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あやしい絵展の二つの衝撃

会場風景|撮影:木奥惠三 熱が冷めやらない。展覧会を見終えた後、グルグルと廻る頭を冷ましたところで、二つの衝撃がこの熱を生んだのだと思い至った。 そのファースト・インパクトは、安本亀八の生人形《白瀧姫》ではじまる展示構成だ。長袴の緋色が燃えるように揺らめく黒い床が、初っ端に眼に入る。「絵」の展覧会なのに、立体造形からはじまる展示構成で、鑑賞者の先入観や事前の知識を洗い流してしまう。そしてあやしい世界に稲垣仲静の「猫」がシルエットでいざない、処々でカッティングシートの切り文字の都々逸が、あやしい絵を彩り、蜘蛛の糸のように絡み合う作品群を大きな奔流に輻湊ふくそうさせている。 会場風景 本展では展示ブロックごとに、視覚的に異なる世界を見せようとしていることが明らかだ。甲斐庄楠音の《畜生塚》をはじめとする大型作品を、長手のケースに並べていき、そこからでは見通せない後半の展示ブロックで小村雪岱の挿絵がまとめられている。この展示の位置関係には、大きな意味がある。展示室を歩み進むことで、ケースから離れて作品の全体像を見たり、反対にケースを覗き込む動作は身体的な刺激になって序・破・急のようなインパクトを眼に与えていく。平面作品といっても、物理的な厚さや重さを持つリアルな作品が並ぶ視覚効果は、一つの物語を読み進める心の動きと同じ作用をするのである。 しばしば見かける展覧会——作品を時系列に並べて、展覧会カタログに著したエッセイの挿絵のごとく作品を扱う——では、この物理的な衝撃は生まれてこない。この展示構成によって、本展カタログなどに示された展覧会趣旨を読まなくとも、その意図は伝達されている。 そしてセカンド・インパクトは、幕末・明治から大正、昭和時代に描かれた作品そのものである。とりわけて楠音や岡本神草といった京都市立絵画専門学校の卒業生たちによって結成された「密栗会」の作品は目が離せない。西洋社会の思想潮流が流れ込んだ日本の社会状況に照らし合わせながら、作品が選択されているので現代の私たちの眼にも、突き刺さるような波動を作品の「かたち」から受け取り、ザワザワと心が波打つのである。 また橘小夢の《水魔》を見つめていると、水面に広がる波紋が画面下にあって、河童に画面上へと連れていかれる人物は、もしや男性なのか?と一つの作品の中に深く深く引き込まれていく。なぜこのような心持ちになるかというと、近代日本において、西洋文明の波を受けた暮らしぶりと、現代の私たちの生活は、近代以前の日本の世界観、価値観に立った視点と比べれば、はるかに近しいところにあるからだろう。 そもそも「あやしい」とはいったい何か。時代や地域、さらには階層(「人による」と同義)が違えば、この「あやしさ」の定義はそれぞれ異なるものとなるだろう。 造形の歴史の中では、「あやしさ」はどのように生まれたのだろうか。「美」や「美しさ」といわれるものは、絵に表される場合、しばしば「型」によって表現されている。歴史的にいえば、絵画を制作する主体(多くは宮廷などにおける権力者の男性)が望む「美しさ」が型となって表されている。描かれる対象が女性であれば、男性が望む表情やしぐさが型として継承されていった。そして古今東西問わず「表面的な美しさ」が連綿と描き続けられた中で、それらとは異なるもの、逸脱したものが「あやしさ」として現れたといえよう。大正期には「あやしい絵」が京都で数多く生まれたが、それは上方の浄瑠璃、歌舞伎、浮世絵に表された当世風俗(「世話物」のモティーフ)のあやしい「型」が脈打っているからであろう。 図1 岩佐又兵衛《洛中洛外図屏風》舟木本(左隻部分)江戸時代(17世紀)、東京国立博物館蔵、国宝 その上で18世紀に描かれた曾我蕭白の《美人図》と、大正7年の上村松園の《焔》にしぐさの相似を見るとき、その型は同じ「あやしさ」を生み出しているのだろうか? 「あやしさ」は時代や地域によって千差万別だ。例えば日本の江戸初期に描かれた国宝《洛中洛外図屏風》舟木本に登場する小姓を抱きしめる僧侶の姿[図1]を、この絵を見た人々はどう感じたのか。「あやしく」見えたのだろうか。当時の身分や思想、あるいは男女によっても受容する側の感じ方はさまざまに異なっていたはずだ。 人類の造形史の中で、「あやしさ」をたどることは気の遠くなる作業であるが、このあやしい絵展では、まさにダイバーシティ(ここでは「視点」の多様性)を実感できる。日頃思い描いている世界が、揺り動かされる展覧会ということだ。SNS上でも喧喧囂囂ごうごう、さまざまな意見が飛び交っている。多くの人々が展覧会に注目して、それに向けて意見を発出する展覧会企画はそうそうない。学芸員冥利なことであろう。 本展は大阪へ巡回されるが、展示室の天井高、床の色、照明などが異なる会場で、どんな展示構成となって、アディショナル・インパクトを見せてくれるのだろうか。 『現代の眼』636号

畠山直哉《「Untitled (tsunami trees)」より 2019年10月6日 岩手県陸前高田市》(2019年)

