世界的に有名な美術館で個展を開催。 同世代、後続世代のアーティストに多大な影響を与え、過去の巨匠になぞらえて、しばしば「画家の中の画家」と評されている。 カタログ 開催概要 東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 2020年2月26日(水)~6月14日(日) 10月11日(日)*会期延長 10:00-17:00 *入館は閉館30分前まで※8月1日(土)以降、金曜・土曜10:00-20:00 月曜日[ただし8月10日、9月21日は開館]、8月11日(火)、9月23日(水)※臨時休館期間:2月29日~6月11日 ⼀般  1,700(1,500)円大学生 1,100(900)円高校生 600(400)円 ( )内は、前売券料金または20名以上の団体料金いずれも消費税込。中学生以下および障がい者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は、学生証・職員証の提示により団体料金でご鑑賞いただけます。本展の観覧料で入館当日に限り、同時開催の所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)、コレクションによる⼩企画「北脇昇 ⼀粒の種に宇宙を視る」(2F ギャラリー4)もご覧いただけます。 大学生・高校生無料期間8⽉1⽇(土)〜8⽉30⽇(⽇)は、⼤学⽣・高校生の本展覧会観覧料が無料となります。*⼊場時に、学⽣証の提⽰が必要となります。 東京国立近代美術館、読売新聞社、ぴあ ジョージ・エコノム・コレクション|マイケル ヴェルナー ギャラリー、ニューヨーク/ロンドン ⼤⽇本印刷 ヤゲオ財団、台湾|ライトアンドリヒト株式会社 本展は、政府による美術品補償制度の適用を受けています。

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ご来館されるみなさまへのお願い

東京国立近代美術館では日本博物館協会「博物館における新型コロナウイルス感染拡大予防ガイドライン」に基づき、感染拡大予防の取組みを行っております。 以下のお客様はご来館をお控えください。37.5度以上の発熱がある方。平熱と比べて高い発熱のある方。咳、のどの痛み、くしゃみ、鼻水などの風邪の症状がある方。体調がすぐれない方。過去14日以内に発熱や風邪の症状等で受診や服薬等をした方。新型コロナウイルス感染者との濃厚接触者に該当される方。入館にあたって非接触型体温計による検温を実施しております。感染症予防のため、37.5度以上のお客様、平熱と比べて高い発熱のある方お客様は入館をお断りしますのでご了承ください。大人数でのご来館はお避けください。ご来館が集中した場合は、お待ちいただく可能性がございます。こまめな手洗い、手の消毒にご協力ください。他のお客様と十分な間隔を保ってご観覧ください。壁、展示ケース、作品にはお手を触れないでください。マスクの着用は、お客様の判断に委ねております。美術館内で体調が悪くなられた場合は、お近くのスタッフまでお申し出ください。 当館における感染症対策 入口にアルコール消毒液を設置しております。スタッフは必要に応じてマスクを着用して対応させていただきます。手すりやエレベーターのボタンなど多くの人が手を触れる場所についてはこまめに消毒および清掃を行っております。会場内の適切な換気を行っております。定期的にスタッフの検温と手洗いを行っております。

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特別インタビュー 永井一正

小特集「純粋美術と宣伝美術」では1950年代に制作されたポスターを取り上げています。それに関連して、その当時まさに駆け出しのグラフィックデザイナーだった永井一正さんに展示の企画者がお話をうかがいました。どんな時代だったのでしょうか、そして今回の小特集のテーマになっているデザインと美術の関係性をどのように見ていたのでしょうか。その模様を一部こちらでご紹介します。 ※全編は東京国立近代美術館研究紀要第26号に掲載しています。 話し手:永井一正 (グラフィックデザイナー/日本デザインセンター最高顧問)聞き手:野見山桜 (東京国立近代美術館客員研究員)[2021年7月19日(日本デザインセンターにて)] 戦後、そして大学進学 野見山:永井さんは、戦後、1950年代からグラフィックデザイナーとして活動されていますが、東京芸術大学では彫刻を学ばれています。幼少期から大学進学あたりまでのお話をおうかがいできればと思います。 永井:戦時中の話からになりますけれど、勉強部屋から空襲警報が鳴って飛び出した直後に、そこに直撃弾が落ちて、だから2、3分遅かったら今頃こうしていないというか、死んでいたんです。そこからもちろん家は全焼して、母と姉とで命からがら逃げて、焼死体はゴロゴロ転がってという感じだったんですよ。本当に飢餓に苦しんだというか、だから栄養失調みたいなものもあったと思うんですけど。