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MOMAT支援サークル 設立から6年を経て─現状と今後について

美術館入口の石垣に設置されているプラチナパートナーのプレート 東京国立近代美術館は2016 年、企業に特化した美術館支援制度として「MOMAT支援サークル」を設立しました。これまでの国立美術館は、美術館サイドがご寄附という形で受動的にご支援を受けることが一般的でしたが、MOMAT支援サークルでは、企業と美術館、双方が求め、望むところを叶えるような相互関係を「オーダーメイド」で築いていけるよう制度設計をしました。例えば本制度では、3 種類のパートナープランをご用意し、ご支援いただく金額に応じて様々な特典をご提供していますが、パートナー企業は、支援の形態や充当先、美術館が提供する特典などを、それぞれのニーズによって選んだり、カスタマイズしたりすることができます。 また、パートナー企業同士が美術館に集まり、出会い、新しいビジネスが生まれる、新しい付き合いが始まるような展開を期待し、制度の名称を、人と人とが集い交流する場所という意味で「サークル」としました(英語の名称は「MOMAT Corporate Partnership」です)。そして、支援企業を「パートナー」と呼んでいます。設立から6 年が経ち、現在のパートナー企業は15社となりました。 さて、新型コロナウイルス感染症の感染が確認されてから早2年が経過しました。美術館も感染予防や感染拡大防止に努め、入館者数を制限するための事前予約制度の導入や、入口での検温、手指の消毒、館内でのマスク着用のお願いなど、対策を徹底させています。また、2020年4月と2021年5月には、1ヶ月を超える臨時休館を経験しました。こうして、企画していた展覧会の中止や、会期の変更を余儀なくされ、また開館できても人数制限により入館者数が激減する事態となり、美術館の運営は非常に厳しくなりました。コロナ禍においては、多くの企業が減収に苦しんでおられますが、こうした厳しい状況においても、パートナー企業からのご支援が途絶えることはなく、変わらぬご支援をご継続いただいていることは、大変貴重で非常にありがたいことです。設立時に作成したパンフレットの中で、「MOMAT支援サークルは、パートナー企業の皆様と、効果的な長期にわたる関係を発展させていくことのできるシステムを目指します」と発信しています。まさにこの目標が現実のものとなったことを実感した2年でした。 一方、特別鑑賞会やプライベートイベントの実施、パートナー企業の社員の皆様やクライアントに向けてご提供しているコレクション展の無料鑑賞などは、人と人との接触を減らすことを求める感染予防対策や、美術館の臨時休館により物理的にご利用が不可能となるなど、コロナ禍においてはご支援に対する特典をほとんどご利用いただけない状況が続いており、新しい生活様式やウィズコロナの時代に適応するような新しい形の特典を考える必要性を感じています。 数年前より、これまで嗜好や趣味として捉えられていたアートが、ビジネスに必要な要素として企業研修や個々人のビジネスパーソンのスキルアップに取り入れられることが増えています。また、ご支援の目的も純粋な支援という形から、本業と連携できる形での支援を望む企業も増えてきています。こうした時流に乗り遅れることなく、パートナーの期待に応えられるよう、7 年目を迎える本制度もより充実させていきたいと思っています。 最後に、長きにわたり東京国立近代美術館をご支援くださっているすべてのパートナー企業に厚く御礼を申し上げます。 エントランスに設置された支援企業のプレート [プラチナパートナー]木下グループラグジュアリーカード株式会社三井住友銀行東海東京証券株式会社[ゴールドパートナー]三菱商事株式会社大日本印刷株式会社アバントグループ[シルバーパートナー]鹿島建物総合管理株式会社丸紅株式会社パシフィックコンサルタンツ株式会社日本電子株式会社セイコーホールディングス株式会社三井住友海上火災保険株式会社タカラレーベングループ月島倉庫株式会社(2022年1月現在) 『現代の眼』636号

村上早《かくす》2016年

村上早(1992–)《かくす》/2016年/銅版(リフトグランドエッチング、エッチング、アクアチント、スピットバイト[多色])/118.0×149.4cm/令和2年度購入 令和2年度に当館は、村上早さきの大型版画4点(購入2点、寄贈2点)を収蔵いたしました。そのうち《カフカ》(2014年)と《かくす》(2016年)の2点が、2022年3月18日から5月8日まで、所蔵作品展「MOMATコレクション」に展示されています。 版画は、美術館での展示が増えたことなども影響し、1980年代以降、大画面の作品も制作されるようになりましたが、一方で依然として求心的で繊細、緻密な作品も多いジャンルです。村上早は作品収蔵時にまだ20代という若手版画家ですが、その大きな作品は、他の現代美術と一緒に展示しても耐えうる力強さを備え、版表現の新たな展開を期待させるものとして、注目を集めてきました。 群馬県高崎市の動物病院を営む家庭に生まれた村上は、先天性の心臓病のため、4歳の時に手術を受けたことがあります。幼少期に受けた心臓手術や生死が隣り合わせの実家の動物病院における日常の記憶が大きく関わりながら、自身の心の傷と重ね合わせるかのように、村上は版に「傷」をつける銅版画制作へと向かい、意識的にその特性と向かい合いながら表現の可能性を追究してきました。恐怖や不安、苦痛、生と死などとの結びつきを感じさせるその表現は、私的な体験を出発点としながらも個人的な記憶を超えて、心やいのちといった根源的な問題にも深く関わっています。 《かくす》は銅版に散布した松脂の粉末の上から、直接腐蝕液を筆につけて描くスピットバイトという技法や色版も加え、線描や面の表現に拡がりを見せ始めた2016年の作品。一見すると、さわやかな青色が目を引く、空と天使が描かれた作品にも見えますが、よく見ると青いかたまり(ブルーシート)からは、克明に描かれた鳥の脚が突き出ていて、何も描かれていない人物の顔は、画面の縁で断ち切られています。ブルーシートに包まれた隠されたものと、羽をかかえてその場から立ち去ろうとする人物。単純化されたフォルムと太くて強い筆線による印象的な画面に描かれているのは、意味ありげで心穏やかならぬ、つかみどころのない場面です。 恐怖や不安にさらされた不穏さと繊細で傷つきやすい心のゆらぎが共存しながら、どこか夢か寓話の一場面のような幻想性も感じさせる村上早の作品は、見る者の想像力をさまざまに掻き立てます。 『現代の眼』637号