畠山直哉(1958–)《「Untitled (tsunami trees)」より 2019年10月6日岩手県陸前高田市》/2019年/発色現像方式印画/108.0×126.6cm/令和2年度購入 画面の中央に立つ一本の木は、半分が枯死し、半分は葉を茂らせています。どうしてこのようになっているのか。表題にある日付と地名、そして「tsunami trees」という言葉は、それが東日本大震災の際の津波によるものであることを示唆しています。 「Untitled(tsunami trees)」の連作は、この陸前高田の木と同様に、津波に見舞われた樹木を被災地各地で撮影したものです。2020年の初頭に国立新美術館で開催された「DOMANI・明日 2020 傷ついた風景の向こうに」展で発表され、そこから3点を当館の新しいコレクションとして収蔵しました。 作者である畠山直哉は、初期、石灰鉱山をめぐる連作や、その産物であるコンクリートで形作られた都市のあり方を主題とする作品で注目された写真家です。その後も自然と人間の関わりをさまざまな視点から考察する仕事にとりくみ、その理知的な姿勢と写真作品としての審美的な完成度とを両立させた作品は、国内外で高く評価されてきました。 震災はその活動に転機をもたらしました。陸前高田出身の畠山は、このとき津波で母親を亡くし、実家を流されるという経験をします。以降、畠山は陸前高田に通い、震災後の風景を撮影し続けてきました。それらの写真はいくつかの展覧会や写真集などで発表されますが、そこには、震災前の故郷での私的なスナップ写真のような、以前は発表されることのなかった写真も含まれていました。写真を撮ることを通じてこの世界のあり方を探究してきた写真家としての活動の基盤が深いところでゆらぎ、そのゆらいでいること自体を、また考察の対象としている。活動の変化には、そうした事態が反映されていたように思います。 「Untitled(tsunami trees)」の連作は、そのような時期を経て、2017年に、ここに紹介している作品に写されている一本のオニグルミの木に出会ったことから着手されました。「昨日までの時間と、生きている「いま」の時間が、同時に2つ見える」1と、この木について畠山は記しています。 当館では震災をめぐる作品を継続的に収集しています。震災が私たちの社会にとってどのようなできごとであったのか、その経験の深層にあるものを、作品を通じて考え、次代に受け継いでいくことが、美術館の果たすべき役割だと考えているからです。震災後10年という時間の経過の中で、その経験と記憶にどのように向き合い、伝えていくかがあらためて問われている今日、この「tsunami trees」の連作は多くのことを示唆する作品だと考えます。 註 畠山直哉「気仙川のオニグルミ」、『日本経済新聞』2020年3月8日 『現代の眼』636号

版表現で見せる現代美術の動向

会場風景|撮影:大谷一郎      戦後1950年代から70年代の現代日本版画の歴史は、1957年から79年まで開催された東京国際版画ビエンナーレの受賞作を軸としてつくられたといえる。そして、主催者であった東京国立近代美術館には、同館賞はもちろん、大賞を含む多くの受賞作品とその周辺作品が収蔵されている。つまり、この美術館がその気なってそれらを一挙にディスプレイすれば、その間の現代日本版画の歴史的骨格を把握することができるわけだ。  今回、このような美術館が、日本の近現代美術の表現の歴史を体系的に紹介する常設展示室において、第7室と第8室を使い、そうした歴史とコレクションを活かした展示を企画した。見るポイントは、大きく二つある。 ひとつは1950年代から80年代の版画の表現の動向が概観できることだ。 まず第7室は、「1950–60年代—版表現の探求と挑戦」というテーマのもとに、二つの版画による表現の動向を示すコーナーが設けられていた。そのひとつは、瑛九を中心とする泉茂、磯辺行久、池田満寿夫、吉原英雄らデモクラート美術家協会のメンバーと、彼らと交流のあった北川民次による、戦後間もない時期の前衛志向の版画を紹介していることである。この協会は画家・版画家のほかにデザイナーやバレエ・ダンサー、写真家、評論家らによるグループだったが、戦後前衛表現の可能性を版画に見出し、まだ制作者の少なかった銅版画やリトグラフの制作に積極的に取り組んだ。そうした版画への挑戦が見られるのがこのコーナーだ。 第7室におけるもうひとつの展示は、戦前の創作版画からの飛躍的展開を見せる木版画の表現動向を吹田文明と日下賢二の抽象木版によって示していることである。その動向は、恩地孝四郎とその影響下での抽象木版の制作の延長線上に、1950年代に流入したアンフォルメルなどの抽象表現の動向が折り重なって生まれたものだった。 つづく第8室は、「1970–80年代の版表現—拡張する版概念のなかで」というテーマで、1970年代以降盛んになる写真を利用した版画や、同じ時期に流入したコンセプチュアル・アートとの関連性を見せる版表現、そして「もの派」の版による表現を紹介する展示となっている。 このうち、映像を使った版画は、その使用方法や目的の違いによって二種類の表現傾向の作品が紹介されている。ひとつは木村光佑、松本旻、野田哲也による、1970年代主流だった、記号化された映像によってシニフィアン(意味しているもの)とシニフィエ(意味されているもの)という記号学的アプローチを見せる作品である。もうひとつは、東谷武美と池田良二による、1980年代特有の、映像に潜む私的物語を示唆的に表現した版画である。 会場風景    また、この展示室には高松次郎による《THE STORY》や《英語の単語》など、まさにシニフィアン、シニフィエの記号学を美術で表現したコンセプチュアルな版作品と、「もの」が主体である、もしくは人間と「もの」は対等であるという考えのもとで制作した榎倉康二の、「版」「支持体」「インク(絵具)」という基本素材だけを用いた版作品が展示され、1970年代の版画概念の拡散の状況が具体的に示されている。 さて、今回の展示の二つ目のポイントは、版画を軸とした展示でありながら、戦後の現代美術の表現動向が見られることである。デモクラート美術家協会の版画の展示は、戦後間もない時期の前衛美術の表現傾向そのものを示しているし、抽象木版の出品は、同時代の表現の主流が抽象であったことを背景とした展示なのだ。写真映像を使った版画は、それ自体が時代の要請によって制作された現代美術そのものであった。見逃してはならないのは、人間から外界の物体へと探求の対象を移して制作し、「もの派」登場を促した高松次郎の影の絵画が、「もの派」と呼ばれるようになった榎倉の作品と結びつけて展示されていることだ。その関係は、1960年代末から70年代にかけての現代美術の最も重要な表現の動向を知る手がかりとなる。 今回の常設展示は、版表現の動向によって現代美術の表現の動向が概観できる、東京国立近代美術館ならではの展示となっていた。私の知る限り、少なくともこの30数年間はそうした展示が行われたことはない。常設展示室での今回の企画は、版画と現代美術の関係に気づく良い機会になるはずだ。 会場風景 『現代の眼』636号