姫路が両親の故郷だったものですから、姫路にちょっと移って、旧姓の中学、だから5年生なんですけど、卒業したときに、父が勤め先のダイワボウ(大和紡績)から満州繊維公社の理事ということで、満州に行っていたんですよ。今の中国で、そのころは満州国というのがあって。それから終戦後は完全に音信不通になってしまって、噂ではシベリアにソ連軍が占拠してましたからね、連れていかれたのではということで。  自分は長男ですし、姉はいたんですけれども、何とかしないといけないと思って、北海道の山奥を開拓すれば自分の土地になると聞いて。僕は体がものすごく弱かったんですけれどね、無謀にも、もう10日間くらい満員電車、窓から乗らないと乗れないような超満員の列車なんですけど、そこでゴタゴタしてて。今は地下トンネルがありますけど、青函連絡船に乗って北海道へ渡って、室蘭に着いて。室蘭鉄道っていうのに、父の知人が鉄道会社にいたものですから、それを頼って行ったんです。そこでちょっと過ごして、そこで知り合った人と釧路からだいぶ離れた音別っていう駅があるんですけど、そこからさらに、なん十キロか、馬で半日以上かかるようなところの山奥に入って、丸太小屋で生活しました。 そして、馬で開墾するんですけど、親方ともう1人の、一緒に行った兄貴分のような人は大丈夫なんですけど、僕は馬鹿にされて、馬に蹴られたりとか散々な目にあって。ある日、道に迷って、真夜中に月も出てもない真っ暗で、獣の咆哮を受けて。一晩中彷徨って命がないかと思ったんですけど、ようやく人家にたどり着いて。そのことを横尾忠則さんなんかは、永井一正のデザインの原点はそこにあるっていうようなことを文章に書いてくれたりしてたんですけど。そうするうちに父が戻ったっていうから帰って来いっていうことで、半年くらいかな、そこにいたんですけれど。また戻って新制の、今の高校の3年生に編入学して、そこから芸大に行ったんですよね。 芸大っていうのは東京美術学校だったんですけど、僕は東京芸術大学に改称後の一期生なんです。彫刻科に、塑像なんですけれども入りまして、2年生の時に眼底出血といって、網膜から出血をして、その時は、ばっと黒い渦がまいているという感じで、左目なんですけど見えなくなってしまったんですよね。それで、もちろん慶應大学かなんかの眼科に行って色々として、徐々に徐々に薄くはなってくるんですけれども、それが2回続けてなって。塑像というのはご存じのように、粘土をこねたりとかするのに割と体力がいるので。必ずしも眼底出血は目の病気だけではなくて、恐らく戦時中の栄養失調とか、結核性もあったかもわからないんですけども、そういうもので重なって体からきているので、塑像みたいに体力を使うものをやると完全に失明するって脅かされたんですよね。それで、止む無く、まだ退学はしないで休学して、大阪が郷里だったものですから戻ってしばらく休んでいたんです。 紡績会社というのが、戦後に活発化したんですよね。物のない時代ですから、糸を作ったり、布を作ったりすれば、それは問屋さんに売れていったんですよね。ところがだんだんと50年代に入ってくると、まぁ45年に終戦になってますから、5年位経つと、世の中が多少は落ち着いてね。ダイワボウがワイシャツとか帆布とかを作り出してね。例えばワイシャツを作るとパッケージもいるし、宣伝のパンフレットとかそういうのもいるし、営業報告書みたいなものもいるしっていうようなことで、永井の息子が芸大にいて、ぶらぶらしているらしいから、やらしたらどうかって。当時暢気なものでその芸大に行っていれば、何だって、デザインだってできるっているふうに思われていたんですね。でもまぁ興味がないこともないので、とにかく行って自分一人ではできないからアシスタントを誰かつけて部屋を作ってくれって言って。工芸学校出の女性なんですけども。 彫刻家ではなくグラフィックデザイナーに 野見山:北海道から戻られて、美術家になろう、あるいは彫刻家になろうと思ったきっかけはいかがでしょう。絵の先生のもとでお勉強されていたというのは、以前資料で読んだことがあります。 永井:ひとつは姫路にいたものですから、姫路城。白鷺城って言われる非常にきれいな、用と美を兼ね備えたお城ですから、その圧倒的な立体性と堅牢さっていうのか、敵に攻められないような構造とかね、そういうものにすごく惹かれて。だから建築か、なにか立体みたいなものに行きたいということと、友達に誘われて美術部に入って尾田龍っていう国画会の会員で、当時割と有名な人だったんですけど、その方が顧問で、母校の姫路西高校にいらしていて、そこの美術部で教わって興味を持ったっていうことで芸大を受けて。まぁ、競争率も高かったんですけど、一回で通って。 野見山:立体に関心があって、建築と彫刻を天秤にかけられたんですね。勉強としては全く違うものだと思うんですけど。 永井:やっぱりね、数字に弱いんですよね。数学が苦手だから。やっぱり建築って数学的なものがいるじゃないですか。彫刻はそんなのいらないから。 野見山:相当デッサンなされて、受験に挑まれたんですね。 