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絵画の理由──ピーター・ドイグ展に寄せて
西欧美術の歴史を振り返れば、絵画という表現形式の可能性はすでに汲み尽くされたと感じられるのも無理はないだろう。1970年代以降ヴィデオやパフォーマンスをはじめ多様な表現媒体が登場し、旧来の作り手や美術のあり方自体が問い直された。確かに80年代、90年代において、こうした状況に対する一種の反動として「絵画の復権」と呼ばれる動きが内外で見られた一方で、90年代以降、もはや「もの」としての作品を介すのではなく、行為を通して観客との関係性を生み出し、社会的に関わるアートのあり方が、ますます不安定さを増す世界の状況の中で注目されてゆく。 こうした中、ピーター・ドイグの日本で最初の充実した展覧会が東京国立近代美術館で開かれた。ここで見るドイグの作品は、これまで絵画の歴史において積み重ねられてきた多様な可能性を捉え直しながら、今なぜ絵画でなければならないのか、という問いかけを正面から受け止めようとしているように思われる。 セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン 、ボナール、マティス、ムンク、ベーコン、ニューマン等々、過去の絵画の多様な要素の参照は、本展の非常に充実したカタログでも適切に言及されている。会場を見渡せば、例えば《夜のスタジオ(スタジオフィルムとラケット・クラブ)》(2015年)の塗り重ねられた床の赤の下層から覗く色彩の線はマティスの《赤いアトリエ》(1911年)[image] を想起させ、《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》(2015年)の半ばかき消されたような人物は同じマティスの《カスバの門》(1912–13年)を思わせる。しかしそれらは大文字の「様式」の語りからしばしばこぼれ落ちてきた絵画の要素であり、主題や様式の観点から語られる絵画史において十分に意識化されてこなかった可能性を、改めて具体化する試みであるとも言える。 会場風景(左は《夜のスタジオ(スタジオフィルムとラケット・クラブ)》)│撮影:木奥惠三 別の意味でもドイグは絵画の歴史を喚起する。トリニダードを描くドイグをゴーギャンに重ね合わせることは、植民地主義の歴史とそれに伴う眼差しの問題を問うことと不可分である。《赤いボート(想像の少年たち)》(2004年)で、エキゾティックな南国の風景に浮かぶ船の中の少年たちは、一様に褐色の肌をして、背中を丸め、こちらを見る眼差しも定かではない。その弱々しく所在無げな姿は、ゴーギャンがタヒチの若い男性たちを、男性的な活力を感じさせない、いわば女性化した姿で描いたことを想起させる。しかしまた一方で《ペリカン(スタッグ)》(2003年)において、トリニダードで見たペリカンを殺す男を、ロンドンで見つけた、トリニダードにかつて移民として来ていた南インドの漁師の絵葉書を元に描いたとするなら、暴力的な行為の主体は植民地の労働者であり、タイトルのビール「スタッグ」のマッチョなイメージと結びつくと同時に、画面中央の青白い絵具/光に照らされたその相貌は「白く」見える。ドイグにしばしば見られる、一つのポーズをいくつかの作品で反復すること自体ゴーギャンのやり方を想起させるが、象徴的な言語とみなされるゴーギャンのポーズに対して、ドイグの人物の身振りはしばしばその作品の中で特定の意味を失っていわば情念定型パトスフォルメルとして継承される。そこには確かに植民地をめぐる歴史の意識があると同時に、複数の地域の人々や肌の色、時代のイメージは錯綜しながら変容し、多様な意味に開かれてドイグの絵画に内包される。 トリニダードにおけるマチエールの変化は、それまでの彼の作品よりも絵画の物質としての厚みを感じさせないが、そのマチエールは薄塗りであるかどうかに関わらず複雑で重層的であり、やはり彼の絵画の核をなしている。 ドイグの絵画は写真や既存のイメージを含めどちらかと言えば平凡な現実のイメージを元に、制作のプロセスの中で複雑なマチエール=物質性を紡ぎ出しながらそこに変容をもたらし、現実と夢や記憶、具象と抽象の境界を揺るがして、見る者それぞれに様々な物語や意味を喚起する。それは極めて個人的な行為でありながら、社会や時代、歴史とつながる具体的なイメージに突き動かされることで今を生きる現実に開かれている。その画面は、レッシングを借りて言えば、語りの時間を意味深い永遠の一瞬に凝縮する「ラオコオン」が体現する絵画のあり方を実現すると言えるかもしれない。しかしそれは一つの物語的な表現を担う絵画の回帰ではなく、あるいはまた、映像や文学の逸話性から自律するグリーンバーグの言うモダニズムのラオコオンでもない。それはいわば、イメージから喚起されるいくつもの多義的な語りや意味や記憶を、制作のプロセスが展開される時間性を通じて非言語的な物質=マチエールへと織り合わせて見る者の多様な眼差しへと開く、いっそう新たなるラオコオンとしての絵画である。 そして、そのようなあり方を通して、ドイグは今もなお、絵画の魅力と可能性を切り開き続けることができると示している。 『現代の眼』635号
画面の手前で
画家が自らの偏愛する画家について語るとき、話題の対象となる画家について以上に、必ずしも意図したわけでもなく、自分の制作についての思考を開示してしまうことは頻繁に起こりうることだ。たとえば、2006年にパリ市立近代美術館で開催されたボナール展のカタログに収録されたハンス・オブリストによるインタヴューで、ピーター・ドイグもまた、ピエール・ボナールについて語るとき、ほとんど自らの制作の場面で展開する思考を暗黙のうちに示しているかのようだ。この短くも充実したインタヴューで、実際、冒頭からドイグはボナールの作品がたえず自分の発想の源泉となっていること、また自分が彼の影響下にあることを認めたうえで、「自分自身の作品について考えるとき、私はしばしばボナールの作品を見ます」と語っている。いまなお、美術史の記述の体系のなかに位置づけがたく、それゆえに、批評的な抗争の場で毀誉褒貶とともに奇妙な役割を背負わされることが多いにもかかわらず、その作品の射程を正確に踏査されたわけでもないながら、自分の作品が西暦2000年の若い画家たちに届くことを夢見ていたボナールにとって、この率直な告白はささやかであるにしても明確な礼讃でありえているはずだ。 ピエール・ボナール《南フランスのテラス》1925年頃、油彩・キャンバス、68.5×73cm、グレナ財団蔵 ここで、ごく簡潔にドイグがボナールの作品に注目した点を列挙すれば、扇情的な主題を扱わず、自らの生にとって身近な主題を扱うこと、技量をこれ見よがしに誇示しないこと、ある種の開放性を備え、完成/未完成の判断が困難であること、事前の計画なしに断片的に画布に介入することによって、時間の経過を積層化し、現在の知覚と記憶の領域とを同時に組み込む点などをあげることができる。そして、この開放性のために、観者は画面に巻き込まれるように参加することを強いられる点を指摘している1。この点で、ボナールの作品に関していえば、その画面の一貫した構成原理は、画布の奥に展開する空間の創設以上に、画布の手前の空間、つまり、画布と観者との間の空間をいかに組織するかという点に集約されるが、ドイグもまた、この同じ手前の空間の編成を異なった仕組みで遂行しているとはいえないだろうか2。 