幻視するレンズ─川田喜久治とウジェーヌ・アジェ

会場風景|撮影:大谷一郎 「幻視するレンズ」と題された本展の出品作品は1911年から1998年の間に制作された。写真家としての活動に限らず、ニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターを務め、各国に巡回した「ザ・ファミリー・オブ・マン」展(1955–62年)の企画でも名高いエドワード・スタイケンに始まり、1960年にサイゴン(現・ホーチミン)で生まれ、戦争や軍隊と関係のある風景を写した作品などで知られるベトナム系アメリカ人作家のアン・ミー・レーまで、本展には近現代写真史に等しい幅がある。本展の表題はそれを貫くテーマであり、現実と虚構をないまぜにするような、想像力あふれる作品が数多く紹介されている。本稿では、その中から特に川田喜久治とウジェーヌ・アジェの作品を取り上げたい。 本展に出品された川田喜久治の連作「ラスト・コスモロジー」は1995年に同名の写真集としてまとめられ、巻末に批評家の福島辰夫が「水晶の波濤………」と題した文章を寄せている。福島はタイトルをシュルレアリストたちに大きな影響を与えたフランスの詩人、ロートレアモンの散文詩集『マルドロールの歌』の第一の歌からとっているが、文中にはロートレアモンが川田の「ラスト・コスモロジー」の噂を聞きつけ、同時代の作家ヴィリエ・ド・リラダンと共に冥界からやってきたという設定で登場する。福島は彼らの言葉として次のように記している。 自分たちの19世紀末から約100年たって、いま、20世紀末の地球は、そして人間は、どのようにしているのでしょうか。[…]20世紀末最後の10年を覆う二重三重の暗雲のなかで、こうした昻揚と充実の、堅固な作品が現われる、そしてそれが現代の宇宙までとどく力強い思想と表現を持っているということは、われわれ表現者一同にとっても、まさによろこばしい一大快挙だと云うべきでしょう1。 図1 川田喜久治《20世紀日本最後の日蝕—小笠原父島》、1988年、東京国立近代美術館蔵 図2 ウジェーヌ・アジェ《サン・リュスティク通り》、1922年、東京国立近代美術館蔵 『ラスト・コスモロジー』の表紙は本展でも展示された《20世紀日本最後の日蝕—小笠原父島》(1988年)[図1]で、裏表紙は1989年1月7日、昭和最後の日に東京で太陽を写した作品だ。同書の時間軸は1969年から1994年まで四半世紀に及ぶが、川田の主な関心は天体にあり、日蝕や空に走る稲妻、怪鳥に似た形の雲など、レンズは空の諸相をダイナミックにとらえている。 福島が現代に召喚した19世紀末の二人の言葉に「20世紀末最後の10年を覆う二重三重の暗雲」とあるが、『ラスト・コスモロジー』が刊行された1995年は1月に阪神・淡路大震災が発生し、3月にはオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた。バブル経済が崩壊し、景気が後退する中で立て続けに起きた二つのできごとは日本社会全体に暗い影を落としたが、そのような状況下で編まれた『ラスト・コスモロジー』には暗い世相を反映しつつも、スケールの大きな、時代を超越するヴィジョンがある。 空を写した川田とは対照的に、本展の冒頭に展示されたウジェーヌ・アジェの視線は1920年代のパリの街中にまっすぐ注がれている。ショーウィンドウのマネキンや、民家が軒を連ねる人けのない裏路地など、アジェが写したパリは静けさに包まれ、都市の標本のような趣さえある[図2]。公共機関に収められるなど、近代化に伴って変わりゆくパリを記録として残すことに重きを置いて撮影されたアジェの写真だが、叙情性を排し、事物を剥き出しにするような即物的なまなざしは、思いがけずシュルレアリストたちに注目され、芸術作品としての価値が見出されるようになった。 本展の出品作品ではないが、アジェにも川田と同じく日蝕に関連した作品がある。1912年4月17日にフランスで観測された金環日蝕で、アジェがレンズを向けたのは天体ではなく、日蝕を見るためにパリ中心部のバスティーユ広場に集まった人々だ。アジェでは珍しく人物が写り、大勢の人間が同じように空を見上げ、日蝕を観察する様子が記録されている。そこには日蝕という特異な天文現象に対する、今と変わらぬ関心が露わになっている。 エドワード・スタイケンの後任としてニューヨーク近代美術館の写真部門のディレクターを務めたジョン・シャーカフスキーは、1978年に企画した「Mirrors and Windows」展で1960年以降のアメリカ写真を「鏡」と「窓」に例えて紹介した。すなわち、写真家の自己表現の手段である「鏡」と、写真家が世界を探求する手段の「窓」の二つに分けられると2。 一方で、本人も述べるように、「鏡」と「窓」の両方の性質を備えた写真もある。記録として撮影されたものの、シュルレアリストたちに芸術的価値を見出されたアジェや、暗い世相を反映しつつ、時代を超越するヴィジョンを示した川田の作品は、それになぞらえることが可能だろう。ここで改めて本展の表題に立ち返れば、幻視とはそうした両義性を呼び込むものなのかもしれない。ときに、写真家の意図を超えるかたちで。 註 福島辰夫「水晶の波濤………」、川田喜久治『ラスト・コスモロジー』491、1995年、44頁 John Szarkowski, Mirrors and Windows: American Photography Since 1960, New York: Museum of Modern Art, 1978, p.11を参照。 『現代の眼』636号

