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日稼
手前から順に、笠、流し場、娘、釜、障子、金色の平卓、堆朱の箱、そして阿弥陀の掛軸と、たくさんのモチーフが重なっていることに気づいた途端、平たく見えていた(しかも流し場のパースに迷いがある)画面に奥行きを認知できるようになるのが不思議です。作者はその落差を最大にしたかったようです。なぜなら、流し場以外のモチーフを正対させ、娘の着物なんて平たくベタ塗りにしているのですから。それでもまだ平たさが足りないと思ったのか、「写実の匂ひが鼻につく」作品になった(「文部省展覧会日本画作家の作意と苦心」『太陽』1917年11月)とコメントしました。
梅に楓図
1990年代末に紙の裏側から描き、点点が効いた作風にたどりついた浅見貴子。墨は表側から重ねると鈍い墨色になるのに対し、裏側から重ねると表に新鮮な墨色だけが出るので、生き生きとした印象になると作家は言います。陽光を浴びながら、梅の木と手前の楓の枝が複雑に交差している様子を描いたこの作品では、横方向に筆をスライドさせながら打った白く丸い点々が特徴的で、浅見の光への意識の強さがよく現れています。墨や白の点描と、複雑に折り重なる筆線が生み出す空間の拡がり。内に凝縮する力と外へと拡散する力をあわせもつエネルギッシュな画面を通して、空気や光や枝のざわめきを生命感豊かに表現しています。
離騒(りそう)
「離騒」とは、中国・楚の詩人、屈原の詩の題名ですが、屈原が残した25篇の詩の総称でもあります。この作品は、25篇のうち「九歌」中の2篇、「湘君」、「湘夫人」を主題とし、洞庭湖の渚に降臨する女神と、それを待ち望む屈原の姿を、よく走る霊華独特の美しい線で描いています。左右の龍に注目してみると、まったく同じ形に描かれています。もしかしたらこの左右の図は「異時同図」ならぬ「同時異図」のようなもので、本当は左の龍の傍らにも女神はいるはずなのに屈原には見えていない、その様子を図示しているのではないでしょうか。
仁王捉鬼図(におうそっきず)
芳崖は、お雇い外国人のアーネスト・F・フェノロサの指導のもと、伝統的な狩野派絵画を近代日本画へと転換させた立役者。本作品は、力強い線描と濃厚華麗な色彩が同居してややキッチュな印象を与えますが、主題、線描、色彩のすべてにおいてフェノロサの指導を反映させた歴史的な重要作です。さらには、近年おこなわれた科学調査によって、伝統的な顔料の代わりに西洋顔料が積極的に用いられていることが明らかとなりました。近代日本画は、表現の点でも材料の点でも西洋絵画との融合のもとにスタートしたのです。
樹を見上げてVII
「樹の下で真上を見上げる。私と近い距離の枝、遠い距離の枝、そして向こうに空がある。自分の目で見、見極めようとしても見極められない部分、測りしれない部分がそこにはあった」。樹を見上げると感じる「なにか不安定な、そして不思議な空間」に惹かれた日高は、やがて「自分のまわりの空間、自分を包み込んでいる空間そのもの」の表現を求めて、大画面の作品を制作し始めました。東京郊外にある自宅近くの神社境内で山桜などをその場でドローイングしながら、4回の冬を越して完成したのがこの大作。絵の前に立つと、作者が感じた不思議な感覚を追体験できるかのような、未知なる空間を感じとれるのではないでしょうか。
唐蜀黍(とうもろこし)
唐蜀黍を左右に一本ずつ、対照的な姿と色彩で描き、両者を対峙させる構図。右隻の唐蜀黍はまっすぐに伸びあがる安定した姿ですが、左隻のそれは強い風になびいているのか、大きく右に傾いでいます。この静と動を対比させる構図は、尾形光琳の《紅白梅図屏風》(18世紀、MOA美術館蔵)など琳派の作品でもしばしば見られるものです。また、余白を生かした構図や、たっぷりとした形態描写、葉の表現に用いられた「たらし込み」の技法からは、俵屋宗達に対する深い関心を見て取ることができます。
塔
1957(昭和32)年7月6日未明に、幸田露伴の小説『五重塔』(1892年)で有名な台東区谷中の天王寺の五重塔が、放火心中のために焼け落ちました。この知らせを聞いて、横山はすぐ現場に駆けつけ、黒焦げた骨組みのみをとどめる塔の無残な姿を、すばやくスケッチしたといいます。そのときの印象そのままに、横山は、縦長の大画面に真っ正面から塔だけを大きく捉えています。左右の両端を大胆にトリミングして、垂直にそびえたつ塔の存在感を効果的に引き立てる構図の工夫も見てとれます。
道
この作品は青森県の種差海岸の牧場に取材して描かれたものですが、実際の風景から余分なものを省いて単純な構図にまとめることで、心象風景に高められています。「遠くの丘の上の空をすこし明るくして、遠くの道がやや右上りに画面の外に消えていくようにすることによって、これから歩もうとする道という感じが強くなった」と東山は語っています。この「道」には、戦後の日本の再出発への希望が託されているのです。
浴女 その一
女性が描くと裸婦でもエッチな感じがしない。そういう感想が聞こえてきそうですが、そもそも裸婦はエッチに(欲情的、扇情的に)描こうとしなければ、ただの裸の人間にすぎません。この作品に清潔感があるのは、旧来の入浴図によくうかがわれる窃視趣味やチラリズム、あるいは流し眼やシナ、上気した肌といった細工が仕組まれていないからです。作者の関心は、タイル張りの湯船に温泉がゆらめいて、縦横の格子模様がユラユラとひしゃげる様子にあったといいます。《浴女 その二》と対となる作品です。
穹
若い頃に「純粋絵画」という言葉に魅かれた杉山は、日本画につきまとう情緒性や文学性を極力排除し、色や形だけでなりたつ日本画を目指しました。ときには、画面に幾何学的な形の配置を定めてから、その形に見合うモチーフを探すこともあったといいます。「穹」はキュウと読み、広く張って大地を覆う大空という意味があります。どこからともなく差し込む一条の光の下、悠然と座るスフィンクス。その構成は強固で、カンヴァス地にカゼイン(乳タンパク由来の塗料)と砂を混ぜた厚塗りのマティエールとともに、造形の強さを支えています。