とけあう美人像「鏑木清方展」

鏑木清方(1878–1972)の描く美人画には、詩情豊かな自然や風俗のなかに溶け合うかのように女性像が描かれる。本展では、鏑木清方の描く嗜好と思考を抽出し、新たな側面の提示を試みる展示構成となっていた。つまり、鏑木清方の画業を編年的に編み、その変遷に特化したものではなく、第1章「生活をえがく」・第2章「物語をえがく」・第3章「小さくえがく」といったように清方という人物を語る際にしばしば象徴的となるワードが各章タイトルに付されはするものの、俯瞰的には画業を体系的にみつつも、本展趣旨にもあるように「美人画には当てはまらない多様な仕事」を、つまり画家のまなざしを浮き彫りにするものであった。それを象徴するように明治29(1896)年の《初冬の雨》と約60年後の《十一月の雨》ではじまる構成は、季節と生活との係りが画家にとって関心を寄せ重要な働きを示していたという裏付けともなり、展示意図が伝わるものであった[図1]。 図1 会場風景右:鏑木清方《初冬の雨》明治29(1896)年左:鏑木清方《十一月の雨》昭和30(1955)年、上原美術館蔵 こうした回顧展は時として記憶に溶け込んでいた物事を呼び起こしてくれるものであり、美術雑誌『藝術』1には以下のような記事が掲載されている。 今回大根河岸の三周氏は、故三遊亭圓朝より譲受けた百物語百幅を、圓朝の菩提寺なる谷中の全生庵に寄附した。その中には菊池容齋、渡邊省亭、松本楓湖、大蘇芳年、柴田是眞などの名手がある。また圓朝と尾上五代目とは親善であった関係から、久保田米仙の小坂部と、鏑木清方の百物語の二幅を、尾上梅幸に贈ることになり、さて一月少々幽霊を持込む話であるから、梅幸にまづ縁起を担ぐや否やと照会すると、そんな事は少しも気にしない、貰へるものなら貰ひたいとあって、物すごい画かママ全生庵と尾上家に納まった。 大根河岸の三周氏は、図録において今西彩子氏がふれているとおり、幕末から明治にかけての噺家・三遊亭円朝を後援した三河屋三周こと藤浦周吉である。円朝は、清方の父・條野採菊との交友、そして清方を挿絵画家への道へと後押ししてくれたことでもよく知られている。譲り受けた百物語百幅と記される幽霊画は、容斎、省亭、楓湖、芳年、是真とあることからも今、全生庵が所蔵する幽霊画・三遊亭円朝コレクションである。この幽霊画コレクションは、円朝自身の交友範囲を中心に形成されたものといわれ、円朝没後の大正11(1922)年12月22日に藤浦家から全生庵に寄贈されたことがわかっている2。続いて記事は、円朝と交流が深かった尾上五代目(五代尾上菊五郎)との関係から尾上梅幸に(ここでいう梅幸は六代目と思われる)米仙の小坂部と清方の百物語の二幅を贈ったという。梅幸の養父にあたる五代尾上菊五郎は、円朝から幽霊画コレクションを借りるといった交流の深さを示すやり取りも遺され(早稲田大学演劇博物館蔵)こうした間柄に起因するものであろう。はたして、記事からは実際に贈られたところまで確実に確認できず、尾上家に実際に収まったのだろうか。 図2 会場風景 撮影:木奥惠三右から2番目:鏑木清方《幽霊》明治39(1906)年、全生庵蔵 円朝の幽霊画は、7回忌を記念した明治39(1906)年に全生庵で展示され、その中から「七怪奇絵葉書」と題され絵葉書が発行されている。記事にいう米仙の小坂部は小坂部姫であろう。絵葉書もそのイメージを彷彿とさせるものである3。同様に清方の百物語は、行灯の明かりに浮かび上がる女性が平伏す様な姿勢で顔をみせず、盃台に載せた茶碗を差し出し、艶麗な雰囲気を醸し出す本展出品の《幽霊》と同定できるだろう[図2]。物語を多く絵画化した清方は本展にも出品される《幽霊図扇面》や「卯月の潤色」を画題とした《朧駕籠》など幽霊をモチーフとした作品をいくつか描いている。清方は円朝とは親身の間柄で円朝の後援者藤浦家とも親しい付き合いであったことを考えると7回忌にちなみ、同家から制作依頼されたということだろうか。時代はややずれるが、清方は明治42(1909)年、柏舎書楼から刊行された泉鏡花による序文にはじまる『怪談会』に話を寄せ、装丁も手掛けている。発行の経緯は不明であるが鏡花に深くかかわる人たちが集まり、明治41(1908)年6月20日発会の「鏡花会」に係る人物が『怪談会』には多いという。そして清方は「鏡花会」に第2回から名を連ね、『怪談会』刊行まで鏡花を中心とする何らかの怪談会が開かれていたとも考えられている4。清方と鏡花との係りは、明治34(1901)年8月以降で、その後、鏡花作品の挿絵や装丁を手掛けていくので怪談譚から幽霊画というつながりも制作を依頼するうえで、乖離はなかったのだろう。 註 『藝術』1巻2号、藝術通信社、大正12(1923)年2月5日 安村敏信「全生庵の幽霊画コレクション」『幽霊名画集』普及版、全生庵、1999年7月1日 「七怪奇絵葉書」は『幽霊画集〈普及版〉全生庵蔵・三遊亭圓朝コレクション』(ぺりかん社、1995年7月10日)に挿図として掲載され確認することができる。 東雅夫「おばけと鏡花と春陽堂」『泉鏡花(怪談会)全集 影印』東雅夫編、春陽堂書店、2020年5月11日 穴倉玉日「“鏡花会”とその周辺」『泉鏡花怪談全集』同前 『現代の眼』637号