永井:うん、試験はブルータスかなんかの石膏デッサンだったりしたんで。受けるときは東京に先に半年くらい前に出て、御茶ノ水の美術の予備校に通って、デッサンを習ってということがありましたけども。 野見山:そして、大学に入られて、眼底出血されて中退されるわけですが、当時、彫刻家の石井鶴三さんが先生だったんですよね。図案科に転科されたいと永井さんが申し出た時に強く止められたそうですね。現代だと個人の自由として教授が止めるということもないと思うのですが、やはり当時は彫刻から図案への転向は珍しかったのでしょうか。 永井:極めて珍しいと思います。杉浦康平[1]が建築を出て、グラフィックをやりましたけども、ほかにはあまり聞いたことがない。でも僕の場合は完全に偶然なんですよね。そんなこと夢にも思わないのに、ダイワボウから永井の息子がって、声がかかって、で行って、ぶらぶらしてても彫刻に戻れないならどうして食べていけばいいか分からないしっていうようなことで、じゃあやってみるってやったんですよね。それが不思議にデザインに向いていたというか。とにかくこんな面白いことやって給料もらえるのが嘘みたいって思ったぐらいで、やっぱりデザインがわりと面白かったんですね。 それと、プレスアルト[ⅰ]っていう雑誌があったんですけど、そこにすぐに作品が載って、田中一光[2]が産経新聞社にいて産経会館の何かをやってチラシとかやって、それも載ってお互いに面白い作品作っているなって。お互いに知り合うより前に作品で知り合って、プレスアルトをやっていた脇清吉さんって人に頼んで2人が初めて会ったんですよね。それで意気投合して、そこにキムラカメラっていって不思議なモンタージュを作る木村恒久[3]と、後にハーバード大学の教授になる片山利弘[4]、いずれも個性的な人なんだけど、その4人が意気投合してAクラブというのを作って。僕の下宿っていうのは四畳半にも満たないぐらいなんですけど、そこで4人が川の字に、川の字でもない、4人だから。とにかく議論で疲れて、そこでごろ寝をして、っていうのをやって。ほとんど会わない日はないぐらいで。そして作品を作れば、お互いにぼろくそ言い合うみたいなことをやったりとか。とにかくAクラブという組織を作ったので、大阪の早川良雄[5]さんとか山城隆一[6]さんとか、あるいは東京から山名文夫[7]さん、河野鷹思[8]さん、亀倉雄策[9]さんとかが大阪にいらしたときにはAクラブで話を聞くとか、そういうようなことで色々吸収していった。 50年代のポスターについて 「世界のポスター展」展示風景、左側の上から2段目に写る3枚連ねて展示されているポスターが伊藤憲治による《リファインテックス》。 野見山:50年代って仕立てる服から、先ほどおっしゃっていたようなワイシャツのような既製服へと移行し始めて、新しい販促物が必要になってきた頃ですよね。広告の重要性も高くなっていたのかと思います。今回の展示でやろうと思っているのは美術とデザインの狭間の話なのですが、50年代のポスターを見ていくと、布に関連する広告が結構多いなという印象でした。少し資料を見ながらそのあたりの話もうかがえればと思います。 国立近代美術館は、1952年に開館しました。そして、もしかしたら永井さんも行かれたかもしれませんが、1953年に「世界のポスター展」という展覧会を開催しています。これは国立の美術館で開催した初めてのデザイン展で、グラフィックデザインが一番最初だったというのが面白い点なんです。当館で当時展示されたポスターが保管されていたのをここ数年で調査、修復してきました。今回は、その一部なのですが、お披露目するということで、どんなテーマができるのかなぁと考えていたんです。例えば、この《リファインテックス》とかは、まさにお洋服の生地を宣伝するものだと思うのですけど、これは仕立て用の布のためのものですよね。あとは早川さんの《カロン洋裁》もありますね。やっぱりお洋服を作るとか、ファッションに対する関心が高まっていたのだとポスターから読み取れます。 永井:我々は、早川さんのこれらのポスターにはすごく魅せられたといいますか、感銘を受けたんですよね。直接、僕のデザインは早川さんから影響を受けたわけではないですけど、田中一光なんかは惚れ込んで近鉄の駅に貼ってある早川さんのポスターを夜中に盗んだとかいうような逸話があるんですけども。 野見山:当時は、繊維業界は活発で、お金も潤沢にあったんですね。そして結構、関西のデザイナーさんが多いですね。 永井:関西の方は割と自由だったんですよね。感性的でね。東京の方は亀倉さんに代表されるように非常にバウハウス的な論理的な、構築的なものだったんですよね。だけど関西はもうちょっと早川さんに代表されるように、すごい自由だったということでね。 ビジュアルコミュニケーションという言葉 日本のグラフィックデザイン運動を考えてみても、その図案的概念から、つまり絵画に対するコンプレックスからときはなされ、絵画と比肩しうるようになったのは、絵画への接近のためではなく、逆に絵画から離れていったためである。したがって、その運動は、デザインの独自性の確立だったといえる。