新しい素材

会場風景 撮影:大谷一郎  右端の作品が、土谷武《開放 I》1997年。 学生だった時分1、鉄は「現代的な表現」の花形素材だった。その頃の私は人体塑像に可能性を感じていて、鉄という素材には殆ど触れず仕舞いなのだが、当時、現代美術と呼称されていた表現に敏感な先輩方は鉄で作品を制作していたし、その頃の『美術手帖』で目立っていた日本の彫刻家といえば土谷武、若林奮、村岡三郎。皆さん鉄を扱っている。いまでは鉄による彫刻作品は珍しくもなく、屋外彫刻などではメジャーになり過ぎたきらいもあるが、私にとっての鉄は「新しい素材」として、いまも目の前にある。本展は、そんな私に改めて鉄と彫刻のこれからの関係を想像させてくれる機会となった。展示空間を徘徊し、佇んだ3時間。 展示作品は、台座の上にあったり、自立していたりと様々だ。自立している作品の、その接地する部分は立っている姿形とも言えるし、立たせる為の装置とも言える微妙な様相を呈している。人体彫刻では地山と呼ばれる、作品とも台座ともつかない機能がある2。それと同じと言えばそうなのだが、果たしてそう言い切れるのか。ドレスやズボンの裾だと言ってみたらどうか。立ち上がっているはずなのに垂れていて、影の様にズルズルと地面に接触する存在。これを、鉄という素材の条件——取り外しが容易であり、わずかな点によっても固定ができる——が彫刻家を導いた様相と言い換えてみよう。下から上に立ち上がる一方向からの自立とは違った彫刻の立ち方がそこにある。 主張の強い、完結させようと思えばできそうな形同士が、突然くっついて関係してしまう。これは、鉄の彫刻作品全般に抱く印象である。自然につながる形ではない。不意に訪れた事故から不可避的に導かれてしまう行きずりのサスペンス。更に近づいて見てみよう。形の結びに現れる溶接痕とグラインダーの磨き傷、そしてねじ。ここに、工夫が美的態度になる瞬間がある。無関係なものを結びつける為の物理的制約を、作品の視覚的な必然として確信犯的に馴染ませていくしたたかな技量3。ツギハギ、ボタン、ステッチといった衣服の作法と機知がここでも重なっていく。 会場風景 撮影:大谷一郎 多くは面による構成であり、薄いものの組み合わせでできている……様に見える。鉄板が薄そうで軽そうなことに起因するのだろう。だが、印象に騙されてはいけない。実際には明らかな厚みと重みがある。作品はこの鉄の印象と現実のズレを、作品の条件として引き受けることから組み立てられている。面的であり、開放的であるが、それ以上に板的である4。 単一の素材で制作された作品において、作者にこれだけの出会いと別れを繰り返させる素材を私は知らない。それは鉄が一口に鉄と言われながら、多様な姿と名前を持っているからに他ならない。そして、その姿に私たちはそれぞれの物語、記憶を重ねている5。彫刻家の仕事とは、その物語を裏切り、素材をこれまで関係のなかった別の物語に巻き込んでいくことだろう。彫刻は、その結果として私たちの眼前にある姿の呼称に過ぎない。 鉄という巷でお馴染みの物質——既製品と言っても差し支えはあるまい——の持つ魅力とは、馴染みがありそうで見慣れない、軽そうで重く、硬いが柔らかい、姿形を変えて私たちの生活に近づいている、そのわかりづらさではないだろうか。鉄は、まだまだわかりづらい既製品として私たちの目の前にある。鉄彫刻というイメージを作る側と見る側で決め込まない限り、鉄は芸術の素材としての新しいルールを私たちに差し出す、かもしれない6。 註 1993–99年 そのことも含めて作品であろう。 土谷武《開放Ⅰ》上下の四角をつなぐ部分とその前方の板の厚みの違いに注目。 デイヴィッド・スミス《サークルⅣ》と若林奮《北方金属》に敷かれている板(サインが刻印されている)の厚み。 H形鋼=ビルの建設現場(テレビのサスペンスドラマ。鉄材が落下する一幕)。I形鋼=何となく、線路のレールを思い出す(小さな恋のメロディ、スタンド・バイ・ミー……古いなぁ)。鋼板=工事現場の床面(雨の時など特に)。丸鋼管(パイプ)=TV、映画のケンカシーンで凶器といえばこれ。etc……。 本稿では個別の作品に対する記述を意図的に避けた。それは、本展の内容は鉄による彫刻のこれまでの可能性と限界を同時に示しており、その意義を考えた際、各作品に固有の内容を記すことが憚られたからである。本稿で記した彫刻の内容は、出品作がそれぞれに保持しているものと筆者は捉えている。また、本稿では色彩についての指摘も意図的に避けた。話せば長くなるのが理由である。一点だけ指摘すると、鉄には塗装や磨き以外に錆や黒皮という皮膜、焼けた際の色など、色彩に多くの選択肢がある。鉄の色彩のイメージは、我々の生活に馴染み、網膜に定着している。彫刻家はこのことも視野に入れて色彩との関わりを模索している、はずだ。 『現代の眼』636号

冨井大裕《board band board #2》2014年

冨井大裕(1973 –)/《board band board #2》/2014年/アクリル板、ポリプロピレンバンド/40.0×40.0×42.0cm/令和2年度購入/撮影:大谷一郎 厚さ3cmのアクリル板が14枚積み重なっています。一番上と下をのぞいた12枚の板には、赤+青、黄+緑と2パターンの帯が交互に巻かれています。これは段ボールの梱包などに用いられるポリプロピレンバンド(PPバンド)です。 同一の矩形の積み重ねという手法や形体は、少し戦後美術をかじった人には、1960年代に生じたミニマル・アートと呼ばれる動向を想起させるでしょう。けれど、物質感の希薄な透明素材、バンドの幾分チープな色味、そして見る角度によってアクリル板に挟まれたバンドの一部が消えるトリッキーでイリュージョニスティックなしかけは、小難しい歴史的なしがらみなど、どこ吹く風とでもいうように軽やかでもあります。 冨井大裕は、既製品を使った立体作品でよく知られる作家です。用いる既製品は画鋲、スーパーボール、クリップ、鉛筆、ハンマーなど、実にさまざま。冨井は自身の制作について以下のような説明をしています。 「ものをそのままでありながら異なるものとして立ち上げるためには、どのような構造を選べばよいか。ものが与える条件(サイズ、素材、重さ、形、ものが常識的にまとっているイメージなど)から構造は選択される。選ばれた構造は、自身に最適なものの新しい使用法を見つけ出す。新しい使用法は、そのものとその構造のため以外には採用されない。そして、採用されたその時から、使用法は使用法ではない、ものの新たな条件となる。条件とは不自由であり、可能性である。不自由からしか自由は得ることが出来ない」 (冨井大裕ウェブサイト、ステイトメント「作ることの理由」より)1 どうやら「もの」が持つそもそもの条件と、新たに付与される条件、二つの条件に冨井の関心は向けられているようです。アクリル板にピシッと均一に巻かれたバンドは、この作品の色彩や構造を担う「新たな条件」となっているわけですが、一方で、巻いて使うものという「既存の条件」から外れないことで、梱包資材という用途を見る者にイメージさせ続けます。冨井の手続きによって生じるこの二つの条件の類似と差異、ここに作品の魅力や鑑賞の面白味の一端があるように思われます。 ところで、冨井は2011年以来、日々の生活の中で見出した彫刻的なもの、風景、状況などのスナップをSNSで発信する「今日の彫刻」という試みを継続しています2。ものとものとの取り合わせの妙、偶然のコンポジション、ものに対して為された匿名のアクション、意図せぬユーモアなど、どの写真からも冨井の関心の所在がよく感じられます。カジュアルなプレゼンテーション方法だからと侮ることなかれ。冨井が制作においてどのように「既成の条件」から「新しい条件」への道筋を描いているのか、これらの写真にはその重要なヒントが見え隠れしています。ぜひご覧になってみてください。 註 http://tomiimotohiro.com/statementj.html https://twitter.com/mtomii 『現代の眼』636号