漫画と絵画の結びつき

図1 会場風景(中央の青とオレンジの作品が間所紗織《女(B)》)|撮影:大谷一郎 1950年代のなかば、美術評論家として瀧口修造は、漫画と絵画の関係にかんする文章をつづけて執筆している。そこで確認されていたのは、漫画と絵画が「一つ根のもの」1であることだった。芸術ジャンルの区分よりも、その「綜合」へと思いをはせるのは、シュルレアリストとしての態度でもあっただろう2。両者の結びつきをさぐりながら瀧口は、当時の日本の画壇に目立ちはじめていた戯画的・諷刺的な絵画を、「黒い漫画」と名づけるのである。また、絵画との結びつきをわすれようとしているような、ジャーナリズムのなかの漫画を、「白い漫画」として牽制してもいた。 東京国立近代美術館のコレクション展の一部として設けられた、小特集「白い漫画、黒い漫画」は、上記のような考えをしるした瀧口の文章のタイトルにもとづいている。二部屋にわたり、60点以上の作品・資料からなる、充実の特集であった。 最初の部屋には「黒い漫画」と見なすことのできる、(比較的大きなサイズの)諷刺絵画がならぶ。たとえば、山下菊二《植民地工場》(1951年)や井上長三郎《ヴェトナム》(1965年)といった、植民地下・戦時下の人間の戯画が、目にとびこんでくる。描かれているのは、身体の一部が歪められたり、身体に穴があけられたりしている人のすがただ。そのような歪み・欠落の形象によって人間性の危機をしめすのは、広義のアンフォルメルにもつらなる、第二次世界大戦後の美術の世界的な兆候だろう。瀧口は当時の諷刺画の傾向について、「人間が非個性化によって「諷刺」されている」3と述べていたが、それも時代の人間性の危機にかかわる評言にちがいない。 とはいえ、そのように「非個性化」され、人間のすがたからは遠ざかって見える戯画が、類型化をとおしてかえって「キャラ」としての固有性を獲得してしまうことがある。そこにこそ、漫画の逆説的な魅力のひとつがあるのではないだろうか。展示室のなかでは、間所紗織の《女(B)》(1955年)のような作品が、人間性をめぐる危機をおりこんだうえでなお、生命の底ぬけの明るさをしめして力づよかった[図1]。 図2 会場風景|撮影:大谷一郎 「キャラ」が絵画のなかにも生息できるのだとすれば、漫画と絵画の結びつきには、諷刺的な絵画が一時期描かれたという以上のものがあったはずだ。じっさい、特集展示の二室目は、銅版画やリトグラフなどの(比較的小さなサイズの)作品を中心に、この「一つ根」の芸術の結びつきかたを、多様にしめすようだった[図2]。たとえば、石井茂雄《タレント達A》(1960年)は、画面のうちにコマ割りのような構造を導入して、諷刺の物語を持続させている[図3]。ケースのなかに置かれた雑誌や書籍も、この展示室にあってはたんなる参考資料ではなく、真鍋博やタイガー立石などの漫画作品を、絵画につらなるものとして鑑賞させてくれる。さらに言えば、馬場檮男かしお《ゲーム コンバット1》(1971年)のようなリトグラフは、マンガをふくむイメージ文化の環境へと、現代絵画の課題をひろげていくように見える4。 「白い漫画、黒い漫画」はこのようにして、50年代に瀧口に予感された漫画と絵画の結びつきが、日本の現代美術史のなかでどのように展開していったのかを考えさせてくれる。その結びつきの展開は、漫画の原画が美術館に展示されることも珍しくなくなった、現在にまでつらなるものだろう。だからこそ本特集は、ひとつのテーマ展でありながら、近現代美術史のながれをしめすコレクション展の一部にふさわしい、時代の一証言として響いた。 図3 石井茂雄《タレント達A》1960年、東京国立近代美術館蔵 註 瀧口修造「漫画の問題」(1955年)、『コレクション瀧口修造』第10巻、みすず書房、1991年、52頁。そのほかに、つぎのような文章を念頭においている。「イラストレーションの意味と機能をめぐって」(1955年)、「白い漫画、黒い漫画」(1956年)、「現代絵画の諷刺性」(1956年)、「現代絵画と諷刺性」(1956年)。同書、37–45、60–65、67–70頁。 以下の文章を参照している。藤井貞和「精神の革命、いま絶えず綜合の夢 主題小考・瀧口修造」(1974年)、『現代詩読本(新装版) 瀧口修造』思潮社、1985年、182–192頁。 瀧口修造「現代絵画の諷刺性」前掲書、65頁。 馬場檮男の《自分の穴の中で 逼塞2》(1970年)が、(戦後美術の兆候として先述したような)身体にあけられた穴に、ある種の「キャラ」を住まわせていてとくに愛らしかったことも、付記しておきたい。 『現代の眼』637号