そして、ビジュアルコミュニケーションという言葉と概念の導入は、私達グラフィックデザイナーにコミュニケーターという社会的役割をふりあてて、その立場を再認識させた。(永井一正「コミュニケーション・デザイン=グラフィック・デザイナーの役割」、林進編『現代デザインを考える』美術出版社、1968年) 野見山:私が関心を抱いている点ですが、1950年台の初めは割と美術の動向に近い動きをしていた宣伝美術家が多くいたと思います。1960年代に入ると、世界デザイン会議[ⅱ]がきっかけになったと思うのですが、社会的な立場やデザイナーの責任が問われるようになり、日宣美[ⅲ]でもそのようなことが問われるようになりと。そのなかで、ビジュアルコミュニケーションという言葉がデザイナーの役割を価値づけるというか、位置付けるのに重要だったというのがこの文章から凄く分かったんですが、やっぱり意識的にビジュアルコミュニケーションという言葉を取り入れるようになって、自分の作るものに変化はあったんですか? 永井:それはありますね。それと、やっぱり完全にデザインというのは時代に敏感なもので、やっぱりアーティストなんかも時代っていうのはあるけれども、自分が美的世界を作ればね、どんな人間でも現代に生きている限りはそんなに時代を意識していなくても、時代と共に変化をしていきますよね。デザイナーというのは、あえて時代性というのを敏感に感じとらなければいけない職業ですから、やっぱりアーティストとその辺は違うと思うんですよね。 永井 一正《アサヒスタイニー》1965年 野見山:永井さんがデザインされたポスター《アサヒスタイニー》を例に取ると、グラフィック的に力強いものもありますが、商品をちゃんと見せなければならない、売らなければならないという意識も画面から見ることができます。ほかにも後楽園のプールの広告とかも、これも永井さんがされているんだなぁと。永井さんのされていた造形的な特徴とはまた別で、意識的に使い分けていたところはあったんですか。 永井:やっぱり日本デザインセンターというのは、元来は広告を主にやっている会社ですから、そこに入るとどうしても広告を作らなければなりません。アサヒビールなんかはそうですし、ニコンは割と僕の造形的なものでやってはいたんですけれども。やっぱり依頼はそういうビジュアルコミュニケーションを、広告的な要素が加味されたものを要求されるわけですから、それに答えるということがありますよね。だから、アーティストとの決定的な違いはクライアントがあるということですよね。クライアントなしにやっている作家もいるし、僕自身も「LIFE」でね、そんなにクライアントを特定しないで、まぁクライアントも入ってますけれども、全く自由にやっていることはあります。 原則としてはクライアントがあって、それが公共体であれ、消費者であれ、会社であれ、なんにしろ、とにかくそこのものをどのようにして広めていくか、もっと端的にいえば売るかということが求められますから、そこはファインアートと全然違いますよね。 いずれも永井一正《Life》1995年、当館所蔵 野見山:同じ世代くらいの、田中さんは西武のお仕事を長くされて、その仕事を数え出したらキリがないですけど、文化的なものが多かったですね。シアターのものだったりデパートのものもあったり。一方で田中さんの作品で知られているのは日本舞踊のポスターだったりします。そのあたりは皆さんのスタンスはどうだったのでしょうか。 永井:やっぱり作品を作りたいというか。まあ、デザイナーは本来無名でいいんですよね。だけども自分の名前でというよりも、自分が確信した造形の作品を作りたいという、それで自分の個性が一番出るのはポスターなんですよね。だからポスターを作りたいという欲はすごくあるんですよね。だから今もJAGDA[Ⅳ]とかADC[ⅴ]とかも、こういう時代でも、ポスターなんていうのは斜陽だと言われてから久しいですけれども、やっぱり一番ポスターが多いんですよね。 野見山:絵画ではなく、複製という美術のかたちであることに意味はあるんですか? 永井:やっぱり版画もそうですけれど、数から言えばもっと刷られるということがあるし。多くの人に見られるということがありますよね。それで、横尾忠則[10]みたいにアーティストになって、サイトウマコト[11]も最近アーティストになったんですけど。そういう人もなかにはいるけれども、僕はやっぱりアート的なんだけどデザインとしてのギリギリの節度は守りたいと。ポスターの中にどれだけ自由に、今までの既成概念を壊してできるかっていうことに挑戦してきたと思うんですけどね。 永井さんが関心を持つ美術 野見山:今この席から見えるのですが、色々と部屋の棚に作品を展示してありますね。例えばあれは倉俣史朗[12]さんのアクリルの作品ですか?コレクションしている美術作家はいますか? 永井:いやぁ、そんなない。三木富雄[13]さんの作品はあるし、高松次郎[14]の作品とか色々ありますけれども、特別にコレクションしてるわけじゃない。 