ネコロジカル・シティ

隈研吾氏の個展である。大勢の人で賑わいそうな企画と会場だが、COVID-19感染対策のために入場が事前予約による定員制となっており、余裕のある会場空間でゆっくり見回ることができた。 展示は2つの会場に分かれている。第1会場には氏が手掛けた「公共性の高い」70件近くの建築プロジェクトが選ばれ、模型や映像など様々な方法で展示されている。それぞれのプロジェクトは「孔」「粒子」「やわらかい」「斜め」「時間」という、通常は建築の要素とは考えられていないだろう言葉が「新しい公共性をつくるための5原則」として掲げられ、これらに沿って会場が構成されている。これだけの数のプロジェクトが世界中に散在していることにまずは圧倒される。きっと「隈研吾氏の時代」として記憶されるようになるだろう。 図1 第1会場 会場風景|撮影:木奥惠三 私が特に楽しんだのは第2会場だった。こちらは「東京計画2020 ネコちゃん建築の5656原則」というタイトルが掲げられている。東京計画といいつつ展示内容は計画案ではなく、CGアニメーションやプロジェクションマッピングを用いて、ネコの視点から街を見直してみるというものだ。これが、街の隙間にいるネコの様子を巧みに捉えていて、じつによくできている。挙げられている「5656原則」は「テンテン」「ザラザラ」「シゲミ」「シルシ」「スキマ」「ミチ」というものだ。それぞれの「原則」について、猫の視点から映し出された街の様子が並んでいる。「テンテン」はネコに取り付けたGPS受信機の軌跡のマッピングである。「スキマ」はプロジェクションマッピングを使って再現されている、建物の裏を上り下りするネコの様子である。体の影や足あとだけで描かれた、飛び降りたり歩いたりするネコの動きはまるで本物のようで、ネコ好きの人なら声を上げるだろう。「ザラザラ」は、ツルツルな既存のコンクリート壁と、ザラザラの仕上げが施されてネコが上り下りできるようになった壁とが対比的に描かれているCG動画である。ネコに手がかり(というか足がかり)を与えるものとして木製ルーバーが使われていてちょっと笑ってしまったのだが、なるほど、隈建築はネコ・フレンドリーな表層をしているのだった。第1会場の建築模型には所々に添景としてネコが置かれていたのだが、その伏線がこのように第2会場で回収されるわけである。 図2 第2会場 《東京計画2020 ネコちゃん建築の5656原則》より「ザラザラ」 一度でも飼ったことがある人なら知っていることだが、ネコはじつに、私たちヒトの思惑から自立した生き物である。しつけや訓練でネコをヒトの生活に合わせることはできない。トイレも寝場所も、ヒトがネコに合わせて環境を整える必要がある。ネコは呼んでも来ないが、望むときはこちらの仕事を邪魔して注意を引こうとする。ネコと暮らすことはネコの生き方にヒトの生活や環境を合わせて調整していくことである。ネコとヒトの関わりは古く紀元前8000年頃まで遡るが、ネコはヒトに捕まって家畜化されたのではなく、ネコ自らがヒトと共生することを選んだらしい。野生のヤマネコとイエネコの遺伝子にはほとんど違いがないことが知られている。ネコは1万年にわたって、あくまでもネコの勝手でヒトのそばに暮らしているのである。 図3 我が家の好ましい他者|撮影:石川初 つまり、ネコは身近な他者である。ネコの振る舞いを通して眺める街の風景が私たちの見慣れた都市風景を揺さぶるのはそのためだ。だから、ネコにいいことはヒトに快適なことばかりではない。細い木製ルーバーで覆ったコンクリートには土埃が溜まり草が生え、虫も湧くような湿った壁になるだろう。それは私たちが街から排除してきたものであるし、今後も排除し続けるだろう。そして、建築はたとえネコ・フレンドリーな様子を帯びたとしても、その排除の役割を負い続けるだろう。 しかし、ネコの始末に負えない点は、見た目が可愛いということである。私たちはなぜか、ネコを愛しむ感性をもっている。私たちのネコへの接し方は、住居に勝手に住みついている他の生物、たとえばゴキブリなどへのそれとはずいぶん違う。ネコはままならない他者でありつつ、憎めない好ましい存在である。この点において、街を見直す補助線としてネコを選ぶのはなかなか巧妙である。ままならなさと好ましさを併せもつものとして、建築物に載せられる「植物」にも似ている。と、ネコを飼いながら園芸も嗜む私は思ってしまうのだ。 ともあれ、「他者の目で見る」のは街歩きの基本である。ぜひ、ネコロジカルな目を得に出向いてほしい。1点、残念だったのは第2会場を見終えたあと、再び第1会場に入ることができなかったことである。感染対策のためということで仕方がなかったのだが、第2会場で獲得した「ネコ目線」をもってもう一度建築プロジェクトを眺め、登りやすそうなファサードだニャ。などと呟いてみたかった。[編集部註] 編集部註こうしたご指摘を受け、隈研吾展では、第1会場と第2会場との行き来ができるよう、館内の対応を改めました。ただし、会場が混雑している場合には、お待ちいただくことがございます。 『現代の眼』636号