鏑木清方、生活を描く

〔…〕私はよく頼まれて美人画というものを描きますけれども、この女人風俗を描くにしても、顔だけを描くんでは面白くないんですがね。昔の明治の小説ではないけれど、〔…〕夏の絵ならば浴衣。藍の香りの立つような浴衣。冬ならばちりめんのしなやかな手触り。そういうものがあるばやいにはね、描く本体の人物よりもその方に興味を感じて描くばやいがかなりありますよ〔…〕。 展覧会場の映像コーナーで聴いた鏑木清方、76歳の肉声である。「藍の香り」や「ちりめんのしなやかな手触り」と語るように、清方は視覚だけでなく嗅覚や触覚をも大切にして絵を描いていた。庶民の暮らしを肌で感じ、日常の生活感情に微細な趣味を示した画家は、清方をおいて他にいないだろう。本展の眼目は、まさにこの点をクローズアップしたところにある。全体を通じて40代から5、60代の完成期の作品を中心に集め、清方のたしかな画力を印象づける展覧会でもあった。そして、清方が制作控帳に記した自己評価をキャプションに記載するなどの試みもユニークである。 清方の制作控帳は『作品おほゑ』2冊、『作品日誌』、『作品控』の4冊が知られている1。画題、材質、制作年月、制作の依頼者、画意・図様等の情報を墨書し、自らの制作活動の備忘録としたもので、期間は大正7(1918)年1月から昭和6(1931)年4月まで。空白期間も一部あるし、全作品を網羅しているわけではないが、『作品日誌』以外の3冊には、〇普通の出来栄え、⦿やや会心の作、◎会心の作の3段階の自己評価が記されており、自作に対する清方の当時の評価などが素直に伝わってくる(本展での表記は☆まあまあ、☆☆やや会心の出来、☆☆☆会心の出来)。 会場風景 中央:《春の夜のうらみ》 大正11(1922)年 新潟県立近代美術館・万代島美術館蔵 試みに『作品おほゑ』2冊と『作品控』を通覧すると作品数485点のうち会心の作は16点と案外少なく、本展では《遊女》《ためさるゝ日(左幅)》《春の夜のうらみ》の3点が出陳された。泉鏡花の小説『通夜物語』の花魁丁山を描いた《遊女》や歌舞伎舞踊『京鹿子娘道成寺』を描いた《春の夜のうらみ》など、小説や芝居が大好きだった清方がそれらを題材とした作品を会心の作に選んでいるのも肯ける。本展東京会場の第2章「物語をえがく」のテーマである。清方が会心の作とした品のなかに半切などの小品が多く含まれていたことも意外だった。卓上芸術に連なる系譜で、こちらは本展第3章「小さくえがく」のテーマでもある。 30年ぶりの公開となった《ためさるゝ日(左幅)》は踏絵をめぐり逡巡する女性の複雑な心情を描いた作品である。会心の作のなかで同時代の金鈴社や帝展などへの出品作に該当するのが本作以外に《遊女》と《春の夜のうらみ》であることに気づくと、この2作は小説や芝居を題材としているが、いずれも描かれた人物の心理や感情の動きまでをも描き切ろうと清方が試み、その手ごたえに満足していたとみることも可能だ。若き日に挿絵の仕事で物語世界に住まうヒロインを生き生きと描いていた清方にとって、自分が描く人物は、本画タブローであっても絵のなかで生活しているかのように、生き生きと描き切れなければ納得がいかなかったのだろう。そして、その延長線上に本展第1章の「生活をえがく」というテーマが繰り広げられている。 昭和初期に清方は「社会画」を提唱し、日雇い労働者の簡易宿泊所で展覧会を開催したりもしていた。そして「社会画」にとって代わるかのように「生活」という言葉が清方の発言や文章に頻繁に登場するのは昭和10(1935)年頃からである。市井の穏やかな暮らしに戦争の暗い影が忍び寄っていることを肌で敏感に感じとっていたことも、清方が「生活をえがく」ことを大切にした事由の一つだったのだろう。それは人々のかけがえのない日常の生活が失われつつあった同時代社会に対する清方流の警鐘でもあったはずである。自分自身の真の生き方、暮らし方をしてそこから自然と人生を見つめたいと清方が内省し始めるのも同じ頃である。 昭和3年から8年にかけて、大礼記念の献上屏風として岩崎家の依頼で清方が制作した《讃春》は左隻に隅田川の水上生活者を描いた異色作である。社会の底辺で逞しく生きる水上生活者の母子のまなざしが今でも私の瞼に焼き付いてはなれない。バケツに咲き匂う一枝の桜を飾り住まいの小舟に彩りを添える母子の姿から伝わってくるのは、普通の生活の大切さであった。ここでいう普通の生活とは、平均的とか退屈とかを意味するのではなく、地に足がつき真摯に現実の生活に向き合う、平凡で本物の人生のことである。清方さんの絵は、生きること、幸せとは何かについて、しずかに、力強く、今を生きる私たちに問いかけてくる。 尚、大規模な回顧展としては45年ぶりの開催となる京都会場では編年順に清方芸術の展開を紹介するという。美人画家のイメージがついてまわる清方が、狭い美人画の領域に安住せず作域を広げようとしていたこと、美術を大衆へ開くための方途を模索していたことなどがよく伝わってきた東京会場でのテーマ別の展示構成との対比が楽しみである。 註 『鏑木清方画集 資料編』(ビジョン企画出版、1998年)所収。尚、控帳の作成時期は、それぞれ大正7年1月から同10年12月、大正11年1月から同14年6月、大正15年1月から昭和4年2月、昭和6年1月から4月まで。 『現代の眼』637号