野見山:何かしら購入されたり、手に入れるときに何か惹かれるものがあったと思うのですが、例えば三木富雄さんの作品にあるように耳への執着とか。高松さんも倉俣さんと交流があったりしていましたが。 永井:うちにあるのは、こうフックがあって、それに影がこうあるやつ。 野見山:あぁ影があるやつですね、有名なシリーズですね。 永井:彼も色々面白いものを作ったんだけど、やっぱり影が一番すごいですよね。 野見山:どういうところがお好きなんですか? 永井:影であれだけ色々できたっていうのは。 野見山:お持ちになっている作品は表現であったり、造形の面白さだったりで、何か永井さんがご関心を持っている人の作品っていうことですね。 永井:そうですね。 野見山:最近でなくてもいのですが、作家さんや展示で、ずっとこの人の作品は好きだなぁとか作品集をお持ちの作家さんで思いつく人はいますか? 永井:色々あると思うけど、やっぱり親しいから横尾くんの作品とか。サイトウマコトも毎回呼ばれて、迎えに来てくれて連れて行かれるから。でも興味あるのは、もう亡くなっちゃったけど河原温[15]の初期の浴室の。それから文字だけの、あれはもうすごい長いですからね。 野見山:ちょうど今回のインタビューのきっかけである小特集「純粋美術と宣伝美術」の展示にも河原温さんの作品が出ます。まさに浴室の《孕んだ女性》ですね。ちょうどこの時代が早川さんとか山城さんがデモクラートに所属しているときに、河原さんもいらっしゃったんですよ。同じ頃に活動していたんですね。 永井:この浴室シリーズは傑作だと思いますね。 野見山:この辺のシュルレアリスムの作品も出ますし。あとは、山口正城[16]さんってご存知ですか?当館では2点持っているのですが、本邦初公開します。早川さんや山城さんも山口さんから学んでいたし、もしかしたら永井さんのアシスタントにつかれていた工芸学校の卒業生の方も学んだかもしれません。 永井:バウハウスの教育理論をものすごく勉強された方だよね。 野見山:そうです。でも理論とは見事に異なる、もっと感覚的な人たちが生まれていますが。(山口さんの作品と早川さんの作品を比較しながら)こういう作品を見ると、類似点も指摘できるとは思うんですけども。今日話をしていて思ったのは、永井さんの上の世代人たちは、少し違う視点で美術との関係性を持っていたんじゃないかということですね。永井さんの世代になると、すんなりと彫刻からデザインへ転向することができたわけで、デザインに対する印象、それを取り巻く社会の状況や教育の在り方も違っていたように感じます。それではそろそろ時間が来ましたので、終わりたいと思います。ありがとうございました。(了) 註 <人物名> 杉浦康平(1932-):グラフィックデザイナー。実験的な装丁、造本とタイポグラフィーで知られる。曼荼羅などアジアの図像や文字の研究にも取り組む。田中一光(1930–2002):グラフィックデザイナー。日本の伝統美と幾何学構成を融合させたグラフィック表現で知られ、≪NIHON BUYO≫(1981)は、その代表的な例。木村恒久(1928–2008): グラフィックデザイナー。写真集『キムラカメラ』(パルコ出版、1979)では、精巧なフォト・モンタージュを用いて、奇抜で異様な世界の図像を創作した。片山利弘(1928–2013):グラフィックデザイナー。四角や三角といった基本的な造形要素を、規則性を持たせて変形したり、配置したりすることで生まれる幾何学的な作品を多く生み出した。早川良雄(1917–2009):グラフィックデザイナー。独特の緩いタッチで描かれた絵と文字を大胆に構成したポスターで知られる。山城隆一(1920–1997):グラフィックデザイナー。1955年に制作された《森・林》では、当時新しい技術であった写真植字(写植)が用いられた。山名文夫(1897–1980):グラフィックデザイナー。花椿マークを筆頭に、アール・デコ様式を基調にした資生堂のスタイルを確立させたことで知られる。河野鷹思(1906–1999):グラフィックデザイナー。映画広告から本格的なキャリアをスタートし、大衆の心を掴むユーモアあふれるグラフィック表現を生み出した。亀倉雄策(1915–1997):グラフィックデザイナー。構成主義的なアプローチを軸に、力強く明快なデザインを数多く生み出した。戦後のグラフィックデザイン界で中心的な役割を担った。横尾忠則(1936–):画家。グラフィック・デザイナー、イラストレーターとして活動を開始し、ポップ・アート的な感覚を取り入れた独自の表現を開拓した。1980年に絵画制作に専念すると宣言した。サイトウマコト(1952–):画家。シンプルながら大胆かつ力強い画面作りを得意とした。デザイン活動の傍ら絵画制作を進め、2008年、画家として初めて作品を発表した。倉俣史朗(1934–1991):プロダクトデザイナー。コンセプチュアルな側面を持つ家具や照明をデザインした。新しい素材に強い関心を示し、なかでも透明のアクリルを用いた作品で知られる。三木富雄(1937–1978):彫刻家。1962年より人間の耳をかたどった作品を制作しはじめる。