出来事を興す—加藤翼インタビュー

00年代末から、木材で作った巨大な構造物を大勢の人がロープで引っ張り、倒したり立ち上げたりする行為を写真や映像で発表してきた加藤翼(1984-)。当館では、東日本大震災後の福島県いわき市に集まった約500人が参加した大規模なプロジェクトを撮影した《The Lighthouses – 11.3 PROJECT》(2011)を収蔵する。MOMATコレクションでの展示(2021年6月1日~9月26日)を機に、作品の制作背景や理念を伺った。 聞き手:成相肇(東京国立近代美術館主任研究員)-2021年7月27日オンラインでのインタビュー 加藤翼《The Lighthouses – 11.3 PROJECT》2011年 キャプチャ画像 ――まず、《The Lighthouses―11.3 PROJECT》の制作背景や経緯をお聞かせください。なぜあの場所で、なぜ灯台なのでしょう。 東日本大震災が起きたときに僕は大阪にいて、3月12・13日に大阪城公園で「引き倒し」のパフォーマンスをやる予定でした。現地の人たちの家の形をトレースした構造体を作って引き倒すというプランだったんです。その搬入作業中に震災の速報があり、夜に映像で被災状況を知って、家を引き倒すというパフォーマンスをやるわけにはいかないんじゃないかと考え直すことになった。翌日のイベントはひとまず中止にしてもらって一昼夜悩んだのですが、全部なかったことになるのも違うと思ったし、変化があることは大事なリアクションにもなりえるという気がした。そこで、水平に寝ている構造体を一方向から引っ張るプランを二方向から引っ張るプランに変え、パフォーマンス名の「引き倒し」を「引き興し」に改めることにしたんです。一方向から引っ張るだけだと構造体の自重で勢いよく倒れるんですが、反対方向からも引っ張れば、ゆっくり転がすことができる。ゆっくり倒せるようになったことは大きな変化でした。 東日本から遠い大阪でどうしていいのかわからない気持ちが残っていたこともあって、4月の下旬から知人たちと被災地ボランティアに行きました。東北各地を回ってみると、他と比べて被災状況がそれほど報じられていなかった福島のいわき市には瓦礫がまだたくさん残っていて、ボランティアも少なかった。そこで炊き出しや建物の修繕や整体などを行いながら、いわきなら東京から通いやすいし、ずっと関われるんじゃないかと思ったんです。 その後、緊急支援的なボランティアの必要が徐々になくなってきて、地元で知り合った土建屋(小泉工業)さんから瓦礫撤去が大変だと聞いて手伝うことになりました。ボランティアというのはどうしても支援する側とされる側に立場が分かれちゃうんだけど、撤去作業員になることで、地元に近づけた。作業中に自宅の瓦礫を見に来る人から思い出話とかを聞きながら、その距離の縮まり方がすごく大切なことに思えたんです。外から来た非被災者の立場でありつつ中に混ざっていって、ここでひとつのプロジェクトができたらいいんじゃないかと考え始めました。 それから自分がアーティストであることを周囲に話して、相談していきました。山積みになった木造家屋の瓦礫は今まで使ったことのない大きな角材だったんですが、それを使って作品を作ってみたい、というより、そのくらいのことをしないと瓦礫撤去を通じて関わっている地域に対するリアクションにならないんじゃないかという気がしたんです。とりあえず何を作るかは決まらないまま、木を集め始めました。 いわき市はそもそも合併して生まれた大きな市で、海側と山側では文化も違います。僕らが作業していた海側にあたる豊間地区では皆が高台へ避難して移住し、そのまま戻らずに地区が成り立たなくなる懸念があった。そのことを踏まえて作品のモチーフも決まりました。豊間地区とその北の薄磯地区にまたがって立つ塩屋埼灯台が津波の被害を受けて消灯していたことに着想を得て、人を呼び戻す意味合いと、航行の目印である灯台というシンボルを重ねて、モチーフは灯台がいいだろう、と。 土建屋さんが別の地域の瓦礫も集めてくれて、被災したコンビニの店長から提供してもらった場所で自家発電しながら制作しました。半年くらいかかったので、今までで一番長いプロジェクトですね。できあがった構造体は起こせるかわからないほど重くなって人数も必要だったので、じゃあお祭りにしちゃおう、と地区長さんが言ってくれたんです。あの頃、震災後の自粛で夏祭りはどこも中止していたので、祭りをやりたいという思いもあったと思う。演歌歌手、よさこいやフラダンスのダンサー、和太鼓の人たちも呼んで、一時的な集合のポイントを作ることになりました。 11月3日(3.11を逆にした日)当日の「引き興し」の様子は作品の映像に収まっている通りです。灯台はそのまま固定して1ヶ月くらい立ったままにして、自分たちが使っていた発電機と大きな照明を仕込んで、近くの住人にお願いして毎日点灯してもらっていました。