辻晋堂《詩人(大伴家持試作)》1942年

辻晋堂(1910–81)《詩人(大伴家持試作)》1942年木、着彩/196.0×47.0×41.8 cm/令和3年度寄贈/撮影:大谷一郎  辻晋堂しんどうの名は、陶土を用いた彫刻(陶彫)によって歴史に刻まれています。同時代の前衛陶芸集団・走泥社を触発し、親交の深かった彫刻家の堀内正和とともに、その抽象的造形は戦後美術の一潮流を形成しました。すでに当館が収蔵する辻の2点も抽象的な作品ですが、こちらは木彫の人物像。第29回院展(1942年)で第1賞を受賞した記念碑的作品で、辻の後援者であった大阪の肥料問屋・黒田甚三郎旧蔵品をこのたびご寄贈いただきました。 三十六歌仙の一人として知られる大伴家持は因幡国(現在の鳥取県東部)の国守を務めており、鳥取出身の辻に馴染みがあったのかもしれません。鷹を持たせたのは、家持が特に鷹狩りを好み、鷹を詠んだ歌が知られることを踏まえたものでしょう。万葉集に因む歌人を選んだ背景には時局下の国粋的風潮も関係したに違いありません。前年の1941年、辻は満州開拓移民の像を制作しています。 それにしても、大伴家持という稀なモチーフ、しかも裸体。「思ひも寄らぬ構想」と評した平櫛田中の言葉1が残されていますが、素手に乗せた鷹(危ない)、たまたま腹部に張り付いたような薄布、縦線で表した箒ほうきのような陰毛など、各々の要素はいかにも奇異です。ただし全体の印象としては、体躯がゆるやかなS字を描く、いわゆるコントラポストの古典的なポーズが安定しています。 何より特徴的なのは、全体に残る粗い鑿のみ跡と所々に露出した埋め木や継ぎ目でしょう。堀内正和はこう述べています。 「彼は、よく研いだ鑿で精密に仕上げる正統的院展式木彫に飽き足りず、もっとごつごつした手法で、素朴というより粗野な力のあるものを求め[…]埋め木の継ぎ目がよく見えるようにわざと不細工に仕上げている。[…]作品が木で出来ているその木の感じをそのままむき出しにした方が作品として強い、と考えたからである」2。 1940年を前後する時期、辻は原型に依らずに直接木を彫り出す「直彫」を試みます。「寫す彫刻もあつたつていいだらうが、又一方に表はす彫刻といふものがあつていい」3。本作は辻にとって、主観的な表現主義の試作であったのです。 その「表はす彫刻」の着想の裏には、独創的な木彫で期待されながら1935年に早世した橋本平八からの影響もうかがえます(先に引用した平櫛の評にも「橋本平八の亡き後を受け」とあり、堀内も橋本に強い関心を抱いていました)。貴重な戦中期の彫刻であることも含め、今後の研究が俟たれる作品です。 註 平櫛田中「辻と私」1949年6月18日尾崎信一郎「辻晉堂の仕事—彫刻の彼岸へ」『生誕100年 彫刻家 辻晉堂展』図録(2010年)より引用。 堀内正和「モデル・イメージ・無心」『現代彫刻の異才 辻晉堂展』図録、1983年 辻晉堂「煩と簡」『辻晉堂陶彫作品集』講談社、1978年 『現代の眼』637号

うたい、描き、貼りつけ、詩作して……

図1 会場風景(左から中村彝《エロシェンコ氏の像》、恩地孝四郎作品、奥にハンス・リヒター《色のオーケストレーション》)撮影:大谷一郎 1914年、世界大戦の虐殺にいや気がさして、わたしたちはチューリッヒで芸術に身をささげた。遠くでは大砲の轟音がひびきわたっているとき、わたしたちは体力にまかせてうたい、描き、貼りつけ、詩作していた。わたしたちは時代の狂気から人間を救いだす基本的な芸術、天国と地獄のあいだに均衡を回復する新しい秩序を求めたのだ。 ――ハンス・アルプ 註 新しい戦争の轟音が遠くでひびきわたっているいま、この言葉は胸にもたれるように重く響く。「基本的な芸術」を、私たちは改めて定義し直さなければならないだろう。頭でっかちに、理論を駆使してそうするのではなく、あくまでも、力のかぎり、うたい、描き、貼りつけ、詩作することによって。 「ぽえむの言い分」は、主に1920年代から第二次大戦前までの、詩にまつわる所蔵作品を扱う展示だ。始めに中村彝《エロシェンコ氏の像》がある[図1]。盲目の詩人ヴァシリー・エロシェンコは、エスペランティストとして世界各地を旅し、その普及に貢献した人だ。スイスのチューリッヒでキャバレー・ヴォルテールが構想され、ダダイストたちが戦争を、時代のあらゆる法則を拒否して新しい「基本的な芸術」を打ち立てようとしたのと同じ頃、彼は初来日した。 1880年代にザメンホフがエスペラント語を考案した背景には、彼の暮らすロシア領の街で当時、公共空間でのポーランド語の使用が禁じられていた事実がある。ふだん平和な顔で生きている言葉も、ある日突然に殺されることがある。戦争の世紀の始まりを生きた詩人たちが言葉のユートピアをもとめてエスペラント語を学んだのは、一言語をまるごと巻きこんでしまう憎しみの連鎖に対する抵抗の意思表示だった。 図2 会場風景(左奥のケースに『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』)撮影:大谷一郎 展示室を進んでいくと、萩原朔太郎の代表作『月に吠える』の装画を手がけた恩地孝四郎の鮮やかな木版画に目が留まる。その先には、チューリッヒ・ダダに参加したハンス・リヒターの《色のオーケストレーション》があり、続いて北園克衛が橋本健吉の名で寄稿した実験文芸誌『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』がダダの展開を受け継いでいる[図2]。 「ポエム」という言葉が揶揄の文脈で使われるたびに、私はその根本にある人間の気分を考えてみる。それはしばしばトートロジカルな発言や夢見がちな台詞に対して使われる――それは意味をなさない言葉や役に立たない言葉への揶揄だ。ここで「ポエム」のかわりに、意味をなさず役に立たない芸術を究めようとしたダダの運動を考えてみると、政治を愛し国益を愛する人たちにとって、なるほどそれは揶揄に値するだろう(プーチンどころかゼレンスキー大統領にだって一蹴されるはずだ)。もしも私たちが自らの表現において、芸術に回帰する芸術を、ダダ的なポエジーを目指すなら、「ポエム」の揶揄はむしろ褒め言葉に反転する可能性を秘めているかもしれない――なぜなら本来その一語こそ、言葉のユートピアを精確に指し示しているはずなのだから。 図3 北脇昇《想・行・識》1940年、東京国立近代美術館蔵 目的を持たず、利用価値のある情報や写実的な美を内包するわけでもなく、リズムや音や色や造形を純粋に・・・礼讃し交感=照応させようとした運動と、それに続く駒井哲郎による一連の詩画――自由に戯れる文字と色とかたち――、ロベール・ドローネーやパウル・クレーの描いた色や線による詩の世界。それらを楽しんだ後に見る児玉希望《花下吟詠》と上村松園《新螢》は、私たちの目に異様に映る。さまざまな符号と情報によって、それはどうしても民族的な美の精神の鼓舞に資する・・・ための芸術に見えてしまうからだ。展示室を出るとき、私の心に最も深く居座ったのは北脇昇《想・行・識》[図3]だった。繊細な筆致で写実的に描かれ、時の止まったような静寂を思わせる画面に浮かぶ雲や水の流れは、矛盾する世界の精密な縮図に見えた。 階段を降りて入った次の展示室に佇む《詩人(大伴家持試作)》の立像(辻晋堂)に、心が少し軽くなる。中性的なファッションモデルのようななよやかな立ち姿、鷹を素手にとまらせた古代ギリシャ人のようなその半裸の姿は、万葉集編纂という「国事」に紐付けられたその人でなく、言葉のユートピアに遊び、学び、うたい、詩作する、ひとりの詩人の原型を彫りだしていた。 註 ハンス・リヒター著、針生一郎訳『ダダ――芸術と反芸術』美術出版社、1987年、p.46 『現代の眼』637号