アルミニウム合金を中心に様々な素材と技法を用いて、多様な耳の作品を数多く生み出した。高松次郎(1936–1998):美術家。絵画にとどまらず、様々なメディアを用いて観念の広がりを感じさせる視覚表現を探求した。1964年から開始した「影」シリーズでは、キャンバスに主題となるものの実体を描かず、影のみを描いた。河原温(1932–2014):美術家。《孕んだ女》(1954)には、上下左右のないタイル貼りの浴室に、切断された体の一部や妊婦が配置された様子が描かれている。日付絵画は、単色で塗られたキャンバスに白色で制作日の日付を描くもので、1966年から始まった作家の代表作である。山口正城(1903–1959):画家、デザイナー。プロダクトデザインを実践しながら、抽象画家としても活躍。大阪市立工芸高校や千葉高校でデザイン教育に従事したことでも知られる。 <そのほか> [ⅰ] プレスアルト:京都のワキヤ書房店主・脇清吉が戦前に発行を始めた雑誌。チラシやパッケージ、包装紙の実物と一緒にそれらに対する批評が掲載された。[ⅱ] 世界デザイン会議:1960年に東京で開催された日本初の国際デザイン会議。建築、グラフィック、インダストリアルなど、ジャンルを幅広く網羅した内容が話し合われた。[ⅲ] 日宣美:日本宣伝美術会の略称。1951年に設立した宣伝美術家の職能団体。1970年に解散。[Ⅳ] JAGDA:日本グラフィックデザイン協会の略称。日宣美の後身的な存在として1978年に設立。初代会長は亀倉雄策。[Ⅴ] ADC:東京アートディレクターズクラブの略称。1952年に設立したアートディレクターの職能団体。

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平常陳列 近代日本の美術 第1回

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ウェブサイトをリニューアルしました

2023年3月29日(水)東京国立近代美術館のウェブサイトをリニューアルしました。 東京国立近代美術館、国立工芸館それぞれのURLが変更となりました。お気に入りやブックマークなどに登録されている方は、お手数ですが新URLへの設定変更をお願いいたします。 旧ホームページURL)https://www.momat.go.jp/am/新ホームページURL)https://www.momat.go.jp/ 旧ホームページURL)https://www.momat.go.jp/cg/新ホームページURL)https://www.momat.go.jp/craft-museum

ゲルハルト・リヒター展

はじめに ドイツ・ドレスデン出身の現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター(1932-)。リヒターは油彩画、写真、デジタルプリント、ガラス、鏡など多岐にわたる素材を用い、具象表現と抽象表現を行き来しながら、人がものを見て認識するという原理に、一貫して取り組み続けてきました。 画家が90歳を迎えた今年2022年、本展では画家が手元に置いてきた初期作から最新のドローイングまでを含む約120点によって、一貫しつつも多岐にわたる60年の画業を紐解きます。 日本では16年ぶり、東京では初となる美術館での個展です。 ポスタービジュアル(ゲルハルト・リヒター《ビルケナウ(CR: 937-2)》2014年 ゲルハルト・リヒター財団蔵 © Gerhard Richter 2022 (07062022)) 見どころ 初期のフォト・ペインティングからカラーチャート、グレイ・ペインティング、アブストラクト・ペインティング、オイル・オン・フォト、そして最新作のドローイングまで、リヒターがこれまで取り組んできた多種多様な作品を紹介。特定の鑑賞順に縛られず、来場者が自由にそれぞれのシリーズを往還しながら、リヒターの作品と対峙することができる空間を創出します。 1.現代アートの巨匠、待望の大規模個展 リヒターの日本の美術館での個展は、2005-2006年にかけて金沢21世紀美術館・DIC川村記念美術館で開催されて以来、実に16年ぶり。また東京の美術館での大規模な個展は今回が初めてとなります。 2.最新作を含むリヒター所蔵の作品で、60年におよぶ作家の画業をたどる 世界のアートシーンで常に注目を集めてきたリヒター。彼が手放さず大切に手元に置いてきた財団コレクションおよび本人所蔵作品を中心に、最新作のドローイングを含む貴重な作品約120点が、初めて一堂に会します。これらの多様な作品を通じて、2022年に90歳を迎えたリヒターの、60年におよぶ画業をたどります。 3.近年の大作《ビルケナウ》、日本初公開 幅2メートル、高さ2.6メートルの作品4点で構成される巨大な抽象画《ビルケナウ》は、ホロコーストを主題としており、近年の重要作品とみなされています。出品作品のなかでも最大級の絵画作品である本作が、この度、日本で初めて公開されます。 