ごく端的にいえば、ドイグの場合、それは、マネならびにそれ以後の絵画に顕在化するように、画面の前景を遮蔽する仕組みである。たとえば、初期の《ロードハウス》(1991年)に顕著なように、水面、陸地、空という3つの領域に画面が分割される構成の作品においてさえ、この3つの領域は画面の奥へと視線を誘導することなく、3つの立ち上がった領域の様相のもとに視線を画面に留めさせる、つまり、視線を遮蔽する一種の壁として立ち上がる。また、《オーリンMKIV Part 2》(1995–96年)のように広大な空の領域を備えながらも、こちら側に向かってジャンプする人物の存在によって、空の空間も同時に手前側に引き寄せられる印象を与え、その結果として中景にいたる道を暗示する緑色の色帯も奥に進む以上に立ち上がって見えてくるだろう。このような前景へと視線を誘導する要素の存在は頻出するが、《ピンポン》(2006–08年)にいたると、遮蔽物それ自体の表示が際立つことになる。そして、《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》(2015年)の場合も、単に建築物のみならず、左端の灯台へと向かう道もほとんど直立する様相を呈してはいないだろうか。 会場風景(左は《スキージャケット》)│撮影:木奥惠三 ところで、この手前の空間の組織化という点と同時に、知覚作用における遅さの組織化という点でもドイグはボナールと課題を共有しているが、後者が周縁視的な領域の活用と抽象的な領域の拡張によってこの課題を遂行するとすれば、ドイグの場合、物質的な次元での小さな細部と縮小化された構成要素(たとえば、《スキージャケット》(1994年)の無数の人々など)との分散性に依拠している。ときに知覚の識閾下の要素の分散性が画面の統合的な知覚を凌駕するかのようであり、この点で、出発点にある写真画像は大きく変形されることになる3。この作用への明晰な注目を、本展カタログに収録された「ピーター・ドイグ―20の質問」でのローラ・オーウェンスの発言に見いだすことができるだろう。自作が成功したと感じるのは、出発点にあるイメージを絵具による介入によって崩壊させる(disintegrate)ままにしておくときになのか、それとも「自覚的に保存しようとする感情的な質ないし物語的なもの」を体現できたときになのかというこの二者択一的な問いにドイグは正面から回答することを回避しているが、オーウェンスの期待する答えはおそらく前者であるだろう。そして、最後に、「抽象的なものは出発点である」というボナールのメモの一節を引用しておこう。それが何であれ、この出発点を長い制作の過程で脱統合化(disintegration)していく作業こそが、シンコペーション化された時間という新たな知覚経験の領域を開示していくことになるだろう。 註 紙面の関係で今回は展開する余裕はないが、ドイグは指示的な情報なしに、その人物に関して知りたいことのすべてを知ることができる点をボナールに見出し、このような性質を自らの作品においても実現したいと述べている。また、ボナールの作品を見続けると胸が張り裂けそうなメランコリーを感じるとも指摘している。 この点に関しては、筆者の「さあ、過飽和なテーブルにどうぞ!」(『ピエール・ボナール展』図録、国立新美術館、2018年)を参照していただきたい。 『アンフォルム』(1997年)の「非常に遅い(Very Slow)」という項目で、イヴ=アラン・ボワは、極端な遅さがフロイト的な〈不気味なもの〉を喚起する点を指摘している。 『現代の眼』635号
錯綜と連想──ピクチャレスクから見たドイグ
《若い豆農家》(1991年)の枝葉と柵、《コンクリート・キャビンⅡ》(1992年)の木立、《スキージャケット》(1994年)の雪。ピーター・ドイグの絵を初めて見たとき私を魅了したのは、何の変哲もない事象が画面手前で大胆に繰り広げられることで顕在化する近代絵画の両義性──自己の内面世界と絵画の物質性──だった。ところが、本展で近作から感じられたのは、自在な筆致にもまして、ロマン主義に先行する美的範疇「ピクチャレスク」との親和性である。 ピクチャレスクな風景式庭園Thomas Hearne, A Picturesque Landscape Garden, from Richard Payne Knight, The Landscape (London, 1795). 一般的に「絵画のような」と訳される「ピクチャレスク」は元々、動的なスケッチ風の描写に相応しい対象の性質を示す用語だった1。最初の実践者ウィリアム・ギルピン(1724–1804年)がピクチャレスクの主要因と見なしたゴツゴツした岩や角張った牛に備わる「粗さ」は、その典型である2。一方、理論派の郷紳ユーヴデイル・プライス(1747–1829年)は、ピクチャレスクな快の源泉の一つに「錯綜」を挙げる。錯綜とは「 部、 分、 的、 か、 つ、 不、 明、 瞭、 な、 隠、 匿、 に、 よ、 っ、 て、 好、 奇、 心、 を、 興、 奮、 さ、 せ、 助、 長、 す、 る、 、、 物、 体、 の、 配、 置、 」を表し、「突然の隆起や、不意の砕けた様式で互いに交差する線」に起因する3。こうしてピクチャレスクの焦点は、個別の対象から諸対象の関係性へシフトした。 プライス家の地所「フォクスレー」の風景Thomas Gainsborough, Beech Trees at Foxley, Herefordshire, with Yazor Church in the Distance, 1760. Whitworth Art Gallery, The University of Manchester 平凡なモチーフを凝視に価する対象へと変えたドイグの初期作品に認められる効果は、この錯綜と類似する。しかし、ドイグとピクチャレスクとの関係は、表面的な視覚効果にとどまらず、彼が関心を抱く「知覚のプロセス」にも見出される4。ここで重要なのは感覚と知覚の差異だ。プライスの隣人にして 好事家ディレッタント のリチャード・ペイン・ナイト(1751–1824年)は、「知覚は精神の作用である。それに反して、感覚は感官への印象である」と述べ、イギリス経験論から発した観念連合主義をピクチャレスクへ適用した5。美的判断は、客体のもたらす普遍的な感覚ではなく、主体の感情や記憶を含めた知覚に基づくと考えたからである。絵画が「ある光景の生々しさと頭のなかのなにかとのあいだにあるイメージをどうにかして描こうとする仕方で現れる」というドイグ自身の発言は、まさしくナイトの見方と一致する6。 この点に関連して、美術批評家ロザリンド・クラウスは、ジョンソン辞典増補版(1801年)が掲げるピクチャレスクの定義の一つ「 特異点シンギュラリティ 」に注目し、19世紀初頭までは特異なもの(=オリジナル)と公式的・反復的なもの(=コピー)が相補関係にあったと指摘する。風景の特異性とは、ある土地の静的・不変的な特徴ではなく、「あらゆる瞬間に風景が浮かび上がらせるイメージと、それらの光景ピクチュアが〔主体の〕想像力の中に記入される仕方の函数なのである」7。ピクチャレスクという美的快の根底には常に、複数性と単一性や、制作と享受とのあいだの揺らぎ、すなわち連想がある。ドイグの場合、その連想は、しばしば現実風景から複製媒体へ、複製媒体から絵画へ、絵画から観者へと、三重にも増幅されている。 会場風景(右は《馬と騎手》)│撮影:木奥惠三 要するに、ピクチャレスクは特権階級だけが発見できる対象の性質や配置ではなく、どんな「見る」主体にも存する。