みるものすべてのほんとうの姿はべつなのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです

ゲルハルト・リヒターはその作品の多様性ゆえ、キュレーターが展示に頭を悩ませる作家のひとりである。画業を振り返る回顧展の場合、初期から晩年まで編年により作品を並べるのが一般的だが、リヒターについてはそうしたところで、具象的なイメージと抽象絵画、写真やガラス作品が混在して現れ、そのスタイルに一貫性を見つけることは容易ではない。とらえどころのない作家像に戸惑う人もいるだろう。 しかしそれは、目に見える姿だけに着目しているからにすぎない。リヒターの作品には通底するテーマがあり、彼の関心は終始一貫している。それは、偶然そこに映し出されたイメージ(図像)を表すことであり、そのためのツールのひとつが「写真」だった。初期の〈フォト・ペインティング〉では新聞や雑誌の写真をモティーフとし、後には、自作の絵画を被写体にして写真作品を作り(《ルディ叔父さん》《ビルケナウ(写真ヴァージョン)》)、油彩を施す地の画面としてスナップ写真を用いている(〈オイル・オン・フォト〉)。そして写真にくわえてもうひとつ、1960年代から使い続けているものがある。ガラスや鏡だ。それらは、写真のように固定化した図像ではなく、常に変わりゆく現象としてのイメージを目の前に直接差し出してくれる。作家が何ら手をくわえずとも、だ。 図1 会場風景 左から《グレイの鏡》、《ビルケナウ》撮影:木奥惠三 © Gerhard Richter 2022 (07062022) リヒター自身によって構成された本展の会場は8つのセクションに分かれ、制作時期やスタイルは違えど、各空間で互いに響き合うような組み合わせで作品が展示されているが、実は、ガラスや鏡の作品がきわめて重要な位置に置かれている。まず会場に入って真正面に見えるのが《8枚のガラス》。反射率の高いアンテリオ・ガラスを用いた同作は、正対すると周囲の世界をぼんやりと映し込むだけで沈黙のなかに存在しているようだ。そこでふと左の方に目をやると、隣の部屋の奥に巨大な《グレイの鏡》があり、その鏡面上に連作《ビルケナウ》が垣間見える[図1]。実作に先だって鏡の上の反映を見せるという仕掛けは、リヒターが映し出されたイメージを重視している証左であると同時に、わたしたちが時に実像より虚像に強く惹きつけられるという事実をも明らかにするだろう。《ビルケナウ》の部屋を出てすぐ右手、入口の両脇の壁には《鏡、血のような赤》とドイツ国旗の三色をガラスに施した《黒、赤、金》がかかっている。つまり、《8枚のガラス》とこれら2点は三角形を描くように配置されて、会場に足を踏み入れた鑑賞者を取り囲み、気づかぬうちにその姿を鏡面に映し出すのである。 図2 会場風景 左《1945年2月14日》撮影:木奥惠三 © Gerhard Richter 2022 (07062022) さらに進んで次の部屋では、《鏡》の上に《4900の色彩》と2点の〈グレイ・ペインティング〉が相次いで現れて両者の関係を問う。そしてそこを出ようとすると、先ほどとはがらりと表情を変え、傾いた《8枚のガラス》に周囲の景色の断片が繰り返し映し出されて目を眩ませるだろう。続く、〈フォト・ペインティング〉の小部屋には、爆撃されたケルンの町の航空写真をアンテリオ・ガラス越しに見る《1945年2月14日》が紛れ込み、紙の上に記録された過去とガラス面に映る現在を繋ぐ[図2]。また、《モーターボート(第1ヴァージョン)》と《グレイの縞模様》の間でぼんやりと世界を映す《アンテリオ・ガラス》は、リヒターの作品が写真と絵画、具象と抽象のあわいに存在することを示唆し[図3]、グレイのガラスを額縁に入れて絵画のように見せかけた《鏡、グレイ》は、そばにある《ルディ叔父さん》と《8人の女性見習看護師(写真ヴァージョン)》とともに、絵画、写真、鏡像を含むすべてのイメージが幻影であることを伝えてくれる。 図3 会場風景 左から《モーターボート(第1ヴァージョン)》、《アンテリオ・ガラス》、《グレイの縞模様》撮影:木奥惠三 © Gerhard Richter 2022 (07062022) 最後に登場する《9月》は、2001年9月11日、ニューヨークのワールド・トレード・センターに飛行機が激突した写真をリヒターが絵に描き、それをデジタルプリントにした作品であるが、2枚のガラスに挟まれることで、絵具で掻き消されて奥行きを失ったイメージはさらに薄っぺらな存在となり、瞬時に消え去ってしまうような儚さすらそなえている。そうしてみれば、本展は徹頭徹尾、ガラスと鏡に導かれるように仕組まれていることがわかる。いや、この会場だけでなく、リヒターの制作そのものを導いてきたのがガラスと鏡なのである。 我々がみている現実をあてにはできません。人がみるのは、目というレンズ装置が偶然伝え、そして日常の経験によって訂正された映像だけなのですから。それでは不十分であり、みるものすベてのほんとうの姿はべつなのではないか、と好奇心をもつからこそ、描くのです1。  目に見える世界の不確かさを確かめるように、ガラスと鏡はそこにある。 註 ぺーター・ザーガーによるインタヴュー(1972年)より。『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』清水穣訳、淡交社、2005年、28頁。 『現代の眼』637号