プロフィール ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter) 1932年、ドイツ東部、ドレスデン生まれ。ベルリンの壁が作られる直前、1961年に西ドイツへ移住し、デュッセルドルフ芸術アカデミーで学ぶ。コンラート・フィッシャーやジグマー・ポルケらと「資本主義リアリズム」と呼ばれる運動を展開し、そのなかで独自の表現を発表し、徐々にその名が知られるように。 その後、イメージの成立条件を問い直す、多岐にわたる作品を通じて、ドイツ国内のみならず、世界で評価されるようになる。 ポンピドゥー・センター(パリ、1977年)、テート・ギャラリー(ロンドン、1991年)、ニューヨーク近代美術館(2002年)、テート・モダン(ロンドン、2011年)、メトロポリタン美術館(ニューヨーク、2020年)など、世界の名だたる美術館で個展を開催。現代で最も重要な画家としての地位を不動のものとしている。 カタログ 「ゲルハルト・リヒター展」公式図録 価格:3,900円(税込み)仕様:判型A4変形判、展覧会出品作品オールカラー総頁数:352ページ言語:日本語、英語(一部) 目次 ゲルハルト・リヒター:画家にしてイメージメーカー ――ゲルハルト・リヒター財団の所蔵品  ディートマ・エルガー ビルケナウ以降 ――ゲルハルト・リヒターの〈アブストラクト・ペインティング〉における後期様式について  桝田倫広 「絵画は役に立つのです」 ――リヒター作品における「もの」と「ビルト」、「複数性」と「真実性」をめぐって  鈴木俊晴 図版 フォト・ペインティング  浅沼敬子リヒターと社会主義リアリズム  福元崇志資本主義リアリズム  桝田倫広アトラス  鈴木俊晴リヒターと1960年代のマルセル・デュシャンの再評価  中尾拓哉カラーチャートとグレイ・ペインティング  鈴木俊晴アブストラクト・ペインティング 1970s-1980s  鈴木俊晴頭蓋骨、蝋燭、花  鈴木俊晴オイル・オン・フォト  清水穣リヒターの風景画とドイツ・ロマン主義  仲間裕子カラーチャートと公共空間  鈴木俊晴ストリップ  桝田倫広アブストラクト・ペインティング 1990s-2010s  鈴木俊晴ドローイング  桝田倫広 対談 ゲルハルト・リヒター/ディーター・シュヴァルツ 2017年11月20日、ケルンにて無用の用 ――リヒターのガラスをめぐって  林寿美《1977年10月18日》と人物画  浅沼敬子樹皮としての絵画 ――《ビルケナウ》とジョルジュ・ディディ₌ユベルマン  田中純鏡の音楽 ゲルハルト・リヒターと音楽  清水穣文化の記録、蛮行の記録 ――ゲルハルト・リヒターの《ビルケナウ》  ベンジャミン・H.D. ブクロ―生産としての複製 ――ゲルハルト・リヒターの芸術における写真の役割について  シュテファン・グロナート 年譜作品リスト主要参考文献 開催概要 東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー 2022年6月7日(火)~ 2022年10月2日(日) 月曜日(ただし7月18日、9月19日、9月26日は開館)、7月19日(火)、9月20日(火)9月27日(火) 10:00-17:00(金曜・土曜は10:00-20:00)9月25日(日)~10月1日(土)は10:00-20:00で開館します*入場は閉館30分前まで チケットの詳細・購入方法は展覧会公式サイトをご確認ください。(展覧会公式サイトの公開は終了しました) 一般  2,200円(2,000円)大学生 1,200円(1,000円)高校生  700円(500円) ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。中学生以下、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は、学生証・職員証の提示により団体料金でご鑑賞いただけます。本展の観覧料で入館当日に限り、所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)もご覧いただけます。 東京国立近代美術館、朝日新聞社 ドイツ連邦共和国大使館、ゲーテ・インスティトゥート東京、在日ドイツ商工会議所 ゲルハルト・リヒター財団、ワコウ・ワークス・オブ・アート 小川香料ホールディングス、ルフトハンザ カーゴ AG、岡建工事 豊田市美術館:2022年10月15日(土)~2023年1月29日(日)

柳宗悦没後60年記念展 民藝の100年