それから取り壊して間もなく、塩屋埼灯台が再点灯しました。 「引き興し」当日の様子 提供:加藤翼 「引き興し」当日の様子 提供:加藤翼 ――当館に加藤さんの作品が収蔵されたのは、東日本大震災にまつわる作品であること、また、それに伴って災害後の人々の協力や協働の姿が描かれていることが大きな要素になっています。それが作品の主題であるとして、協力や協働は単にひとつの目的が与えられるだけでなく、対立や異論を前提にしてこそ成立し、効果を発揮するものだと思います。本作の制作過程において異なる立場はありましたか。 作品に関しては、外部から来た者によるイベントであることや、瓦礫を使うということへの批判も予想していました。露骨に家の形がわかるような部材を避けたこともあって、そこに異論は意外とありませんでしたが、地区に関して言えば、同じ地区の中でもいろんなレベルの被災があって、当事者をめぐる軋轢がありました。前提として、僕を含めて参加者の中に立場の違いがあったわけです。それと、「引き興し」はそもそも、二方向から引っ張ることで構造体の向こうの人が自ずと見えなくなる仕組みなので、見えない人同士が協力して調整しつつ引っ張るという特徴があります。 ただ、「引き興し」そのものが何かを解決するわけではなくて、僕はいろんな立場の人が混在するポイントを作っているだけです。そして、それがすごく重要なんです。常に存在しているけれど、きっかけがないと流れてしまう点。それを目に見える形で記録したいと思っています。協力や協働が主題と言えるかどうかはわかりませんし、それが大事だという感覚はありません。もちろん大事だけど、それだったら別のやり方もあるでしょう。協働は目的じゃなくて結果で、すでにプロセスにおいて発生して終わっています。僕にとっては、出来事を作ることにプライオリティがある。やってみないとわからない、すべてをコントロールできない、出来事。そのときどきの重力、そのときどきの動きが作品として結晶化されるんです。 もちろん土地や時代に結びついた条件からは離れられず、この作品の背景には震災という前提があります。でも、引っ張っている人全員が、途中から楽しいからやっているんだと切り替わるタイミングがあると思う。避難した人たちを呼び戻すためだけのお祭りではなく、joyが発生する。 僕と地元との距離が縮みすぎて同一化しちゃうと、被災者のためという目的が強くなって、例えばソーシャリー・エンゲイジド・アートだ、というように作品がカテゴライズされてしまう。それはいいことだとは思っていません。その関係を引き戻すバランスを考え続けています。 加藤翼《The Lighthouses – 11.3 PROJECT》2011年 キャプチャ画像 ――加藤さんの初期作品では、大きな構造体を引き倒すというナンセンスな自己目的が作品の重要な要素であったと思います。それは、綱引きのようなスポーツや祭りの神輿のような、大人数が瞬発的に力を発散する遊戯に近い文化イベントを連想させます。ここでは、地区長が発案したお祭りという設定がポイントになっていますね。 お祭りというのは、どこまでが中心の構成員でどこからが参加者なのかわからない。誰が作っているかわからないところにおもしろさがあります。例えばテキ屋のお店があったとして、そこに並ぶ人もまたお祭りの雰囲気を作っている。「引き興し」もそうでありたいと思っています。被災地のプロジェクトだけど参加者が全員被災者である必要はなくて、「引き興し」が持っているある種の身体性やゲーム性によって、「出来事」化されて別物になるところがあると思う。 ――出来事であるからこそ、表現媒体として映像を選ばれているわけですね。起き上がる構造体を撮ったカメラと構造体に仕込まれたカメラの2つの視点が合成された画面になっているのも、「出来事」と関わるでしょうか。 このタイプの作品を始めてからは、引っ張っている人の背後や横から説明的に撮っていて、試行錯誤を経て構造体の視点が一番しっくり来たんです。人間の主観的な視点だけではなく、構造体の視点は出来事そのものに近づくんじゃないかと。特にこのプロジェクトの場合、いろんな立場の人がぐちゃぐちゃっと混ざっていたので、ひとつ上の視点、灯台そのものの視点が欲しかったんです。 僕が好きなアーティストに、ロバート・スミッソン(Robert Smithson, 1938-1973)やフランシス・アリス(Francis Alÿs, 1959 -)がいます。スミッソンの《スパイラル・ジェッティ》(1970)もひとつの出来事だと思うんです。アリスの作品もまた、出来事性というか、時間を使ったパフォーマンスの要素を持っています。彼らのように壮大なスケールを持ちながら、詩的で美的なパッケージに最終的に持ち込むことが、僕の理想です。出発点にある固有のストーリーからどれくらい飛躍して、作品として閉じ込めることができるか。それが問われていると思っています。 会場風景 撮影:大谷一郎 『現代の眼』636号