資料紹介 #2|『PLUSONE OFFSIDE』プラスワン、1990–2006年

『PLUSONE OFFSIDE』全40号 本稿でご紹介する『PLUSONE OFFSIDE』(全40号)は1990年から2006年の17年間にわたって発行されたアーティストトークの記録集です。発行元の有限会社プラスワンは、病院や、介護施設、オフイス、ホテルなどに美術作品を納入する傍ら、懇意にしていた作家に声をかけ、プライベートなアーティストトークを行い、趣向を凝らした冊子を作成していました。2021年に、その資料一式が当館に寄贈されました(詳細はリストをご確認ください)。 『PLUSONE OFFSIDE』は、作家ごとに判型が異なり、印刷された紙や折り方も多種多様で、また、封筒や絵はがき、あるいは、作品に使用された素材の一部が付属されている場合もあり、単なる記録にとどまらない個性的な資料です。寄贈者からのお話によると、例えば、「舟越桂」(Vol.4 No.11)では、付属品として同氏のアトリエにあった楠の木片が含まれており、開封時にその香りがするようにと考えられていたそうです。また、「太田三郎」(Vol.5 No.14)の際は、同氏が作品に使用していた椿の切手を貼り、わざわざ群馬県の太田市の郵便局から発送したとのことです。様々なこだわりや仕掛けがなされた『PLUSONE OFFSIDE』、この機会にぜひ注目してみてください。 資料の利用には、事前に申請手続きが必要です。詳しくはこちらをご確認ください。 「舟越桂」『PLUSONE OFFSIDE』Vol.4 No.11(1993年3月30日) 「太田三郎」『PLUSONE OFFSIDE』Vol.5 No.14(1994年1月8日) 巻号発行日アーティスト資料ID備考Vol.1 No.11990年9月20日三木俊治190006764 Vol.1 No.21990年11月30日新郷笙子190006765 Vol.2 No.31991年3月10日小林正和190006766 Vol.2 No.41991年6月15日山中現190006767 Vol.2 No.51991年9月20日森下慶三190006768形状:風船形Vol.2 No.61991年12月20日三浦光雄190006769 Vol.3 No.71992年3月15日堀越千秋190006770形状:円錐Vol.3 No.81992年6月15日中ハシ克シゲ190006771 Vol.3 No.91992年9月15日西村陽平190006772 Vol.4 No.101993年1月8日佐久間美智子190006805 Vol.4 No.111993年3月30日舟越桂190006774付属:楠の木片Vol.4 No.121993年6月30日上野正夫190006775形状:五角形Vol.4 No.131993年9月30日三木俊治190006776 Vol.5 No.141994年1月8日太田三郎190006777付属:絵はがき1枚Vol.5 No.151994年4月15日岩井成昭190006778 Vol.5 No.161994年9月21日坂倉新平190006779付属:坂倉王国訪問の記1枚、絵はがき1枚Vol.6 No.171995年1月10日國安孝昌190006780 Vol.6 No.181995年6月1日小泉俊己190006781 Vol.6 No.191995年10月1日浅井健作190006782 Vol.7 No.201996年3月3日森村泰昌190006783付属:図版1枚Vol.7 No.211996年9月10日小林泰彦190006784形状:三角形Vol.8 No.221997年4月20日辰野登恵子190006785付属:絵はがき1枚Vol.8 No.231997年11月1日小林尚美190006786 Vol.9 No.241998年7月25日山崎豊三190006787 Vol.10 No.251999年2月25日吉澤美香190006788 Vol.10 No.261999年4月23日北山善夫190006789付属:豚皮Vol.11 No.272000年4月1日須田悦弘190006790付属:待庵茶室越し絵図1枚Vol.11 No.282000年10月15日藤本由紀夫190006791付属:絵はがき1枚Vol.12 No.292001年5月15日柳元悦190006792 Vol.12 No.302001年10月2日青木野枝190006793付属:図版2枚Vol.13 No.312002年3月21日八谷和彦190006794乗り物占い有Vol.13 No.322002年10月10日ヤノベケンジ190006806付属:図版1枚Vol.14 No.332003年4月15日押江千衣子190006796 Vol.14 No.342003年10月30日田中信行190006797付属:図版1枚Vol.15 No.352004年5月10日祐成政徳190006798 Vol.15 No.362004年11月1日吉田有紀190006799 Vol.16 No.372005年3月20日西山美なコ190006800付属:奥付1枚、ポケットティッシュ1個Vol.16 No.382005年9月20日栗田宏一190006801形状:筒状Vol.17 No.392006年5月1日三沢厚彦190006802付属:勝手に切り絵コレクション1枚Vol.17 No.402006年11月1日逢坂卓郎190006803付属:絵はがき1枚  『現代の眼』637号