なるほどピクチャレスクが前提とする「絵画ピクチュア」は上流階級的な教養に規定されていたが、ドイグが扱う「画像イメージ」は明確な規範を持たない。彼の絵画においては、誰もが知る名画も、グローバルに流通する広告も、近所で撮られたスナップも、現代の視覚文化よろしく並列関係にある。ただし、そこでは種々の画像が一つに統合されているため、観者は媒体の形式や画像の情報に囚われず、見る行為そのものと向き合うように促される。ドイグは、現代美術界を賑わす思弁的実在論などおかまいなしに、知覚する人間を徹底的に探究しているのだ。こうして絵画は、私たちの無数の観念に連なって半永久的に新しい物語を紡ぎ続ける。 註 Richard Payne Knight, An Analytical Inquiry into the Principles of Taste, 2nd ed. (London: Payne, 1805), pp. 148–150. William Gilpin, Three Essays: on Picturesque Beauty; on Picturesque Travel; and on Sketching Landscape: to which is Added a Poem, on Landscape Painting, 2nd ed. (London: Blamire, 1794), pp. 6, 16–20. Uvedale Price, An Essay on the Picturesque, as Compared with the Sublime and the Beautiful; and, on the Use of Studying Pictures, for the Purpose of Improving Real Landscape, New ed. (London: J. Robson, 1796), pp. 26, 60–61. リチャード・シフ(吉田侑李、桝田倫広訳)「漂流」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、176–177頁。 Richard Payne Knight, The Landscape, A Didactic Poem. In Three Books. Addressed to Uvedale Price, Esq., 2nd ed. (London: G. Nicol, 1795), p. 19. マシュー・ヒッグス(桝田倫広、吉村真訳)「ピーター・ドイグ──20の質問(2001年)」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、209頁。 Rosalind E. Krauss, The Originality of the Avant-Garde and Other Modernist Myths (Cambridge: The MIT Press, 1985), p. 164.〔ロザリンド・E・クラウス(小西信之訳)「アヴァンギャルドのオリジナリティ」、『オリジナリティと反復』、リブロポート、1994年、132頁〕 『現代の眼』635号
レンズの秩序と絵具の論理のはざまで
ピーター・ドイグの作品はきわめて映像的であると同時に絵画的でもある。これは多くの論者によってすでに指摘されていることだ。だが、作家本人は以下のように語っている。 人はよくわたしの絵を見て映画の特定のシーンや本のある一節を思い出すと言いますが、わたしはそれらとは完全に異なるものだと考えています。(中略)自分自身の絵について言えば(中略)それは不可避的に物質性と関わっています。それらはまったくもって非言語的なのです1。 このドイグの見解は、時間芸術と空間芸術の対比によって諸芸術の特性を明確化しようとする18世紀ドイツの文筆家レッシングのアプローチの延長線上にある。西洋では伝統的に「絵は黙せる詩、詩は語る絵」という芸術観が信奉されてきた。美術と文学は互いによく似た姉妹のような芸術だというのである。それもあって、西洋では長らく物語の1シーンを描く物語画こそがもっとも権威ある絵画ジャンルであるとされてきた。ところが、レッシングは『ラオコーン』(1766年)の中で、視覚芸術は何らかの静止した物体を空間に設置する空間芸術であり、文学や舞台など作品自体に時間の流れが必要な時間芸術とは明確に区別されるべきだと論じたのである。たとえ鑑賞者が画面の中のイメージに何らかの物語を感じ取ったとしても、絵画は静止した物体でしかない。ドイグの発言はこの点に自覚的である。 このインタビューの中で、ドイグは自作を物語画の一種には位置づけておらず、むしろ非言語的な物質性とイメージの関連性を押し出している。しかし、それでも私たちは彼の作品から映画的な要素を見いだしてしまう。それが物語や言語ではないというのなら、彼の作品のどこが映画的なのだろうか。 会場風景(中央は《花の家(そこで会いましょう)》)│撮影:木奥惠三 それは遠近法である。たとえば《花の家(そこで会いましょう)》のフラットな構成は、望遠レンズで撮影された映像に見られる圧縮効果(離れている被写体同士の距離が縮んで見える現象)に酷似している。また、ブロック塀とレンガまたはタイルの壁を抽象化したと思われる長方形のモティーフは、中望遠〜望遠域のレンズでそれらの対象を撮影することで得られる幾何学的な形態によく似ている。たとえば、ドイグとチェ・ラヴレスが主催する映画上映会「スタジオフィルムクラブ」の告知用ドローイング群の中に見られる小津安二郎の「東京物語」は、中望遠域のレンズを用いて戦後の日本家屋が持つ水平垂直の形態を幾何学的に構成した画面で有名だ。小津の場合、画面を構成する長方形のモティーフは障子やガラス戸だが、ドイグの場合はそれがレンガやブロックになるのである。 中望遠以上のレンズを使うので、対象と距離を取らなければ、このような映像は撮影できない。同様に、鑑賞者が絵から離れなければ、ドイグが言うところの「物質」つまり絵具が具象的なイメージに見えることもない。絵画では、物理的な絵具の層とイメージ上の奥行きの反転がしばしば起きる。たとえば、下地に近い層に塗られた絵具がもっとも手前にあるように見え、逆に厚く盛られた絵具の頂点が奥まって見えることがある。現代絵画ではこのような逆転現象を意図的に操作することが多い。そしてドイグの絵画は、空間を切り取るカメラの位置と鑑賞者の位置がちょうど対応しているように感じさせるのだ。 レンズの秩序に絵具の論理を合流させること。これこそがドイグの絵画が持つ空間性の特徴に他ならない。 註 マシュー・ヒッグス(桝田倫広、吉村真訳)「ピーター・ドイグ──20の質問(2001年)」『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、207頁。 『現代の眼』635号
東独具象絵画とドイグ