「ゆるさ」を徹底する

とても、隈研吾らしい、、、隈研吾展である。 カタログ所収の保坂健二朗「建築展のプロセス」によれば、展覧会の端緒は、新潟県長岡市の複合施設「アオーレ長岡」である。駅に直結し、様々な人が思い思いに滞在するこの建築の「特徴的な公共性」に感銘を受けた保坂が、今回の隈の個展を企画した。 とはいえ、この展覧会はそうした地に足のついたモチベーションとは別の、特殊な意味も持たざるを得ない。なんと言っても、隈は紆余曲折を経た新国立競技場のデザイナーなのだ 1。それを主舞台とする東京五輪に合わせて国立の施設で開かれているのが本展である。だから私たちは、どうしたって、あの建築がどう展示されるのかが気になる。くわえて、展覧会が当初予定された2020年は、隈が母校の東京大学教授を退任するタイミングでもあった。つまり、作品的にもキャリア的にも、なにかしらのピークや画期が演出されてもおかしくない展覧会だったのだ。 興味深いことに、現実の展覧会は、全体としては拍子抜けするほどに通常モードな隈研吾展である。「孔」「粒子」などの近年のキー概念によって展示セクションを5つに分け、「公共性」に関係する代表作の模型が所狭しと陳列されている。ユニークなのは、映像コンテンツを盛り込んだ点だろう[図1]。作家3名による映像インスタレーション、及び東日本大震災と熊本地震の復興建築の施主インタビュー映像が制作された。他人の視点と声を介することで、「対話」を重視するこの建築家の特徴がよく引き出されている。 図1 「復興と建築をめぐるインタビュー」|撮影:木奥惠三 「隈らしい隈展」と冒頭表現したのは、特別と言うべきタイミングの展覧会での、こうした通常モード感にほかならない。畢竟、本展は代表作をカタログ的に一覧する「隈建築入門」的展示であり、モニュメンタルな意図はほぼ込められていない。このことは新国立競技場の扱いにも示されている。競技場は最初の展示室で(それこそ象徴的に)観客を出迎えはする[図2]。しかし断片的なスタディ模型に留められていて、公共性という主題から深堀りされることもない。完成版はというと、「粒子」セクションの隅っこで、いかにもワンオブゼム的に展示されるのみだった。 図2 《国立競技場》2019年|撮影:木奥惠三 著述家としても多作な隈は自らの思想を言葉で明快に表明してきた。なかでも「負ける建築」はよく知られた概念だろう。巨大で目立つ、つまり「勝つ」建設行為が嫌われるポストバブル時代の日本において、いかに「負ける」ことで建築をつくるか。この思想からすれば、なるほどモニュメンタリティを極力排した本展はとても隈らしい。喧々諤々の議論の火種になりそうな競技場をことさら強調しないのも、当然とさえ思える。 隈研吾はいまや、1964年五輪で活躍した丹下健三にならぶ国民的建築家だ。隈自身、セクション解説やカタログでたびたび丹下を引き合いに出している。展覧会内展覧会と言うべき「東京計画2020」も、丹下の「東京計画1960」との比較が興味深いプロジェクトである。しかし「負ける建築家」隈は、当然ながら丹下のように壮大なプランなど描かない。むしろSNS時代の炎上回避のスター、ネコに表現を任せ切ってしまう。ネコはさらにロゴやサイン計画、模型にも散りばめられている[図3]。こうして会場は和やかな、ゆるい雰囲気をまとうことになった。 図3 会場内の案内パネル そう、この展覧会はゆるく、、、楽しむべきものだと思う。図面展示は少なく、平面図に至っては一枚もない。建築の構成を厳密に考えてもらうことなど、そもそも想定されていないのだ。それよりも、まずはゆるく建築を楽しんでもらうこと。「厳密さ」と「ゆるさ」は、巨大で複雑な建築というデザイン領域においては必ずしも相容れない性質ではないが、少なくとも今回の展示では明快に優先順位が付けられ、そのためのデザインが徹底されている。 実際、厳密に見れば疑問点が次々と浮かんでくる展覧会ではある。競技場の曖昧な位置づけ、図面を排する一方で専門的な固有名がオンパレードの解説、「建築展と映像」というテーマにそぐわない形式的なゾーン区分……等々。つまるところ、展覧会全体を統括するような視点が見出しづらい。 だが、このような疑問は、全体から細部までの一貫性を是とする建築のトレーニングを受けた人間だけが覚えるものなのかもしれない。本展が放つメッセージは真逆である。建築の全体性、一貫性など放棄し、ゆるく考えよ——。そう受け取れば、別の意味での強固な一貫性が立ち現れてくる。その意味では非常にラディカルな展覧会と言える。正直に言えば、そうした「ゆるさ」が未来の建築と建築家になにをもたらすのか、評者には判断がつかない。しかし、こうした「ゆるさ」の許容こそ、ルーバーという絶対的なデザイン・シグネチャーを持つ隈建築の特徴そのものであり、全国津々浦々で(それこそ「ゆるキャラ」のように)受け入れられてきた要因でもあった。 この意味でも、本展はやはり「隈らしい隈展」だ。対話を好み、ネコを愛で、iPhoneでパシャパシャと写真をとる。丹下のような英雄的な建築家とは対照的な、親みやすく「ゆるい」建築家像がたくみに表現されている。 註 新国立競技場は大成建設・梓設計・隈研吾建築都市設計事務所の共同企業体による設計。 『現代の眼』636号

野口彌太郎《巴里祭》1932年

野口彌太郎(1899 –1976)/《巴里祭》/ 1932年/油彩・キャンバス/116. 3 ×104.0cm/令和2年度購入 夜の情景。狭い路地を埋め尽くすように、たくさんの男女が手を取り合って踊っています。街の灯りによって闇の中から浮かび上がる青、白、ピンクなど鮮やかな衣装が目を引くでしょう。描いたのは、野口彌太郎。1929–33年にパリに留学、マティスなどに傾倒し、帰国後は独立美術協会の会員となりました。この作品はパリで制作されたもので、帰国の翌年、1934年の第4回独立展で最初に発表されましたが、そのときの題名は「七月十四日祭(モンパルナス)」でした。フランス革命の端緒となったバスティーユ牢獄の襲撃の日、7月14日を記念して、毎年フランスで行われる革命記念日の祭を描いたものです。 映画好きの方なら、この題名を聞いてルネ・クレール監督の映画「7月14日」(Quatorze Juillet、邦題「巴里祭」)を思い出すかもしれません(おそらく映画の邦題が有名になったため、この絵の題名も後に現在のものに改められたと考えられます)。そしてたいへん興味深いことに、クレール監督の映画も、野口の絵と同じ1932年に製作されているのです。同じ時代の空気を呼吸しながら生み出された両者を見比べてみてもおもしろいでしょう。とはいえ、野口の絵には何らかのストーリーがあるわけではありません。野口は帰国後まもない時期に発表した文章の中で、次のように述べています。 「絵画はもっとそれ自体の価値、存在に邁進したいものだ。文学的要素も、音楽的要素も、又は記録的要素も、説明的要素も、何んでもそれはそれ等の部門にゆずって、絵画としての立場をまもりたい」1。 ここでは絵画の自律性、つまり絵画は視覚的な探求に徹すべしということが主張されており、その考えはこの絵にも貫かれているといってよいでしょう。この絵の旧蔵者である友人の画家、大久保泰は、明部と暗部の強烈な絵具の対比を称賛しましたが、それに応えて野口は、ただのけばけばしい対比ではなく、油絵の透明性を活かした重ね塗りの表現(グラッシ)の重要性に注意を促しています[2]。なるほどこの絵の暗部をよく見ると、奔放な筆致ではありますが、緑などの寒色と、その補色となる赤褐色とが重ねて塗られていて、闇の深みの表現や、全体の色調のバランスに注意が払われていることに気づかされます。その上ではじめて、明部の鮮やかな色彩が活かされているのです。 註 野口彌太郎「偶感:絵画は絵画的にあれ」『独立美術』15号、1934年12月、p.70 大久保泰「野口彌太郎のことなど」『みづゑ』495号、1946年11月、p.53 『現代の眼』636号

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