オンラインプログラムの取り組み「夏休み!こども美術館オンライン」

図1 ロベール・ドローネー《リズム 螺旋》、1935年、東京国立近代美術館蔵 鑑賞と表現のプログラム 本稿では8月にオンラインで実施した小学生向け鑑賞ワークショップについて報告する。本プログラムは2013年から毎夏に開催していた恒例のプログラムであるが、参加者との対話を主とする鑑賞プログラムであるため、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から、2020年から2年連続で開催を見送らざるを得なかった。今年も従来通りの再開は難しい状況にあり、そこで中止を回避する手立てとして、対面プログラムをオンラインに変えた。これまでオンライン会議システムZoomを活用した同時双方向の鑑賞プログラムの実績はあるものの、創作を伴うプログラムをオンラインで実施するのは、当館としても新たな試みであった。 2022年8月20日、21日、同じ内容で1日に2回開催。事前申込制で参加者を募り、59名が参加した。プログラムの大枠は以下の通りである。 プログラムの流れ[全90分]・あいさつ[2分]・二作品の対話鑑賞[50分]・創作[25分]・創作した作品の発表[10分]・まとめ[3分] 本プログラムの目的は、参加者に作品鑑賞と表現(創作)の両面から所蔵作品にアプローチしてもらうことである。鑑賞が作ることの動機となり、作る経験が鑑賞の理解や共感に繋がることを大切にしたものである。今回のテーマは「色と形のリズムを楽しもう!」とし、参加者はまずロベール・ドローネー《リズム 螺旋》[図1]を含む二作品を対話しながら鑑賞する。次に《リズム 螺旋》の鑑賞と関連付けて、図2のような、自分なりの色や形で画面を構成するカード仕立ての作品を創作した。オンラインプログラムのため、創作に用いる材料は、事前に参加者の自宅に送付し[図3]、ハサミや糊といった用具類は各家庭で用意してもらった。 図2 創作物の例 図3 送付したキット(創作材料、絵本と作品の紹介冊子) 図4 創作の様子 送付物にこめた想い 参加者がプログラム終了後も鑑賞した作品を思い出すきっかけとなるよう、鑑賞作品を印刷したものと、テーマの色や形、動きといった要素から選んだ絵本を紹介するシートも送付した。紹介した絵本は、当館アートライブラリで閲覧できるものをライブラリ研究員に選定してもらったが、当館に来館しなくても、近隣の図書館所蔵の絵本を通してテーマの継続した学びが続く可能性をシートにこめた。 また、今回は創作物を日常のわずかなスペースに添えられるカード仕立てのものにした。コロナ禍により自宅で過ごす時間が増えていることもあり、身近に置くことができる創作物によってプログラム体験を振り返るきっかけとなることを期待した。プログラムの「発表」では、完成したカードをどこに飾りたいかという問いに対し、自分の机やリビングに飾るといった声だけでなく、プログラム終了後に両親と飾る場所を考えるといった声もあり、そこには、プログラムを介してうまれる親子間のコミュニケーションが示唆されていた。 オンラインプログラムの「はがゆさ」がもたらすもの オンラインでの実施により、首都圏にとどまらず、これまで遠方のため当館に来館しづらかった人にもプログラムを届けることができたのは成果の一つといえるであろう。また、コロナ禍で美術館に足が遠のいていたからこそ、自宅で鑑賞体験ができたと喜ぶ声もあった。オンラインでの鑑賞は、作品を前にしての鑑賞とは異なり、作品のサイズを捉えにくい。そこで作品が展示されている様子を予め撮影した写真をパソコン越しで共有した。作品が想像以上に大きかったという感想や、美術館で展示されている作品であることが理解できたといった声も聞かれたが、オンラインゆえの「はがゆさ」はある。参加者の事後アンケート結果には、美術館を訪れ、今回鑑賞した作品を実際に見たいといった声が多く寄せられた。美術館訪問の動機付けに繋がっているものは、プログラムでの充足感だけでなく、その「はがゆさ」に由来するものなのかもしれない。 今後のプログラムのあり方 本プログラムは2年休止していたにもかかわらず、再開を待ち望んでいたという声が申し込み時に寄せられ、館の夏の定番プログラムとして根付いていることを確認できた。今夏は中止することなくオンラインで実施できたのは、本プログラムに先駆けて実施した未就学児を対象としたオンラインプログラムにより蓄積したノウハウや、美術館職員のICT経験、さらには本プログラムの「鑑賞」と「発表」のパートを担当したガイドスタッフ(解説ボランティア)による双方向のコミュニケーションを円滑にとるオンライン対話鑑賞の経験があったこととも深く関係している。 本プログラムが、従来の展示室で実施してきた対面プログラムの代替としてではなく、今後もより多くの人に新たな学びの機会の一つとして機能していくのかが課題であろう。  『現代の眼』637号

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