会場風景│撮影:木奥惠三 本稿執筆にあたり、企画者から示されたテーマは「戦後東ドイツの具象画家たちとドイグとの比較」である。ドイグと同時代を並走する画家としてまず思いあたるのは、ネオ・ラオホ(1960年–)であろうか。2000年代半ばに国際的な注目を集めた「新ライプツィヒ派」と呼ばれる具象絵画の一群を代表する画家である。 ラオホの絵画は謎めいている。視覚的には多くの手がかりを与えてくれるにもかかわらず、それがひとつの答えに結実しない。思わせぶりな身振りとは裏腹に無表情の人物、特定の職業に結びつく衣装、自国の絵画的伝統に連なる風景、そして明らかに象徴的な関連性を持つオブジェ。ラオホはこれらの要素を画面の中で積み上げていくが、それらがパズルのピースのように噛み合い、特定の主題が浮上することはない。 私は絵の中心につながるような痕跡を置くことができますが、そこにたどり着くと、それが拡散して別の枝に入っていくのがわかります。私はナンセンスな絵を描かないようにしているし、一方で、ある種の批判的な意図を持って、物語性のある絵を描かないようにしています1。 ラオホが自作を語ることばと、写真や映画などイメージの出所は詳らかにされているにもかかわらず、完成した絵画にはそれぞれの文脈が重層的に腹蔵され単一の意味に収斂することのないドイグの作品とは、どこか響き合う。 旧東ドイツの政権は、社会主義リアリズム、すなわち理想の社会像を描く啓蒙的な写実絵画を自国の画家たちに強制したが、その制約下においても、表現主義や新即物主義といった戦前のアヴァンギャルドの様式を引き継ぎつつ、イデオロギー的戒律を逃れた新しい具象表現をめざす取り組みがなされた。ライプツィヒのアカデミーで絵画教育の規範となっていたのは、マックス・ベックマン、ローヴィス・コリント、オットー・ディックスらの作品であったとラオホは回想している。なかでも彼はベックマンに対する共感をたびたび口にするが、それは、寓意的に描きながら象徴的なメッセージを曖昧なまま提示する方法においてである。ラオホが重視するのは、ベックマンが「絵を部分的に他の人に説明してもらい、絵画的な宇宙の迷宮の中に他の人を送り込むことに大きな喜びを感じていた」という点なのであり、それがラオホ自身の安易な解釈を許さない画面へとつながっている2。 このことは、80年代のニュー・ペインティングにおいて影響源のひとつとなった国際的なベックマン受容と呼応しているかに見えて、実際にはそれとは異なる回路を通じてベックマンが参照されてきたことを示唆するように思われる。国外の同時代的動向から切り離され、あるいはそれを知り得たとしても反応することが憚られた旧東ドイツの特殊な状況下において、ベックマンは長く具象絵画の規範であり続け、そこでは独自の受容史が編まれていたはずだ。ラオホの複雑な絵画はその遺産の自覚的継承の先にある。 80年代にベックマンの影響を受けたことにたびたび言及するドイグが、こうした分裂的な受容の様相をどれだけ意識していたかは寡聞にして知らない。しかし、ロンドンに絵画の復権を知らしめた「絵画における新しい精神(A New Spirit in Painting)」展でペンクやバゼリッツら東ドイツから西側に移った画家の作品が展示され、翌82年からは東ドイツの絵画を初めてまとまった形で紹介した「時代の比較(Zeitvergleich)」展が西ドイツ6都市を巡回するなど、鉄のカーテンの向こうで異なる具象絵画の系譜が展開していたことを、ドイグは知り得たはずである。 マックス・ベックマン《男と女》1932年、油彩・キャンバス、175×120cm、個人蔵 このことが、ロンドンを離れカナダに戻ったドイグが彼の地の近代絵画に目を向けたことに、些かなりとも関係してはいないか。絵画において「すべてが有効、あるいは有効かもしれない」3と思わせられる状況のもとで、敢えてカナダ以外ではほとんど知られていなかった造形イディオムを自作に導入したこと。その選択の背景に、それまで不可視だった具象絵画の系統と展開を目撃した衝撃を見出そうとするのは、はたして考えすぎだろうか。 註 “Neo Rauch’s Creature Discomforts,” ELEPHANT Issue 30 [Spring 2017], p.136 “Holger Broeker im Gespräch mit Rauch im Goethe-Institut Prag, 10. Mai 2007” eigen-art.com/files/nr-gespraechprg.pdf 「ピーター・ドイグ パリナ・モガダッシによる対談(2011年)」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、195頁。 『現代の眼』635号
内なるスタジオ
ピーター・ドイグを語るのは容易ではない。例えば《エコー湖》(1998年)では引用元である映画「13日の金曜日」の他にデビット・ミルン、ニューマン、ボナール、ムンクなど言及すべき参照項が無数にあることに戸惑うだろう。さらにドイグの作品は時期によって絵画様式が異なる上に、作品が別の作家の作品と過度にネットワークを結んでいるため画家の全体像を捉えるのが難しい。もちろん、先行する美術作品や映画をはじめとする視覚文化のリソースに依拠しない作家など存在しない。ドイグの作品は一見、オーガニックで絵画を描く喜びに満ちているように見える。しかし、いわゆる天性の才能や絵画制作における表現主義的な意味での即興性と決断力によって作品が作られているとは言い難い。優れた画家であることは間違いないが、彼は自身の凡庸さ、平凡さと向き合い、人一倍葛藤し続けてきた画家なのではないか。このことがドイグを語ることを難しくしていると言えないだろうか。 会場風景│撮影:木奥惠三 どういうことか。ドイグ作品の構造だけを抜き出せば、つぎはぎだらけのモンタージュのようだと言える。ドイグ作品に登場するモチーフの形態は家であれ、人物であれ全てがぎこちなく、スナップ写真や絵葉書や映画のワンシーンなどの元ネタに準拠しているし、作例によってはまるで転写したように元ネタの形態とフォルムが一緒である。ドローイングを経由させることで多少、デフォルメを加えることはあるものの、ドイグ作品に登場するモチーフには伝統的な画家のような卓越したデッサンによる肉付けや、キュビスムのようなひとつの形式に基づいた還元は見られない。わたしはドイグのスタジオを覗いたことがないが、ドイグ作品にはあたかもプロジェクターでキャンバスに投影したイメージを筆でなぞったり、型紙を使って描いたりしたような形が散見される。あるいは、それらのアウトラインに拘束されながらも、わざと稚拙な形に歪めたりもしている。キャンバス上で「正解の形」に至るまで何度も修正したような痕跡は見受けられず、試行錯誤の痕跡があったとしても、それはわざと「マーキング」のように残されているに過ぎない。そもそもドイグにとっての「正解」は、どんなにドイグが様々な絵画様式を取り入れていようとも、近代の画家たちとは根本的に異なる。例えば再現性のある描画パートとニューマンの「ジップ」に由来する水平の帯のパートの界面は、通常であれば齟齬をきたすだろう。ドイグの作品の中では本来であれば無関係であるはずのものたちが唐突に出会う。にもかかわらず、ちぐはぐな印象を受けない。またドイグは描くことによって得られる手応えを常に疑っているように思える。確かな参照元があるからこそ描画の結果を逆算し、絵具の物質性をよく吟味し、各パートの表面の質感や肌理を徹底的に編集し尽くすことを可能にしている。例えばそれは白の絵具の使い方からも明らかだろう。上層の絵具のベースを担う、噴霧される、キャンバスの目に染み入るように滴る、厚ぼったく斑状に塗るなど、絵具の白をたんに「色」ではなく物質として捉えているのだ。ドイグ作品における肌理はイメージ以上に多様であり、美術に限らないあらゆる視覚文化の蓄積と経験の厚みを感じずにはいられない。つまりドイグはどんなに凡庸な構図でも、キメラのようにちぐはぐなモンタージュでも、絵画らしいフレーバーをたっぷりと付与することで「ひとつのピクチュア」として統合してしまう。