はじめに ローカルであり、モダンである。 今、なぜ「民藝」に注目が集まっているのでしょうか。「暮らし」を豊かにデザインすることに人々の関心が向かっているからなのか。それとも、日本にまだ残されている地方色や伝統的な手仕事に対する興味からなのか。いずれにせよ、およそ100年も前に柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎が作り出した新しい美の概念が、今なお人々を触発し続けているのは驚くべきことです。 柳宗悦の没後60年に開催される本展覧会は、各地の民藝のコレクションから選りすぐった陶磁器、染織、木工、蓑、ざるなどの暮らしの道具類や大津絵といった民画のコレクションとともに出版物、写真、映像などの同時代資料を展示し、総点数450点を超える作品と資料を通して、民藝とその内外に広がる社会、歴史や経済を浮かび上がらせます。 今回とりわけ注目するのは、「美術館」「出版」「流通」という三本柱を掲げた民藝のモダンな「編集」手法と、それぞれの地方の人・モノ・情報をつないで協働した民藝のローカルなネットワークです。民藝の実践は、美しい「モノ」の蒐集にとどまらず、新作民藝の生産から流通までの仕組み作り、あるいは農村地方の生活改善といった社会の問題提起、衣食住の提案、景観保存にまで広がりました。「近代」の終焉が語られて久しい今、持続可能な社会や暮らしとはどのようなものか―「既にある地域資源」を発見し、人・モノ・情報の関係を編みなおしてきた民藝運動の可能性を「近代美術館」という場から見つめなおします。 作品保護のため、会期中一部展示替えがあります。(前期:10月26日(火)~12月19日(日)、後期:12月21日(火)~2022年2月13日(日))  見どころ 1.民藝の歴史的な変化と社会の関係をたどります。 民藝運動はどのような背景のなかで生まれ、変化してきたのでしょうか。関東大震災、鉄道網の発達と観光ブーム、戦争と国家、戦後の高度経済成長―民藝運動の歩みは「近代化」と表裏一体であり、社会の大きな節目と併走するように展開してきました。なぜ今、民藝が注目されるのかをひも解きます。 2.手を動かす柳宗悦ーそのデザイン・編集手法を分析します。 宗教哲学者であり、文筆活動を主体として民藝運動を推しすすめた柳ですが、実はなかなかの画力の持ち主。集めた器物をスケッチし、書体(フォント)を作り、写真のトリミングや配置を決め、あるいは建物や製品の設計図を描き、大津絵などの絵画の表具をしつらえるなど、あらゆる「編集」作業に腕をふるいました。柳がさまざまなメディアを通して、自らの美的感覚をどのように示し、伝えたのか―その「手さばき」を解析します。 3.衣食住から景観保存まで ツイードの三つ揃いスーツ、蝶ネクタイに丸眼鏡、ワークウェアとしての作務衣―民藝の人々はみなスタイリッシュでお洒落でした。しゃぶしゃぶにカレー、地方のお土産菓子など、食文化にも民藝は関わっています。民家の特徴を取り入れた建築にウィンザーチェア、日本・朝鮮・西洋折衷のインテリアデザインは良く知られるところですが、鳥取砂丘の景観保存にも民藝が関わっていたこと、ご存じでしたか? カタログ 柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」公式図録 2,600円(税込み)B5変形サイズ/311頁/日本語・英語(一部) 450点以上の作品画像を掲載!作品解説も充実早わかりガイド「展覧会の見取り図」「人物相関図」掲載章の間にコラムを掲載 目次イントロダクション「民藝の100年」展を編集するー展覧会の見取り図 花井久穂、鈴木勝雄第1章 「民藝」前夜ーあつめる、つなぐ第2章 移動する身体ー「民藝」の発見第3章 「民」なる趣味ー都市/郷土第4章 民藝は「編集」する第5章 ローカル/ナショナル/インターナショナル第6章 戦後をデザインするー衣食住から景観保存まで民藝の「近代」ーミュージアム・出版・生産から流通まで 花井久穂MOMATアートライブラリによる「民藝文献案内」俯瞰的視点をもつための「民藝の100年展年表」 開催概要 東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー、2F ギャラリー4 2021年10月26日(火)~ 2022年2月13日(日) 月曜日[ただし2022年1月10日は開館]、年末年始[12月28日(火)~ 2022年1月1日(土)]、1月11日(火) 10:00-17:00(金・土曜は10:00-20:00)*入館は閉館30分前まで チケットの詳細・購入方法は特設ページをご確認ください。(特設ページの公開は終了しました) 一般  1,800円(1,600円)大学生 1,200円(1,000円)高校生  700円(500円) ( )内は20名以上の団体料金。いずれも消費税込。中学生以下、障害者手帳をお持ちの方とその付添者(1名)は無料。それぞれ入館の際、学生証等の年齢のわかるもの、障害者手帳等をご提示ください。キャンパスメンバーズ加入校の学生・教職員は、学生証・職員証の提示により団体料金でご鑑賞いただけます。本展の観覧料で入館当日に限り、所蔵作品展「MOMATコレクション」(4-2F)もご覧いただけます。 東京国立近代美術館、NHK、NHKプロモーション、毎日新聞社 NISSHA、三井住友海上 日本民藝館

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