ドイグは絵画の世界にどっぷりと浸かっていると同時に、絵画が成立するための諸条件をかなり突き放した地点から捉えている。絵画に没入する自分とそれを俯瞰するメタ視点が絡み合っている。 ところで、90年代初めのあまりにも見どころの多い画面に比べると近作はあっさりして見えるかもしれないが、物質感の差異を小さくすることで一見ノーマルな絵画に見せかけることに成功している。それはドイグの絵画を見るまなざしの精度がより高まっていることを意味する。初期作品のような圧倒的な手数と情報量、そして過剰とも言える絵具づかいといった特徴は見られなくなったが、近作は初期作品と同等かそれ以上の解像度を有している。ドイグをドイグたらしめているのは天然の描く才能ではなく、常に冷静に自身の持ち物と外部からのデータベースとを調合し、「絵心」自体をカスタマイズできる「内なるスタジオ」なのだ。抽象的な言い方になるが、ドイグの絵画群は、今も生成中の大きな「スタジオ」の絵の中の画中画たちを自在に切り分けたものだと思える。だからこそ、それらはキャンバスの矩形に規定されないし、複数の絵画が一枚の絵をシェアするようなドイグの絵画世界を可能にしているのだ。 『現代の眼』635号
「裏」からピーター・ドイグの絵画を見ること
はじめに:作品の「裏」 目の前の作品は、一体いかに描かれたのか。どのような道のりを経て、私たちの元へ辿りついたのか。どんな方法で作品は固定されているのか。過去に行われた修復はいかなるものだったのか──作品の「裏」は、いつも興味深い。保存修復に携わる人間は、熱心に「裏」を見ることがある。そこには、「表」を見るだけでは知り得ない情報が満ちている。 ピーター・ドイグ展に出展されるいくつかの作品を米国から運ぶにあたり、現地で作品点検を行い、梱包に立ち会って、作品と共に貨物便で日本へ飛んだのは、2020年2月のことであった。まだ肌寒いニューヨークで、ギャラリーに置かれたドイグ作品を目の前にし、ぐるりと後ろに回り込んで点検をする。これほど間近にドイグ作品を見ることは、裏からはもちろん、表からも初めての経験であった。 彼の作品群を点検した際に抱いた第一印象は、作品の保存状態が安定しており堅牢であること、そして、制作後に第三者が何らかの処置を行った形跡が──換言すれば、修復の痕跡がないことであった。 ほぼすべての作品の状態が良好である理由には、当然、制作からそれほど長い時間が経過していないこと、そして、ギャラリーにおける保管状況が適切であることが挙げられる。加えて、そこには作家の目配りが行き届いているという気配が、確かにある。ギャラリーの人々の言葉を借りるなら、作品に伴うこの種の「Firm(確かで/堅牢)」な印象は、本展に出展されている全作品を点検した後も揺らぐことはなかった。実際に作品を目にすると、経年に起因する変化は決して作品の物理的な構造を弱体化させることなく、たとえ変色や変形がわずかに発生していたとしても、それはドイグがほぼ予測している範疇で起こっている出来事のように感じられた。「絵具の奇妙なふるまい」と彼が呼ぶところの経年変化──「それが悪くなったときにどのように性格が変わるのか、それからある色がどのように違う種類の乾燥を引き起こすのか」を見守り、「あらゆる小さなことを楽しんでいる」と述べるドイグであるが、古典絵画技法を踏まえた注意深い制作態度は、総じて良好な作品の保存状態の維持を可能にしているように思われた1。 今回の展覧会のために点検した限り、ドイグ作品には、ほとんど修復の跡がない。制作技法を確かめ来歴を調査するにあたって、この事実は非常に大きな意味を持つ。よく知られたこととして、近代に描かれた絵画作品は、しばしば裏面を当て布によって補強する「裏打ち」の処置が行われており、制作当時の状況を窺い知ることが困難である。一方、ドイグ作品の裏面は、多くの「比較的新しい時代」に描かれた現代美術の作品群の例に漏れず、その多くが制作時の仕様を変更されることなく保存されており、つまりはドイグの「仕事の様子」をそのままに確認することができるのである。 ピーター・ドイグの絵画の裏に、一体どのような発見があったのか。ここからは、支持体(キャンバス)と構造(ストレッチャー・フレーム)の特徴をもって、振り返ってみることとしたい。 1 支持体:透過、液体、しみ キティ・スコットがドイグ本人との対話において振り返るように、1990年代後半から、ドイグの絵具の扱いは変化し、分厚く油絵具を塗り重ねる方法から、「薄い最低限のウォッシュ」へと変容する2。下塗りを施したキャンバスに代わってしばしば用いられるのは、薄い麻布である。水溶性のエマルジョンを溶媒に描かれる絵画は、その薄く艶やかな支持体の上で「流れて」「にじむ」ことになる3。1993年に制作された《ブロッター》の主題そのままに、キャンバスはまさにある種の吸い取り紙=Blotterと化して絵具とメディウムを引き寄せている。私たちがここで目にするのは、分厚く塗り重ねられ隆起し、じりじりと乾く──実のところ、ドイグはそのような油絵具の性質と遅乾性、ままならなさを前向きに評価するのだが──絵画層ではない4。粘り気のない液体は布を通過し、イメージは、あたかも「濾過されたあとの残留物のように」薄いレイヤーとして、ぼんやりと淡く重なり合いながら出現する5。ここにおいてキャンバスは、イメージが出現するための通路、濾過装置として機能しながら、描画層をいわば「漉し取って」いるとさえ言えるかもしれない。 「麻布に水性塗料 Distemper on linen」と表記されるこの種の作品群を裏面から見ると、画布の布目を通過した絵具が、作品と同寸法の「反転図」を描き出しているさまが確認できる。ドイグは、薄く溶いた絵具を何度も重ね、時間をかけて作品を制作する。つまるところ、この裏面に浮かび上がる巨大な「反転図」=しみは、表から作品を鑑賞する際には確認できない第一層の描画の痕跡なのである。おそらく作家の意図を超えたところで、もうひとつの豊かな景色が作品の裏に表出していることになる。 《スキージャケット》(1994年)をはじめ、描き、塗りつぶし、削り、盛り、吹き付ける、複雑な制作工程を描画層から確認できる作品がある一方、《ピンポン》(2006–08年)や《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》(2015年)[図1]のように、裏面に表出した「しみ」が、図らずも描画イメージが形成されるまでの時間の複数層を可視化させ、饒舌に制作の経緯を物語る例もある。後者の作品群のキャンバスは、経過する時間の中間にあって、あたかも砂時計のオリフィスのごとく、過去と現在の境界へ、水気に潤む橋をかけるのだ。 図1 《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》(2015年、水彩塗料・麻)の裏面|筆者撮影 前述の《ポート・オブ・スペインの雨(ホワイトオーク)》のライオンを裏面から見ると、その首は表面に描画されたそれとわずかに異なる角度に伸びている。薄い支持体を裏から見るとき、ドイグが描いた事物の輪郭は完全に重なることなく、互いが互いの影のようにして重なり合う。このわずかな「震え」は、作品に刻まれた時間の距離であり、異なる色彩の階層が放つ非公式の唱和のようなものだ。オスカル・ドミンゲスがデカルマコニー技法を採用して紙に滲ませた《ライオン—自転車》(1936年)のように(ドイグの実践はドミンゲスの技法的「転写」とは異なるが)、ここでは、まさに字義どおり「décalage(ずれ)」「décalage horaire(時差)」が、一頭のライオンの表裏で生じているのである。 ドイグ作品における「時間」の問題は、美術史を闊達に横断しながら「異なる文脈を持つ図像を別の文脈のなかへと送り込み、移し替え、翻訳することをほのめかす」作家の姿勢について考える上で、重要な鍵となっていることは間違いない。桝田倫広は、こうしたドイグの空間的・時間的「トランス(越える/移動する)」性に注視した上で、彼をトランスアトランティック(大西洋横断的 transatlantic)な作家と捉えている6。各地を転々としながら制作を続けてきた実際のキャリアに加えて、主題を、技法を、素材を自在に「超える」ドイグの軽やかさは、画布の表裏を物理的に絵具が通過する時間の痕跡を目にする過程で、より鮮やかに印象づけられることになった。 2 構造:影 ドイグの「軽やかさ」について語るのであれば、ドイグの絵画を支える物理的な構造=ストレッチャー・フレームについても触れておかなくてはならないだろう。大きなキャンバスを張り込むにあたって、ドイグは、金属製の軽量ストレッチャー・フレームを考案し採用している。このフレームは解体が容易で、また、複数の桟により多点で作品全体を支えることができ、必要に応じて細やかにキャンバスのテンションを調整できるようにもなっている。 ドイグ作品の多くについて、展示時にはその物理的な「軽さ」と「扱いやすさ」に驚かされたが、それはこのフレームに依るところも大きい。興味深いことに、作品を垂直に立てると、薄い布の向こう側にフレームは樹木のように浮かび上がり、描画層の「背後から」影を落とす。当然のことながらこのフレームの構造は、白い壁に作品を密着させ展示すれば途端に見えなくなってしまうのだが、いわば、作品点検する者に許されたちょっとした特権として、私はこの現象を目撃することになった。 図2 裏面からの光によりストレッチャー・フレームが浮かび上がる《二本の樹木(音楽)》(2019年、水彩塗料・麻)|筆者撮影 《二本の樹木(音楽)》(2019年)[図2]をはじめ、作品を垂直にした途端、作品に描かれた影と呼応するかのように重なり合う格子(グリッド)状の構造は、キャンバスと絵具層の薄さを明白に認識させるものであった。ドイグの近作に見受けられるこうした「厚みの減少」、あるいは光透過性は、「ジグマー・ポルケの採用した透明な支持体から見え隠れする構造に感銘を受けた」との2014年の作家の証言をふと思い起こさせるものである7。同時に、「より少ない物質でもって表現する」ために「ますます絵から多くを省こうと」している、という一節のひとつの現れであるようにも思われる8。展示時の照明下では、十分に確認することは難しいかもしれない。だが、ドイグの作品は確実に透き通り、絵具は緩やかに溶かれて混じり合いながら、繊維を伝って異面へと連なっている。いうなれば、「絵具はもはや硬い粘着力のある物体ではなく、貴重で変わりやすい、生きたものになって」9、描画層は絵画の起源そのもののように──影のように、痕跡のように、鏡のように、なかば透明な開かれた窓(aperta finestra)として、鑑賞者の前に立ち現れているのである10。 3 時間を旅する 冒頭でも述べたように、ドイグ作品のほとんどすべてに関して保存状態は良好であり、経年変化はドイグの予測の域を大きく逸脱しない範囲で起こっていることのように思われる。このことと、ドイグがメディウムの手綱を緩め、呼吸させ、その自由さに遊ぶことは、一見矛盾するようでいて、実のところそうではない。 ピーター・ドイグは旅をし、たびたび住まいを変えてきた作家である。彼が積み重ねてきた旅とは、おそらく、地理的な距離のことだけを指すわけではない。その旅は、美術史の記憶を辿り、イメージを反芻し、練り直しながら新たなものを生み出してきた工程そのものでもあったろう。キャンバスに染み込む絵具、浮かび上がる構造。そこには、注意深いコントロールがあり、彼が長い「旅」の途中で、絵画上に反芻し練り直してきた反復と修正の蓄積がある。ドイグ自身が注意深く述べるように、絵画においては、「絵具それ自体が完全に勝ってしまわないように」しなければならないし、絵具はイメージを支えるものでなくてはならないからである 11。 ドイグの初期作品から近作までを見晴らすとき、私たちはその技法や構図の変化──比較的大きな差異、とも呼べるかもしれない──に戸惑いを覚えるかもしれない。前者が「綿密に練られた」ように見受けられるのに対して、後者における広々とした空間や溶け広がる絵具が「ゆるく、つかみどころのない」ものであるかのように映るかもしれない。ただし、支持体とメディウムの厚みが減じること、結果そこに「影」が落ちることは、作品の内外を織り成す時間の層を危うくすることはない。むしろ、しなやかに表裏を行き来し呼吸する絵具の浸透率、その広がりにやどる時間には、ふくよかな豊かさを見出せるのではないだろうか。 ドイグ作品の「裏」を見る。そこに確認できるのは、過去から現在へ、現在から未来へと流れる、絶対年代の流れだけではないだろう。絵画の裏に表出するしみと、光を通して表に落ちる影は、作品に内在する異なる時のかたちを描き出す。油は油の、水は水の、布は布の、金属は金属の時間を有している。多種多様な「時間の包皮」12の内側にあって、そのすべてを通過させるものとして、ドイグ作品は私たちの生きる時間に到達するのである。 註 「ピーター・ドイグとアンガス・クックの対話」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、188頁。 自身もしばしば振り返るように、ドイグは絵具と溶剤に何ができるのかを問い続け、模索し続けてきた。「キティ・スコット、ピーター・ドイグとの対話」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、202頁。 リチャード・シフ「漂流」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、170頁。 マシュー・ヒッグス「ピーター・ドイグ──20の質問」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、211頁。 Adam Heardman “Lions, Lifelines, Speedos: The New Paintings of Peter Doig” in Mutual Art, 6 September 2019. https://www.mutualart.com/Article/Lions–Lifelines–Speedos–The-New-Paint/1FD59DD2B457648A (25 May 2020 confirm) 桝田倫広「東京でピーター・ドイグについて想像する」、『ピーター・ドイグ』図録、東京国立近代美術館、2020年、21頁。 Artist interview, Mark Godfrey and Peter Doig “A contemporary visionary (part II) Peter Doig on Sigmar Polke” 5 Dec 2014. https://www.tate.org.uk/tate-etc/issue-32-autumn-2014/contemporary-visionary-part-ii (25 May 2020 confirm) マシュー・ヒッグス前掲書、210頁 ケネス・クラークは晩年近くのティツィアーノ・ヴェチェッリオ作品の自由闊達さを、この一節をもって評価している。以下を参照。ケネス・クラーク(北條文緒訳)『視覚の瞬間』、法政大学出版局、1984年、270頁 岡田温司『半透明の美学』岩波書店、2010年、4頁・19頁。 マシュー・ヒッグス前掲書、211頁。 ジョージ・クブラー(中谷礼仁、田中伸幸訳)『時のかたち 事物の歴史をめぐって』、鹿島出版会、2018年、193頁。 『現代の眼』635号
画家ピーター・ドイグをめぐるエセー(企て)
なぜ私がピーター・ドイグをめぐって、この場でこのような文を書き連ね始めているのか──実は、本展を企画した桝田倫広氏からの、思いもかけない申し出があったからにほかならない。 氏は、かつて雑誌『美術手帖』で特集された「物語る絵画」(2005年6月号)をめぐり、そこに寄稿した私が、冒頭でドイグの絵画を参照しながら、同時代の日本で具象的傾向を持つ画家たちに対し、「物語のガレージ・キット」と、いささか冷ややかな眼差しを向けていたことを覚えていたのだ。 このことについて、氏は今回のドイグ展の図録に寄せた文章に付した〈注9〉でも、同じく具象的な傾向を扱った『美術手帖』1995年7月号(特集「快楽絵画」)や、同1998年11月号(特集「新しい具象」)に触れ、そのたびごとにドイグが参照されてきたことについて言及している。 つまり今回の展覧会は、それこそ注釈的な伏線であるにせよ、ドイグという画家を通じて、当時の日本でにわかに具象的な傾向を示し、少なからぬ影響力を持ったはずの絵画群が、いったいなんであったのか、もう一度、振り返る機会でもあるはずなのだ。そしてそれが、私がここに改めて呼び出されている理由にほかならない。 率直に言うと私は、今回の展示を見て、ドイグの絵画は偉大な達成ではないし、ドイグ自身も画家として巨匠とは言えないことを確認した。確かに画面のスケールは非常に大きいし、内包された絵画空間を組み立てる技巧も非常に凝っている。美術史からの巧みな引用にもこと欠かない。だが、それゆえにというか、ドイグの絵画は、文学でいうと終わりも始まりも見えない巨大な小説でも、思念が高い密度で凝集した一編の詩でもなく、思うがままに書き上げられる散歩的なエッセイ(随想)に近い、という印象を受けたのだ。 人は小説や詩では巨匠になることができるけれども、エッセイで巨匠になるのは難しい。もっとも、急いで付け加えておかなければならないけれども、これは必ずしも否定的な言い方ではない。巨匠を目指すことが最初から求められていない、肩の力が抜けた状態でこそ楽しむことができる絵画というのは、確かに存在している。言い方を変えると、そのように心踊る随想的な絵画であるにもかかわらず、綿密な分析を必要とする巨匠の絵であるかのような堅苦しい記述を当てることから、ドイグをめぐる日本での受容の不幸も始まったのではなかったか1。 その意味で、今回の展覧会で私がもっともドイグらしさを感じたのは、彼が友人と、かつてラム酒の蒸留所であったという建物の一角にある自身のスタジオで、2003年から始めたという映画の自主上映会に寄せた、即席的なドローイング(「スタジオフィルムクラブ」)の連作のほうだった。 会場風景│撮影:木奥惠三 私はこの、一見しては乱雑そうだが、その実、紙に油彩という絵の描き方と、それが上映する映画を告知するという具体的(具象的?)な目的を持ち、併せて上映のあとの雑談や、なんなら即興的なライヴさえ誘発したかもしれないこれら無造作な「ポスター」のほうに、彼の代表作とされる大作以上に、ドイグらしいとしか呼びようのない随想性を見た気がした。それどころか、ドイグが自身でもっとも楽しみながら描いたのは、もしかしたらこちらのほうなのではないか。 そして、この奇妙な連作が帯びる軽くて重い空気感と、ドイグがみずからの評価を確立した論争的な英国を離れ、このスタジオが所在する、幼少の頃に住んだ柔らかな記憶を帯びたカリブ海の島国、トリニダード・トバゴへと移ったこととのあいだには、なにか切り離せない関係があるように思えてならないのである。 註 本展の図録には、ドイグとの対話(インタビュー)が四つ収録されてるが、ドイグは一貫して、驚くほど具体的なことしか話しておらず、現代絵画の議論につきものの観念的なやり取りがいっさいない。 『現代の眼』635号
杉戸洋《the secret tower》1998年
杉戸洋(1970 –)《the secret tower》/1998年/アクリリック、顔料・紙/ 176.0×230.0cm/平成30年度購入©Hiroshi Sugito 杉戸洋《the secret tower》(部分)©Hiroshi Sugito 杉戸洋《the secret tower》(部分)©Hiroshi Sugito 緑色の草原に立つ一本の樹。太い幹の上方から枝が分かれて出ているという樹形から思い出されるのはバオバブでしょう。この推測が正しいかどうか確認しようとタイトルを見れば、そこには「the secret tower」とあるだけ。日本語表記でもなぜか英語で書かれていて、しかも、主流のルールでは本来「The Secret Tower」と表記すべきところそうなってはいない。作者の杉戸洋はその理由についてこう語っています。 タイトルを小文字にしている訳は(若い頃の変な屁理屈で)文章の途中をもぎ取っている感覚とタイトルをあまり強調したくないというところです。この頃の絵はなんとなくカーテンをつけたりと並べ順を変えても紙芝居的に内容が繋がったり変わったりするような制作でした。 (2020年9月2日 杉戸洋から筆者宛のEメール) 「secret」を日本語に訳せば「秘密の/機密の/隠れた」など結構多義的です。「tower」は「塔」でしょう。確かに樹幹の上の方には窓が小さく描かれています。つまり、この樹には内部空間があり、そこには(おそらく)人がいる。そして、この樹=塔は相当大きい。 そんな樹=塔に対して、小さな戦闘機が向かっています。攻撃をしようとしているのでしょうが、大きさから判断するに致命的なダメージを樹=塔に与えるのは難しいのは明かです。無謀なことはわかっているけれども、しかしやらなければならない攻撃……相手は、世界の果てにも見える草原の中で、知らず知らずのうちに巨大に育ってしまった樹=塔。 ここまできたとき、再びバオバブのことが思い出されます。主にサバンナ地帯に育つその樹の名前がここ日本でも知られているのは、『星の王子さま』に登場するからです。小さな星をその根で覆ってしまった三本のバオバブの樹。バオバブは、芽が出てきたことに気づいたらすぐに(見えない)根ごとひっこぬかないと、やがて大地を覆い尽くしてしまうのです。サン=テグジュペリの物語の中で、それは繁殖力の強い悪の象徴として登場していました。 杉戸曰く、この絵を描いた当時バオバブのことは知っていて、しかもアフリカのバオバブは離れたところにあるバオバブと「交信」しているという話を読んだことがあったとも言っていました(2020年9月30日 杉戸洋と筆者との電話)。 ただ、大事なのは、ここに描かれている樹がバオバブかどうかを確認することではありません(無粋なのでそこは確認しませんでした)。そうではなく、クリントン政権期の「砂漠の狐作戦」が行われた年に描かれたこの絵が、「今ここ」の文脈において見たときにまた別の解釈を促してくれることであり、それこそがアートの力だと再確認することです。 『現代の眼』635号
男性彫刻、それともオス彫刻?
会場風景 撮影:大谷一郎 1 いつのころからか、アントニー・ゴームリーの彫刻《反映/思索(Reflection)》(2001)に会うことが、お濠端にある当館を訪ねる楽しみになった。最近、調子はどう?といった気分で近寄って行く。 英国リバプール郊外、クロスビー海岸に展開する《Another Place》(1997)を見に行ったことがある。作者自身から型取りした100人の男性像が海に向かって立っているのだから、百人百様、いずれも激しく風化している。原形を留めない、という常套句が出かかるが、何を以て原形とするのか。むしろ日々変わる姿こそが原形であり、常態であるに違いない。それ以来、ますます当館のふたりが気になる。 ひとりは皇居を見ており、ひとりは皇居に尻を向けている。透明のガラスを挟んで向き合い、屋内と屋外に分かれて立つ。 何を見に行くのかって? もちろん、外のひとりに埃が溜まり、鳩が糞を落とし、蜘蛛が巣を張り、汚れ、錆びついてゆく「風化」が楽しみだ。もうひとりは温湿度が管理された快適な環境で「劣化」から守られている。そうして、エイジングを極度に恐れ、アンチエイジングの肩を持つ美術館という施設が可視化されることを何よりも期待する。 2 その日もエレベーターを降りるまではいつもどおりだったが、手前の柱に大書された「男性彫刻」という文字が飛び込んで来た。ジェンダーの観点から女性に光を当てた展覧会をこれまでに2度開催したので、今度は男性に目を向けたのだと、研究員の鶴見香織さんが企画の意図を語ってくれた。ふたつの展覧会とは、表現された女性をテーマにした「重力と女性像」(2011–12)と作者が女性であることに注目した「解放され行く人間性——女性アーティストによる作品を中心に」(2019)である。前者では、「シナシナした女性彫刻ばかりを展示しました」(鶴見談)というが、残念ながら私はそれを見逃した。 当館のウェブサイトに「過去の展覧会」という頁があり、「日本近代美術展——近代絵画の回顧と展望」で開館した1952年以来の展覧会を一望できる。ざっと振り返ると、展覧会タイトルも時代を反映していることがわかる。古くは「展望」、「流れ」、「新世代」といった、過去から未来へと向かう時間を感じさせる言葉で括る展覧会が多かった。底流に発展史観があったのかもしれない。近代美術館を名乗って生まれたのだから仕方がないか。 近年の「寝るひと・立つひと・もたれるひと」(2009)と「ぬぐ絵画」(2011–12)も女性像に偏った展覧会だったのではないか。前から気づいていたことだが、男性はほとんど横たわる姿で表現されない。彫刻の作例はわずかで、それは倒れた姿となる。古代彫刻がすでにそうであったし、たとえばヘンリー・ムーア《ゴスラーの戦士》(1973–74、兵庫県立美術館蔵)を見れば、現代でもなお変わらないことがわかる。銅像となればみんな直立しており、尚更そうだ。 当館の70年になろうとする歴史を振り返ったところで、「男性彫刻」や「男性」をタイトルにうたった展覧会は見当たらない。「男性彫刻」を額面どおりに受け取れば、男性を表現した彫刻ということになり、その対極に「女性彫刻」が置かれる。しかし、現代においては、そんな単純な二分法で良いのかという声が上がるだろう。「LGBTQ彫刻」もあって然るべき。また、「男性絵画」や「女性絵画」という呼び名も聞かないから、「男性彫刻」は彫刻に限って成立するのかもしれない。あるいは、「男性彫刻」を男性による彫刻と捉えることだってできそうだ。ともあれ、男性にこだわる以上は、なぜ性を問題にするのかを問わなければならない。 会場風景(左から、北村西望《怒涛》、朝倉文夫《山から来た男》、白井雨山《箭調べ》) 撮影:木下直之 3 男性に限らず、性は、少なくともセックスとジェンダーの視点から問うことが当たり前になっている。前者は生物としての性、後者は社会的な存在としての性である。挨拶文に「男らしさ」云々とあり、本展が後者の観点で企画されたことは明らかだ。会場は「強い男」、「賢い男」、「弱い男」から構成される。この三分類が妥当であるかを考えてみたい。 同じく挨拶文は「強い男」を「筋骨隆々の男たち」、「弱い男」を「主に老人像」と要約する。語義において強弱は対概念だから、それが会場の両極を成すことに異論はない。突き詰めれば、筋肉の有無になるだろう。白井雨山《箭調べ》(1908)、朝倉文夫《山から来た男》(1909)、北村西望《怒涛》(1915)の勢揃い(いずれも1907年に始まった文展出品作)は圧巻だが、果たして彼らが「男らしさ」を求めて筋肉表現に熱心であったのか。というのは、西洋彫刻と取り組む彼らは大熊氏廣や長沼守敬に続く第二世代、彫刻家を目指した時点で人間像だけが相手だった。そこでは美術解剖学が必須であり、骨格や筋肉と向き合うことになる。それはジェンダーよりも、むしろセックスの学習だったのではないか。 そもそも、全裸で、股間にだけはイチジクの葉をつけて、箭(矢)の具合を調べる男に「男らしさ」が求められているだろうか。《山から来た男》はさらに奇妙で、いったいどこの山から下りて来た誰なのか。2年前の朝倉の東京美術学校卒業制作が《進化》と題され、旧人らしきオスとメスが表現されたことを考えると、社会的存在としての男は眼中になかったように思う。 明治半ばの画家や彫刻家にとって、課題は老若男女のあらゆる姿態を表現することである。そのために裸体モデルと向き合った。筋肉に「オスらしさ」を追い求めたのであって、それが社会の求める「男らしさ」へと転ずるには、衣服で筋肉を隠す必要があった。そうまでして「オスらしさ」を求めたのに、股間表現においてのみためらい、白井は葉っぱを、朝倉は毛皮を持ち出したことについては、拙著『股間若衆』(新潮社、2012)で問題にし、今回も別に論じた(「股間若衆に春が来た」『芸術新潮』2021年2月号所収)。 残る「賢い男」は肖像彫刻をそう表現したようだが、では「賢くない男」はどこに行ったのか。なぜなら、賢い賢くないを問わず、男たちはこぞって肖像彫刻となり、立派な台座の上に直立したからだ。その証が写真集『偉人の俤』(二六新報社、1928)に他ならない。書名が語るとおりに、収録されている彫刻は「賢い男」ではなく「偉い男」だ。女性もいるが圧倒的に少数である。拙著『銅像時代』(岩波書店、2014)では、銅像になった「賢くない男」や「偉くない男」の存在も暴露した。すなわち肖像彫刻になるのは「偉い男」や「偉そうな男」である。そのためには、身分や地位にふさわしい衣服が欠かせない。裸になるわけにはいかない。功成り名を遂げたころには、筋肉がすっかり衰えているからだ。 最後に、石膏像を引き出したことの意義に触れたい。ここに挙げた3点の「男性彫刻」は、いずれも当館での「文展の名作」(1990)で展示されたが、雨山と西望のそれはブロンズ像だった。それぞれの鋳造は1969年、1977年と、石膏像での発表から半世紀以上も後のものであり、作者は預かり知らない。朝倉のそれだけは石膏像が展示されたが、これを最後に収蔵庫で長い眠りにつき、このたび30年ぶりの出番となった。石膏像は壊れやすく、汚れやすい。美術館がブロンズ像の展示を優先するのは、エイジングよりもアンチエイジングを求めるからだ。その慣習にあえて逆らい、石膏像を引っ張り出した企画者の英断に拍手を送りたい。 『現代の眼』635号
